終章 ファウナの庭
神の棲む場所
――神域。
それは人間の文明圏に寄り添いながら存在し、されどこれまで開拓を許さなかった原初の大地。未だ文明の手より逃れている純然たる自然界。古の信仰において、神が住まうとされる領域である。
神域は静寂に満ちていた。冬の厳しさに耐えきれなかった生き物は死に絶え、凍てついた樹木はさながら墓碑のようだ。かろうじて凍死を免れた生き物たちも深い眠りにつき、微睡みの中で春の到来を今か今かと待ちわびている。
そんな神域において、例外が二つ。敷き詰められた雪に轍を刻みながら懸命に歩く二人の影。防寒着に身を包んだミランとファウナである。
「ミランさん、あれはなんですか? 鳥の巣のように見えますが」
雪風で鼻の頭を赤くしたファウナが指さした先。裸の大樹の上のほうに、小枝が積もっているのが見える。確かに、鳥の巣に見えなくはない。
「あれは熊棚だな。熊が木の実を食べるために木に登った跡だよ。折れた小枝が残って鳥の巣みたいになるんだ」
「へえ、あれがそうなんですね! 初めて見ました!」
ファウナはここが人跡未踏の人外魔境だと失念しているかのように明るい声をあげた。いつだろうと、どこだろうと彼女の本質は変わらないらしい。
その様子を微笑ましく眺めながらも、ミランは周囲の警戒を怠らない。
神域探索には、この二人だけで訪れた。フローラには留守番をお願いしている。ミランも神域にはよほどのことがなければ近づかない。元より、〔神狩り〕は境界の守り人。どちら側にもみだりに足を踏み入れるようなことはしない。
つまり、この神域探索はミランにとっても初めての試みなのだ。その状態で、何人も同時に護衛することはできないと判断し、フローラには残ってもらった。
しかし、ミランでさえ初めてだというのならば、二人は何を指針に歩を進めているのか。
「いい感じですね。確実に近づいています。こっちです」
雪を踏みしめて歩くファウナの瞳は淡く光を帯びている。魔法使用時に伴う発光現象だ。魔法で手掛かりを探っているのか。
「……それにしても、顔がピリピリします。これが雪焼けですか」
「そうだ。お前は肌が白いから、特に焼けやすいだろうな」
雪国では夏場よりも冬場のほうが肌が焼けると言われている。それは雪に陽光が反射し、上からも下からも日差しが当たっているからだ。おまけに、冬は太陽の位置が低く、空が澄み渡っているため、彼らを照らす日の光は他の季節よりも強い。
「帰るころには顔だけ焼けていそうで、恥ずかしいです。お風呂でフローラにからかわれるんだろうなぁ……」
「少しくらいは焼けていたほうが健康的だぞ。お前もフローラも、病気かっていうくらい白いからな」
「基本的には研究職ですからね。……さて、少し真面目な話をしましょうか。わたしがかねがね疑問に感じていることについてです」
「そうだな。そろそろ聞いておかなきゃと思ったいたところだ」
足を動かし続けたまま、ファウナが語り出す。
「ミランさんと生態調査を行って半年。別の地方から生物の流入を除けば、イール地方の生物相に大きな異変は見当たりませんでした。ですが、一つだけ不可解なことが起きています。それは、生物の大型化です」
ミランはこれまでの日々を思い返す。セトゲイノシシは外来種なので除外するにしても、おおくち、カネオトシ、馬陸……そのほか、生態調査で出会った数々の生物たち。確かに、異様に発達した個体が目立つ。
「作物だって表年と裏年があるだろう。そういうものじゃないのか?」
「だとすれば、何らかの傾向が見えてくるはずです。ですが、これまで遭遇した生物たちに規則性があるとは思えません。そもそも、セトゲイノシシがこの地にやってきたこと自体、不自然なんです。別に、この土地でなければ生きていけないわけではありませんし、ここに永住するのなら、あの〈森の王〉と競合しなければなりませんから、得策とは言えません」
「なるほど。言われてみれば、確かに不思議だな。それで、なんでその原因が神域にあると思ったんだ?」
「魔法を使ったからですよ」
「魔法ってやつは、そういうことまでわかるのか」
「魔法は、そこまで万能ではありません。ただの偶然です。ですが、あの時、わたしが時空系魔法を使わなければ、ずっと気づかないままだったでしょう。ところでミランさん、水を一杯に張った桶に、手を入れたらどうなります?」
「そりゃ、水が溢れるんじゃないか?」
当然だろ、とばかりにミランは答える。
「では、水が溢れないように桶に蓋のようなものがしてあった場合は、どうなると思います? あ。蓋をしていたら手なんか入らないというのは無視してください」
「……蓋がしてあるから溢れないけど、その代わり、水が手を押し返してくる?」
その答えに満足したように、ファウナが頷いた。
「素晴らしい。その通りです。わたしが覚えた違和感はまさにそれです。通常、空間を操作しても……意志の力を挿入したとしても、空間には際限がないので押し返しはありません。ですが、〈森の王〉に魔法を使った時、確かに押し返しのようなものを感じたのです」
「……桶に蓋をしているように、空間が閉じているのか?」
「そこまでは、何とも。ただ、壁のようなものがあると感じました。それが生物の大型化傾向と因果関係があるかは不明ですが、可能性がある以上、確認しなければなりません。さあ、もうすぐですよ」
連なった墓標のような森を抜けると、開けた場所に出た。
そこで二人を待ち受けていたものは――
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