湖畔の乙女たち

 準備を終えた三人は小川を遡り、森へ入った。


 道中、ファウナが何度かこけそうになったが、それ以外は何事もなく、すいすいと森の中を踏破していく。


 簡単そうに見えるが、素人ではこうはいかない。森の中は似たような景色が延々と続くために現在地を見失いやすいし、暗い茂みの奥には獰猛な動物たちが息を潜めている。そういった危険を回避し、安全に進行できるのはミランというこの森を知り尽くした優秀な案内役がいればこそだ。


 そうして数刻ほど獣道を歩いていくと、藪を抜けた先に開けた場所に出た。


 ミランの言うとおり、そこには小さい湖があった。天然の窪地に川の支流が流れ込んでできた自然湖だ。


 しばらく雨が降らなかったおかげで水は濁っておらず、底が見えるくらい透き通っている。厳しい日差しは梢が遮り、風は涼やか。隙間から見える空は青々として、小鳥の囀りが耳に心地よい。避暑地としては十分に合格点だ。


 ほああ、と何とも言えない感嘆の息を漏らす三人。


「思ったよりも小さいですが、綺麗な湖ですね」


「地質学的には沼か池なんでしょうけどね。湖と呼ぶには水深が足りません。さらに言うなら、透明度は高いし、水底にも植物があまり自生していないようなので、沼とも違います。天然池が正しいのかもしれません」


 アクイラの誤謬を、ファウナが細かく指摘する。


「どうでもいいじゃない、地質学者じゃないんだから。でも、沼とか池じゃ気分が盛り上がらないから、以後、これは湖と呼ぶように。ところでミラン君。確認だけど、このあたりに危険な虫とか魚とかいないでしょうね?」


 待ちきれないと言わんばかりに、そわそわとフローラが尋ねる。


「森の中に危険じゃない場所はない」


 猟師としての矜持なのか、安全という言葉を使いたくないミランであった。安心は慢心につながる。ちょっとした油断が命取りだ。


「だがまあ、大丈夫なんじゃないか?」


「どっちなのよ」


「わたしも大丈夫だと思います。閉鎖された生態系は競争相手の少ないので、攻撃的な特性を持つ生き物は少ないでしょう。いざとなればアクイラさんがいますし。まあ、虫だとお手上げなわけですが」


「いやあ、お恥ずかしい……」


 アクイラが赤くなって、頭の後ろを掻く。


「まあ、いざって時は虫除けの香草を焚けばいいだろう。それで、だいたいの虫は追い払えるからな」


 犬除け、虫除けの香草は旅人の一般的な装備だ。森の中に踏み入るのだから、三人とも当然のように携帯している。


 じゃあ、いつぞやの馬陸騒動の時に使えよと思うかもしれないが、あくまで除虫であって殺虫ではない。すでに侵入しているものに対しては効果がない。それに、あの日は雨天で、おまけに室内だ。部屋ごと燻してしまうと、それはそれで後片付けが面倒なのである。


「それにしても、こんな素敵な場所があるなんて。お手柄よ、ミラン君」


「俺も知ったのは数年前なんだ。友達に教えてもらった」


 ミランの発言にフローラが眉を顰める。


「……ミラン君、友達いないって言っていなかった?」


「人間の友達はな」


 何とも意味深な発言である。だが、詳細を語る気はないらしい。ミランはアクイラのほうを向いて、釣竿を掲げる。


「そういうわけで、アクイラ。あとは任せたぞ。俺はもうちょっと上流に行く。お前たちが呼びに来ない限り、動く気はないからな。思う存分、涼むがいいさ」


「はい。お任せください」


「じゃあ、行ってくる!」


 アクイラが敬礼で返すのを確認すると、ミランは踵を返して、岩場を飛び越えていった。その姿はさながら岩場の山羊のようだった。


「……あんなに楽しそうなミランさん、初めて見ました」


 ぽつり、とファウナが呟く。


「一人が好きだって言っていたけど、私たちが来てからはそうそう一人になれなかったしね。たまには羽を伸ばしたいんでしょう」


「そうですね。ミラン殿もゆっくりしていただきましょう。彼の代わりに自分がお二人をお守りいたします」


「それじゃあ、みんな。泳ぐわよ!」


 言うが早いか、フローラが勢いよく服を脱ぎ棄てた。



     ◇



 かくして、女だけの湖水浴が始まった。


 三人とも水着など持ってきていない。服も下着も脱ぎ捨て、生まれたままの姿で水浴びをしている。


 ここはミランの案内なしでは到達すら難しい森の奥。他の人間が誤って辿り着けるような場所ではないので、覗きをされる心配はない。強いて可能性を挙げればミラン当人なのだが、彼がそういう人間でないことは三人とも理解している。


