渡り竜

 竜と呼ばれる生き物がいる。


 それがどういう生き物なのかと問われれば、翼の生えた蜥蜴と答えるのが最も簡潔かつ適切な表現だろう。


 ただし、その大きさは通常の蜥蜴と比べるまでもない。一番小型とされる種でも全長は一間二尺約2.5m、翼開長は五間約9mにも及ぶ。あらゆる生物相の頂点。この世界における最大、最強の捕食者である。


 ちなみに竜という呼び名はあくまで俗称で、動物学的な分類では有翼爬虫類と呼ばれている。


 それはともかく――それが、目の前にいた。


 茂みの奥から、のそりと竜が現れたのだ。


 予想外の出来事にフローラの思考は真っ白になり、糸の切れた人形のようにぺたりとその場に座り込んでしまう。


「フローラ殿、下がってください!」


 血相を変えてアクイラが叫ぶが、フローラはその場から動かなかった。いや、動けなかった。腰が抜けているのだ。


 フローラの顔からはさっきまでの勝気な表情は消え失せ、血の気が引いて蒼白としていた。巨大であるということは、ただそれだけで人間を無力化する。恐怖という原始的な感情によって。


「くっ!」


 アクイラはそばに置いていた剣を掴むとフローラをかばうように竜の間に割って入った。人間相手であれば一本で十分な抑止になる刃物も、この巨体の前ではあまりにも頼りない。


「アクイラさん、フローラを連れて下がってください! それはレスニアに生息している羽毛竜ではありません! です!」


 大平原で確認できる竜は、一部の例外を除いて、おおむね二種類。


 一つは羽毛竜。

 大平原に生息している有翼爬虫類の中で最小の種だ。名前の通り、全身を羽毛のに覆われた姿をしている。温厚な気性で、人が踏み入れないような森や山奥に生息しているため遭遇する機会も少なく、相対的に人間に対する脅威度は低い。


 もう一つは渡り竜。

 文字通り生活圏を転々とする竜のことだ。本来の生息地は海の向こうにあるとされ、夏になると南風に乗って大平原まで渡ってくる。


 時期的に雨季や台風と重なるので、古の信仰において竜を風雨の化身、またはその遣いだと考えられていた。渦巻く上昇気流を竜巻、積乱雲を指して竜の巣と呼ぶのはそういった由来があってのことである。


 渡りに夏を選ぶのは、彼らが外温性の生理特性を持つ生き物だからだろう。爬虫類は自身で熱を作る能力が低いために寒さに弱い。体温調整の大部分を環境に依存している彼らは寒い季節が来ると、海を越えて暖かい地方へ移動するのである。


 渡り竜の体格は羽毛竜と比較して遥かに大きい。標準的な個体で全長五間三尺約10m、翼開長六間約12mという正真正銘の化け物だ。あくまで標準であり個体別にはもっと大型のものも存在する。戦闘力に関しては言わずもがな。


 幸運といえるのは、この個体がまだ若いことだろう。標準的な個体よりも、一回りほど小さい。


 爬虫類は寿命の限り成長する。それは竜も同様だが、体の成長に伴って増え続ける自重が飛翔能力を超えてしまうと、渡りができなくなり、最後に降り立った土地に永住するようになる。そうなった個体を老成竜と呼ぶ。


 老成竜はもはや災害だ。一度暴れれば街が消えるほどの被害が出る。


 それに比べれば、この個体はまだ十分に対処ができる大きさだ。ただし、挑む者の安全を考慮しなければ、だが。


「ふ、ふふ……まさか、自分が竜殺しの試練に挑むことになるとは……! だが、相手にとって不足なし!」


 アクイラは凄惨な笑みを浮かべるが、剣を握る手は震えていた。だが、そんな彼女を臆病者だと笑えるものか。自分よりも何倍も大きな生き物に平然と立ち向かえる者など、この世界のどこにも居はしない。


「無茶です、アクイラさん! 下がってください!」


「ミラン殿から頼まれたのです。お二人を守るようにと。自分は、彼の信頼を裏切るわけにはいかない。たとえ、この身に代えても!」


 ――駄目だ。


 ファウナの明晰な頭脳が導き出したのは、あまりにも当然の答えだった。


 戦闘が始まれば、アクイラは間違いなく死ぬ。いくら命を賭けたとしても、その結末はひっくり返らない。渡り竜の討伐には一頭あたり一個中隊が妥当だという。それほど絶望的な戦力差なのだ。


 ただし。それはあくまで歩兵基準で考えた場合だ。


 ――これしか、ないか。


 ファウナは観念し、こう宣言した。


「アクイラさん。本当に下がってください。――使



     ◇



 その少し前。


「ほいっ」


 浮きが沈んだのを見計らい、ミランは手首を返した。釣り糸がびんと張りつめ、水面から一尺ほどの川魚が身をくねらせて飛び出す。そのまま竿を引くと、川魚は振り子のような軌跡を描いて彼の手の内に収まった。


「いやあ、大漁大漁」


 慣れた手つきで針を取って、魚を魚籠びくに放り込む。


 魚籠の中にはすでに川魚が何匹も入っている。全員分の昼飯としては十分すぎる量だ。弓を竿に代えてもミランの狩りの腕は変わらないらしい。


「あー、いい気持ちだ」


 新しい餌をつけないまま竿を手放すと、ごろり、と岩の上に寝転んだ。


「いつ以来かな、こんなにのんびりと過ごすのは」


 空の青。森の緑。川のせせらぎ。自然の奏でる音色を聞いていると、何ともいえない充実感で満たされる。


(やっぱり、俺は猟師なんだなぁ……)


