第五章 それは化石のような

夏休み

「……秋生まれの人って、いるじゃない?」


 ミランが表で薪を割っていると、少し離れた木陰に敷いたむしろで伸びていたフローラが唐突に口を開いた。


 雨季が終わりを告げ、世の中はすっかり夏となった。ぎらぎらと太陽は輝き、まだ昼前だというのに陽炎が揺らめいている。


「なんだって?」


 うまく聞き取れなかったのか、ミランが問い返す。夏蝉の合唱に負けてしまいそうなほど、フローラの声には覇気がなかった。


「だから、秋生まれの人よ。この村にも何人かいるでしょ?」


「まあ、そりゃあな。人間、生まれるときは生まれるだろう。季節に関わらずな」


 頬を流れる汗を首に巻いた手拭いで拭きとると、ミランは手斧を振り上げる。


 ぱかん、と小気味よい音を立てて薪が真っ二つになった。


「……人間の妊娠期間は十月十日とつきとうかって言うじゃない?」


「そうらしいな」


 新しい薪を薪割り台に乗せ、手斧を振りかざす。ぱかん。


「すごいわよねぇ……」


 もういっちょ。ぱかん。


「いや、本当……すごすぎだわ、よくもまあ……」


「……だから、お前は何が言いたいんだよ」


 まったく要領を得ない会話に、思わずミランは薪を割る手を止めた。フローラらしからぬ歯に物が詰まったような、回りくどい言い方だ。


 わからないの、とばかりにフローラは上体を起こす。暑さに辟易したように目が据わり、白い肌がじんわりと汗ばんでいた。日陰にいてもこの有様。今日がいかに暑いか窺い知れよう。


「だから、秋生まれの人は逆算すると前年の夏に懐妊したわけじゃない。どんな心境だったら、こんなくそ暑い時期に子供作ろうと思えるんだろうって考えてたのよ。子作りどころか、日常生活でさえやる気が起きないってのに」


「……そりゃ、秋生まれの人の親に聞いてくれ」


 ミランは呆れた。本当にどうでもいい内容だった。


「というかだな。人が炎天下の中で汗水たらして薪を割っているのに、自分だけ日陰で涼みやがって。何様のつもりだ」


「国家賢人様よ」


「暑いなら家の中にいろ。外よりはいくらかマシだろ」


「できるなら、そうしているわよ」


 フローラはひらひらと手を振った。


「いま、ファウナが報告書を書いているんだもの。邪魔できないでしょ」


 ミランの家で物を書けるような広い机があるのは食堂だけだ。ファウナはそこを生態調査、その中間報告書の執筆のために独占している。そして、食堂は家の中心にあるため、出入りをすればどうしてもファウナの集中を削いでしまう。


「俺の邪魔はするのか」


「単調な作業に飽きないように、適度に声をかけてあげてるんじゃない。ありがたく思いなさいな」


「……手伝おうって気はないのか。この薪、何に使うと思う? お前たちの飯を炊くため、風呂を沸かすための薪だぞ?」


「研究職の不器用さを舐めないほうがいいわよ。私に薪割りなんてさせてごらんなさい。かえってミラン君の仕事が増えるわよ」


 ふふふ、とフローラは不敵に笑った。何を偉そうに。


 すると、


「――人間のようにいつでも繁殖できるというのは、生物の世界では結構珍しいんですよ」


 家の中から、人数分の湯飲みを乗せたお盆を抱えたファウナが出てきた。湯飲みに注がれたのは麦湯だ。湯といっても、冷まして飲みやすくしてある。


「ほとんどの動物や植物には発情期が存在し、決まった時期に一斉に繁殖します。それは彼らが季節繁殖の性質を持っているからです」


 ミランとフローラに湯飲みを配りながらも、解説は止まらない。


「例えば、桜は春に花が開きますが、桜にとってその時期が一番繁殖に適しているからと考えるのが自然です。それぞれの種に子育てに適した季節があり、言い方を変えれば、その時期を逃してしまうと子供が育てられない。だから、適した季節を逃さないために発情期が設けられていると考えられています」


「なるほど」


 ミランは相槌を打ちながら、手渡された湯飲みをぐっとあおった。あっという間に空になる。この暑さでは焼け石に水だ。


「動植物の種類によって繁殖する季節が違うのは、競合を避ける住み分けの結果でしょう。その意味で、文明に守られた人間は、いつ出産しても子孫を育てられるようになっていますから、発情期がないのではないかと考えられていますね」