 とはいえ、それでも思い切った采配だ。水着を準備する手間も惜しいほど、暑さに辟易していたのだろうか。


「あれはルリカゲロウじゃないですか。透き通った水色の翅が綺麗ですね。あ、こっちにはミズアゲハが飛んでる。おお、この石の下にはサワガニさんがいるじゃないですか。見て見て、フローラ。蟹さんですよ」


 ファウナは水浴びなどそっちのけで、にっこりと喜色満面で水辺の生き物の観察をしている。


 ――可憐さという意味では三人の中でファウナが一番だろう。


 透明感のある白い裸身。細身を通り越して華奢ともいえる。三人の中で最も小柄ということもあり、抱きしめれば折れてしまいそうなほど儚かった。


 発展途上の乳房はもちろん、うっすらと浮き出た肋骨、腹筋が弱いために胃下垂気味でやや膨らんでいる腹部など、年齢としてはすでに大人ではあるが、女と呼ぶにはあまりにも少女の面影が残りすぎている。


 だが、下半身の肉付きには目を見張るものがあった。自称する通り、ファウナの尻は大きい。たっぷりと脂肪がのった柔らかそうな肉置きは、見る者に彼女も女であると鮮烈に意識させる。


 清楚さと淫靡さ。相反する魅力が絶妙に両立した裸身である。


「はいはい、ファウナは元気ねぇ。挟まれないようにねぇ」


 元気いっぱいのファウナとは正反対に、フローラは脱力して水の上を穏やかに漂っている。


 ――破壊力という意味ではフローラの圧勝だ。


 背格好こそファウナよりもちょっと高い程度だが、胸の発育は三人の中でも一番である。いや、別格とさえ言っていい。何を食ったらそこまででかくなるんだと文句を言いたくなるほどだ。


 その破壊力抜群の大きな二つの膨らみが、水面にぷかりと双子島のごとく浮かんでいる。もしこの光景を覗き見る者がいるのなら、ああ、脂肪って水に浮くんだなと感心することだろう。


 何より驚異的なのは、必要な部分にしか肉がついていないことだ。腰回りはきゅっと括れているし、尻も小ぶり、太腿もすらりとしている。なんと都合のいい体か。


 おまけにフローラはファウナよりも少々背が高い程度。女性としては平均的よりやや小柄な体格だ。性格はともかく、外見だけでいえば男の願望がぎっしり詰まった魅力的な裸体である。


「ファウナ殿、足を滑らせると危険です。あまりはしゃぎすぎませんよう」


 アクイラは半身を水につけつつも、二人から目を離さない。ミランとの約束だ。彼が不在の今、二人の安全を最優先するべく構えている。


 ――総合力という意味では、アクイラに軍配が上がるだろう。


 アクイラは三人の中では最も年上だが、それでもまだ二十歳の女盛り。女として一番魅力溢れる年齢だ。


 そもそもにおいてアクイラは骨格が美しい。かっちりとした肩に、引き締まった太腿。力強い腹筋。日頃の訓練の賜物か、その肢体には無駄な贅肉というものが一切存在しなかった。


 それでいて大きさといい、張りといい、形といい、実にちょうどいい塩梅の胸と尻。鍛え上げられた筋肉質な体躯ではあるが、女性らしい柔らかさが随所に残されている。同性ならば憧れずにはいられない健康美を宿した裸体だ。


 三者三葉、和気あいあいと水を浴びる姿は女神たちの沐浴を思わせる。これを覗き見る何者かがいるのならば、劣情よりもその芸術性に涙するだろう。


 しばらくして、ふと、ファウナが森の奥を見やる。


「……ミランさん、大丈夫でしょうか」


「この辺りはミラン君の庭でしょ。心配することないわよ」


 ぷかぷかと漂いながら、フローラ。


「そうじゃなくて、暑いのはミランさんも同じだったはずです。わたしたちだけ堪能していいのでしょうか。それに、この湖だって本当はミランさんの秘密の場所だったのに……」


「そうですね。本人は釣りがしたいと仰っていましたが、我々を優先してくれたのでしょう。彼の気遣いには痛み入ります。何らかのお礼をするべきですね」


「こんな美少女たちに囲まれているだけで十分役得だと思うけど。とはいえ、確かに義理は通すべきね」


 フローラは水死体のように浮くのをやめ、体勢を変えて水の底に足をつける。


「男の人って、何が喜ぶんでしょう?」


「そうねぇ。お風呂で背中でも流してあげるとか」


「あ、それくらいならできそうです」


 庶民の間では親しい人間の背中を流すのは当然だという。友好の証らしい。ファウナは名家の生まれで、賢人として独り立ちする以前は何をするにも使用人の手を借りていた立場だったが、そういう文化があることは知識として知っている。