 ファウナやフローラみたいに賢くない。アクイラのように誰かを守れるわけでもない。別に劣等感があったわけではないが、自分はこういう生き方しかできないのだと痛感する。


 ただ、少しだけ寂しくはあった。


 自分に生き方を教えた父はもういない。その生き方を受け入れ、見守ってくれた母もいない。かつては存在したという各地の〔神狩り〕の寄り合いもない。孤独を感じないと言えば、嘘になる。


 とはいえ、今更生き方は変えられない。ファウナのようにも、フローラのようにも、アクイラのようにもなれない。トゥアールの人々のようにも。


 だから、寂しさを飲み込んで。俺の人生が終わるその時まで、俺は俺のまま在り続けるのだろう――


 そんなとりとめのないことを考えていると、睡魔が襲ってきた。


 ふと意識が落ちる寸前、視界を大きな影がかすめた。


 鳥にしては大きすぎる影。ゆっくり周囲を旋回したかと思うと、少し離れたところに降りて行った。


「……嘘だろ」


 それが意味することに気づいた時、すでに眠気は雲散霧消していた。勢いよく上半身を起こす。


「もうそんな時期なのか……!」


 竿や魚籠もそのままに、ミランは森の中を駆け戻った。




     ◇



 その言葉を聞いたアクイラの判断は早かった。


 アクイラはフローラを抱え、瞬時に飛び退く。それと入れ替わるようにファウナが前に出た。


 フローラのように成熟しているわけでも、アクイラのように鍛えているわけでもない、無垢な少女の体つきは竜と対峙するにはあまりにも小さい。


 武器も持たず。鎧も身に着けず。それどころか、一糸さえ纏っていない無防備な体を晒して、けれど、ファウナの瞳には強い輝きが宿っていた。


 ――戦いで使うのは、初めてかな。


 魔法戦はおろか、何かと命を賭けて戦うことすら彼女は無縁だった。だが、泣き言は言っていられない。それしか現状を打破する方法はないのなら、いま自分が戦わなくては。


我思う故に我ありコギト・エルゴ・スム


 ファウナは覚悟を決めると、聞き慣れない言葉を口にする。


 それは魔法を使うための詠唱。脳の抑制を取り払い、意識の精度を高めるための自己暗示。全身の神経が極限まで緊張し、感覚が研ぎ澄まされ、不可視域の情報さえも知覚化して観測する。その全能感は魔法使いにしかわからない。


 そして、その状態になった魔法使いは世界に干渉することができる。意志という見えない手で、物質の状態に変化を加えるのだ。炎を生み出したり、稲妻を放ったりするのはあくまで結果に過ぎない。


 魔法とは、意志によって世界を改変する力そのものを指すのだ。


 渡り竜の喉が震えた。目の前の小さな毛のない猿に違和感を覚えたのか。縦長の瞳孔がきゅっと引き絞られる。


 ――先に仕掛けなければ。


 ファウナは意を決し、最後の引き金に指をかける。


「我が求めは――」


「――待て!」


 その声は、空から。


 森の木々を足場に跳躍を繰り返し、ミランは流星を思わせる速度でファウナと渡り竜との間に着地した。


「ミランさん!?」


 突然の登場に、ファウナが目を白黒させる。


「大方、こんな状況じゃないかと思ったよ。危ないところだった」


「どいてください、今から魔法を――」


「やめておけ。心配しなくても、何もしなければこいつは襲ってこないよ」


「ど、どうしてそんなことがわかるんですか……!?」



 ミランの口から信じられない言葉が出た。


 この竜を友達と呼んだか、この男は。


 ミランがそっと手を差し伸べると、渡り竜はまるで甘えるように鼻をこすりつけてくる。嘘のような光景に、三人は唖然とした。


「こいつらは敵じゃない。お前も威嚇するな」


 言葉が通じたのかは定かではない。だが、渡り竜はファウナたちを縦長の瞳孔でじっと見つめると、ふいと首を反らした。まるで関心が失せたように。


 そして、のっそりと歩を進めると、湖の中に身を沈めた。


 ざば、と溢れた水が四人の足元を濡らす。


「「「はあああああ……」」」


 冷たい水が心地よいのか、渡り竜が嬉しそうに目を細めているのを見て、三人はその場にへたり込んだ。


「俺が思っていたより、渡ってくるのが早かった。びっくりさせたな」


「びっくりどころじゃないですよ。死ぬかと思いました」


 ファウナが口を尖らせる。すでに魔法使いとしての威圧感は消え失せている。


「ミラン君、もしかしてさっき言ってた友達って……」


「こいつのことさ。数年前に、怪我しているところ見つけてな。渡りの途中で、何かと争ったらしい。で、手当てをしたら懐かれた。それ以来、この時期になると顔を見せに来るんだよ」


「犬は三日飼えば三年恩を忘れないというけど……それって竜にも当てはまるものなの?」


「知らないよ。でも、事実としてあり得るんだから、考えてもしょうがないだろう。……ところで」


 ミランは気まずそうに三人から目を背ける。


「その、なんだ……これは不可抗力だよな?」


 その言葉に三人は自分たちがすっぽんぽんであることをようやく思い出し、桃色の悲鳴を上げた。フローラだけがわざとらしかった。




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