 その意見に、不満そうにフローラが割って入る。


「逆でしょ。発情期がないんじゃなくて、年中発情期なのよ。季節に依存しなくていいから、春夏秋冬、朝昼晩、いつ子作りしても大丈夫。そうじゃなきゃ、男の人がこんなに助兵衛すけべなわけないじゃない」


「そうかもしれませんね」


 男が助兵衛であることは否定しないのか、とミランは思う。男という生き物が例外なく下半身だけで生きていると決めつけられているようで遺憾な気持ちだ。


「とはいえ、人間の発情期に関しては動物学においても議論が付きませんし、明確な結論もまだ出ていないのが現状です。ちなみに、人間のほかに発情期がない生き物としてはねずみなどの齧歯類げっしるいですね。彼らは生物相では下位に位置し、常に被食される側ですから、絶え間なく繁殖しなくては種を維持できないんです」


「じゃあ、同じく発情期がない人間も、生物相の中では下のほうなのか?」


 あくまで発情期がない側の立場で、ミランは尋ねた。


 ミランの問いにファウナは唇に手を当てて、しばらく黙考する。


「……どうでしょうね。上位下位という言葉も捕食と被食の関係を言い表しやすいから使っているだけですし。強さというものをどう定義するかにもよりますが、文明の加護抜きで考えた場合、そこまで強靭な種ではないのではないでしょう。文明の加護を得て繁栄した現在でも、その生物的弱者だったころの名残として、発情期がないのかもしれません」


「……やっぱり年中発情しているわけじゃない。鼠たちの事情はともかく、人間はいつでもいいんだから、こんな暑い中ですることないじゃないの。結婚しても夏だけは拒否するわよ、私は」


 などと、三人はとりとめのない話をする。まあ、話をしているのは二人だけで、ミランは生活のための労働をしているわけだが。


 ただ、子作りだの発情だの繁殖だの、普段だったら口にするのも恥ずかしい言葉の応酬がどうでもよくなるくらい、今日は暑かったのだ。


「ところで、報告書とやらは終わったのか?」


「ええ、まあ。そこそこ」


 ファウナは曖昧な顔をした。ミランはそれを終わっていないと解釈した。


「無理もないわよね。こんなに暑くちゃ、やる気も枯渇するってものよ。まあ、おかげで田んぼの稲はすくすく育っているみたいだけど」


 そう言って再度、フローラは溶けるように脱力する。


「というか、お前たちが軟弱すぎるんだよ。夏は暑いのは当たり前だ。今日は確かに暑いが、そんな有様じゃ真夏になったどうするんだよ」


「しょうがないでしょ。研究職なんだから」


「体力がないのは否定できませんね」


 ファウナがフローラの隣に腰掛け、小さくため息を吐いた。


 ……珍しいと言えば、珍しい。ファウナが消沈している。この暑さで報告書がはかどらないのか。それとも、彼女を悩ませる別の要因があるのか――


「そういえばファウナ。南の国々には海とかいう、でっかい水たまりがあるらしいじゃない。干上がることのない水源だなんて、内陸国からすれば羨ましいわね。水浴びし放題じゃない」


「飲料水や農業用水に転用できないものを水源と見なすのはどうかと思いますが。わたしは水浴びよりも海洋生物のほうに興味があります。陸棲生物の常識では考えられないような生き物がいっぱいいますから、一度、現物を見てみたいですね」


「ファウナは真面目ねぇ。ま、学問があくまで手段に過ぎない私と、目的であるあなたじゃ思考形態が違って当然か。それにしても、暑いわねぇ……ちょろちょろ流れる小川に足をつけるとかじゃなくて、冷たい水に全身浸かりたいわ」


 なんともぐだぐだした時間だ。賢人二人は夏の暑さにすっかり参っている。


 ふと、ミランは空を見上げた。


 雲一つない、真っ青とした空が瞳に映る。うっかりすると吸い込まれそうになりそうなほどに深い青。


 こんな空を飛ぶことができたら、どれだけ気持ちがいいだろう。なぜ自分には翼がないのか。なんで自分は延々と薪割りなんてしているのか。どうして、この賢者どもは手伝いもしないのか。