「もちろん、裸で」


「急に難易度が跳ね上がった!?」


 付け加えられた言葉に、ファウナは顔を真っ赤にする。それを見て、からからとフローラは笑った。


「じゃあ、膝枕はどうかしら。男の子、好きそうじゃない?」


「確かに健全で、かつ特別感がありますね」


「もちろん、裸で」


「また難易度が! というか、なんで裸推しなんですか!?」


「きっと喜ぶわよ?」


「わたしみたいな貧相な体を見ても嬉しくないですよぅ……」


「じゃあ、私がしてあげようかしら」


「……フローラ殿。ミラン殿はぶっきらぼうですが、高潔な御方だ。そのような低俗な申し出など受け入れるはずがない」


 諫めるようにアクイラが口を挟む。


「いーえ。あれは絶対むっつりよ。じゃなきゃ男色家よ」


 フローラの口ぶりは容赦がない。本人がいないからといって言いたい放題だ。


「だいたいね、こんな美少女たちと一つ屋根の下なのに、そういったことが一切起こらないって逆に失礼でしょ。私たちに魅力がないって言っているようなものよ。すんごい癪じゃない?」


「女としての沽券ですか。まあ、言いたいことはわかりますが」


「まあ、ミラン君を信用しているからこそ、三人揃ってすっぽんぽんなわけだけど、そもそも、こういった状況なら、覗きの一つでもするのが礼儀おやくそくってもの――」


 その時、がさり、と茂みが動いた。


 ファウナとアクイラはばっと身をよじり、胸元を隠した。


「へえ。面白い展開じゃない」


 ただ一人、フローラだけがにやりと不敵な笑みを浮かべ、陸地へ上がった。前を隠しもしない。仁王立ちだ。ある意味で男らしい。


「ちょ、ちょっとフローラ! ミランさんだったらどうするんですか! いえ、ミランさん以外でもまずいですよ!」


「案内なしで、こんな場所まで来られる人間なんていやしないわよ。いやいや、ミラン君もお約束がわかる男だったか。私は嬉しいわ。危うく男色家認定するところだった」


 フローラは、ずんと大地を踏みしめ、肢体を見せつけるように腕を開いた。


「さあ、ミラン君! 観念して出てきなさい! お約束に乗っ取って、桃色の悲鳴を上げたあとに、冷やした胡瓜とか西瓜とか投げつけてあげるから!」


「「何言ってんの、この人!?」」


 ファウナとアクイラは普段の丁寧な言葉が抜けるほどに呆れ返って叫ぶ。


 三者三様の大声に反応したのか、がさがさと茂みが大きく震え、奥から何者かがぬっと顔を出した。


「ん?」


「え?」


「は?」


 それは、三人の予想をはるかに超えたものだった。



     ◇



 ミランは手ごろな岩の上に腰掛けると、かつてないほど上機嫌でせっせと釣りの準備をしていた。


 ああ、一人で釣りに興じるなんていつぶりだろう。


 最近、ミランは思い知った。孤独というのは貴重品で、自分は今までの贅沢な暮らしをしていたことに。大事なものは失って初めてわかるというが、まさにそうだ。


 別にファウナとフローラと一緒に暮らすのが耐えられないというわけではない。ただ、一人になりたいのに一人になれないという強制感が苦痛なのだ。


 これが肉親であればそんな気遣いなどしなかっただろう。実際、彼の両親がまだ健在だったころは、そのような強制感など覚えなかったのだから。


 だが、あの二人はそうではない。血の繋がりもなく、同じ土地で育ったわけでもない、ただ同い年というだけの女の子。家族とは最もかけ離れた存在だ。


 おまけに、本人たちの前では絶対に言わないが――二人とも、ものすごく可愛いのだ。


 そんな二人と四六時中一緒にいると、いろいろと感情の整理に困るようなことが多発するわけである。


 例えば風呂上がりの甘い香りとか。屈んだ時に襟元から見える胸元とか。足を組み替えた時にちらりと覗く裾の奥とか。


 ミランも年頃の男だ。腹さえ減っていなければ、そういった部分に興味がないわけではない。だが、そういった目で見るのは自分を信頼してくれている彼女たちに申し訳ないし、それが原因で関係が崩れるのも怖かった。そういう状況に陥るたびに、理性と本能がせめぎ合い、僅差で理性が勝っていただけの話である。


 要するに、彼女たちとの生活は気遣いの連続、気苦労の連続なのだ。抑圧された感情はいずれ爆発する。一度でもそうなってしまえば、これまで積み重ねてきた信頼関係が水の泡となる。


 そうならないために、ミランは自分一人の時間を取り戻す必要があった。


 その意味で、アクイラには心の底から感謝している。アクイラが同行してくれなければ、二人のお守りをするのは自分だったのだから。騎士だというだけで目の敵にしていた過去の自分に矢を打ち込みたいくらいだ。


 周囲を気にすることなく、自分にことだけに没頭できるなど夢のようだった。


(俺はいま、生きている……!)


 ミランは謎の感慨を抱きながら、釣り糸を投げた。


 え? 覗き? なにそれ、美味しいの?

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