 何もかも投げ出して、どこか遠くへ行きたくなる。夏の空には、そういう逃避の魔力があった。


 だからだろうか。こんな言葉が出てしまった。


「……そんなに暑いなら、ちょいと涼みに、水のあるところにでも行くか?」


「すぐそこの小川? さっき言ったでしょ。足をつけるだけじゃ満足しないんだってば」


 フローラが唇を尖らせる。ミランたちが生活に使っている小川はそこまで水深はない。せいぜ、足首くらいだ。さらに、ここ最近は雨が降っていないため、なおのこと水量が少ない。


「実は、それなりに水深があるところを一つ知っているんだ。俺たちが使っている小川は本流から分かれたものの一つなんだけど、さらにもう少し上流にさかのぼると他にも支流があってな。それが盆地に流れ込んでできた、小さな湖があるんだ」


「ここよりももっと上流ということは、森に足を踏み入れますよね」


「ああ。でも、神域には入らない。ぎりぎりで里地里山の領域だ。だから安全ってわけでもないけれど、まあ、水浴びするくらいは問題ないんじゃないかな」


 それを聞いて、賢者二人の表情に活気が戻った。


 森の中ならば日差しが遮られ、相対的に平地よりも涼しい上に、湖なら納涼にはもってこいだ。


「是非行きましょう、ミランさん!」


「是が非でも行くわよ、ミラン君!」


 さっきまでのやる気のなさはどこへやら。二人の瞳がらんらんと輝く。


「――おや、どちらかにお出かけですか?」


 声がする方を振り返ると、そこには籠いっぱいに夏野菜を詰め込んだアクイラが立っていた。


 帯剣こそしているものの、いつもの騎士鎧ではない。ぱっと見、どこかの村娘といった感じの素朴な服装だ。


「よう。どうした?」


「近くまで来たので、立ち寄りました。村の人たちから夏野菜をおすそ分けでいただいたのですが、ミラン殿たちもいかがかと思いまして」


 籠の中身を見てファウナとフローラが目を輝かせる。胡瓜に赤茄子、夏南瓜。川の水で冷やしたら美味そうなものばかりであった。


「「アクイラさんも行きましょう!」」


「は、はぁ……?」


 二人から詰め寄られるも、何のことかわからないアクイラは戸惑うばかりだ。


「無理を言うな。アクイラは仕事中だろう」


「あ、いえ。今日は非番なのです。鍛錬がてら村の周囲を走りこんでいたら、村の方たちからいろいろと頂いたのですよ」


 涼しげな顔で恐ろしいことを言う。まさか、こんな炎天下に自主的に鍛錬とは。騎士という過酷な職業に従事している身。この暑さでもへっちゃらなのだろう。


 というか、そんな時間と気力があるなら、部屋の片づけをしてほしいと切に願うミランである。どうせ散らかっているんだろうな。まあ、今は言うまいが。


「それで、どちらに行かれるのです?」


「今から、ちょっと湖に行こうと思ってな」


 アクイラの目が輝く。


「ほう、湖。この近辺にそんなものがあったとは知りませんでした。ですが、とても良い考えです。今日はひどく暑い。冷たい水を頭から被ったら、さぞ気持ちいいでしょうね」


「お前も一緒に来るか?」


「……いいのですか?」


 遠慮がちな視線。同居している二人ならばいざ知らず、自分はお邪魔ではないかと言いたげだ。


「ああ。アクイラが一緒に来てくれると、俺も嬉しい」


「え、あ、その……それはどういう……?」


 ミランの発言にアクイラは頬を赤らめ、そわそわと落ち着かなくなる。


「俺、久しぶりに釣りがしたいんだよ。となると、俺の代わりにこいつらと一緒に遊びつつ、護衛してくれるやつが必要だ。その点、アクイラは女だし、武闘派だから適任だろう?」


「……ですよね」


 がっくりと肩を落とすアクイラ。


「? どうした?」


「いえ。自分がちょっと浅はかだっただけです」


 アクイラは不機嫌な様子で、ぷいっと顔を背ける。その態度の意味が分からず、ミランは首を傾げた。どこからか天然だの、たらしだの聞こえる。


「ですが、その申し出、謹んでお受けしましょう。我が国の碩学二人を、不慮の事故で失うわけにもいきませんからね」


「じゃあ、決まりだな」


 にっとミランが笑う。


 かくして、猟師と賢人と騎士の、ひと夏の休暇が始まった。

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