雇用契約
「驚きました。ミランさんは薬草知識もあるんですね」
手早く軟膏を作成するミランを見て、ファウナは感心したように言った。
猟師という言葉だけを見ると、動物を狩るだけの職業という感じがするが、実際は狩猟採集文化の権化のような存在だ。動物だけでなく植物についても造詣は深い。学術面はともかく、こと実用面においては賢人にも引けを取るまい。
ミランは傷に効く薬草を煎じた汁と蜜蝋を混ぜた作られた軟膏をファウナの小さな顔に塗った。
「……あれ、意外としみませんね」
「だろう。蜜蝋混ぜているからな」
軟膏を塗り終わると二人は食卓の席に着いた。来客室などという余分は、この家にはない。
「……あの、ご家族の方々は?」
「いないよ。俺一人だけだ」
「お父様がお亡くなりになったのはお聞きしましたけど、お母様は?」
「お袋は俺が小さい時に病気で死んだよ。今は二人とも、さっき格闘していた古樹の下で眠っている」
ファウナの顔がさっと青ざめる。
「わたし、ミランさんのご両親の墓前であんな醜態を!」
「気にしなくていいって。むしろ、賑やかでいいって二人して笑っているよ」
それは本心だった。父も母も底抜けに明るく、人好きのする性格だった。あのくらいの喧騒、笑って流していただろう。
「それで、俺を雇いたいって話だったか」
確か、そう言葉を交わして別れたのだ。
「はい。それに伴い、改めてわたしの任務をお伝えに来ました」
「具体的に、俺は何をすればいいんだ。俺はただの猟師だし、学術的なことは何も分からないぞ」
「それはわたしの領分なので、ご安心を。ミランさんには調査を行っている間、もろもろの危険からわたしの護衛をしてもらえれば結構です」
簡単に言ってくれる、とミランは苦笑した。
自分一人ならばいざ知らず、素人を守りながら森を渡るのは難しい。時に、守ることは殺すことよりも困難だ。
「あの時はしっかり聞けなかったが、結局、お前がやろうとしている生態調査っていうのは何なんだ? 動物や植物の数や種類を調べるというが、それを調べてどうなるんだ?」
「よくぞ聞いてくださいました」
管轄外とはいえ、ミランが興味を持ってくれるのは嬉しいのだろう。ファウナは嬉々として語り出す。
「おっしゃる通り、生態調査とは、その地域に生息する動植物の種類や数を調べる調査です。そして、それを従来の記録と比較することで、大戦が環境にどれほどの影響を与えたか分析することが主な目的です。特にイール地方は戦時中の資源確保のために森を拓きましたからね」
「ああ」
ミランは重々しく頷く。何を隠そう、彼はその被害者の一人だからだ。
「〔神狩り〕であるあなたには説明するまでもないことでしょうが、神代の信仰では、森は神であり、人が森の調和を乱すと神が怒って人を罰するとされていますね。その調和のことを、我々賢人は生態系と呼びます」
「生態系」
ミランからすれば、なんとも聞きなれない言葉だった。
「草木は小さな虫に食べられ、小さな虫は大きな虫に食べられ、大きな虫は小さい動物に食べられ、小さい動物は大きな動物に食べられ、大きな動物の死骸は土に還って草木の養分になります。そして、その草木をまた小さな虫が食べる……という風に、動物も植物も個々で生きているように見えて、その実、大きな循環を作っており、環境とはそういった生命の被食と捕食の連鎖によって支えられているという概念です」
ぐるぐる、と指で円を描く。
「うん。それは確かに、俺たちの言う調和のことだな」
「はい。そして、一つの土地の生態系は独立しているのではなく、他の土地の生態系と重なり合って存在しています。広い視野で見れば、このオーベルテールそのものが一つの大きな生態系なのですね」
それも理解できる。先日のセトゲイノシシがそうだ。属している環境から離れ、別の環境に移動ができる以上、生態系が独立しているとは考えづらい。
ということはつまり、一つの生態系の調和が乱れれば、その影響が他の生態系にも及ぶ可能性があるということだ。
「なるほど。だから、調べることが必要なのか」
にっこりとファウナが微笑んだ。
「その通りです。大戦がどれだけ生態系を傷つけているのか、そしてその影響がどういった形で人類社会に影響を与えるのか、それらを解明するための調査なのです」
大戦が環境に与えた影響を数え始めたらきりがない。
鉄を打つための燃料、あるいは城砦を築くための資源確保のための森林伐採。
皮革を得るために乱獲された動物たちの減少。反対に、大量の戦死者という餌を手に入れたことで大繁殖する昆虫類。
鉄穴流しによって河川域へ流出した大量の土砂や、土塁や堀などの築城によってもたらされた人為的な地形の変動。
それに加え、終戦後は人口の増加が懸念される。人口が増加すれば、食料が不足する。それを補うために新しく田畑を開墾すれば、また森を拓かなくてはならない。
世界の大きさに比べたら、人間の生息圏などたかが知れている。その営みの中で行ったことなどは、針ほどの穴を開けた程度のものなのだろう。しかし、だからといって何も起こらないとは限らない。蟻の一穴が城を崩すこともあるのだから。
「先日のセトゲイノシシを覚えていますか。あの個体がいつから放浪を始めたかはわりませんが、本来の生息圏以外の場所で子供を産んでいる可能性もあります。彼らは繁殖方法が特殊なので可能性は低いのですが、仮に在来種との間で交配してしまえば、それは雑種と言うよりもはや新種です。そうやって生まれた新しい生き物が既存の生態系に組み込まれたとき、どのような影響を与えるのか今のところ未知数です。
……ある程度、予測はできますけどね。
例えば、新種が既存種よりも強い場合は、新種に餌が独占され、既存種が滅びてしまうでしょう。あるいは、別種の血が混じることで今までは平気だった病気に罹りやすくなって、やはり滅びてしまうかもしれません。仮に一つの種が絶滅した場合、生態系にどれほどの影響が出るか、猟師であるミランさんなら何となくわかるでしょう?」
「ああ」
例えば、森の中から鳥がいなくなったとしよう。そうなると、天敵がいなくなったことで、鳥に食べられていた毛虫が増殖する。すると、毛虫が食べる植物の消費が増え、やがて食べ尽くして荒れ地となる。結果として、毛虫たちも死滅してしまう。
もちろん、これは極論だ。通常の生態系において一つの種が滅んだところで、食物連鎖が崩れることはない。何らかの要因で鳥がいなくなったとしても、蜘蛛や蜂などの毛虫を食べる動物が鳥の役割を補うからだ。このように多種多様な生物を内包した環境は柔軟で粘り強く、一度完成すればちょっとやそっとのことでは崩壊しない。
しかし、それは人間の手が入っていない原初の自然の中での場合だ。
人間によって開拓された土地は、人間にとって都合の良いものだけが繁栄する不自然な環境だ。生物の多様性が失われた土地において、一つの種が滅びたらその役割を補う生物が不在となりやすく、結果として環境そのものの滅亡に直結する。
そうなると困ってしまうのは最終的に誰か、という話なのである。
「そう考えると、お前はちゃんと世の中の役立つことをしているんだと思うけどな」
むしろ、立派な国益に繋がると思う。なぜ、こういった研究に予算が出ないのか。そもそもどうして、国益に繋がらないと断じられるのか。
「悲しいですけれど、話の規模が大きすぎて実感がわかないというか、それよりも日々の暮らしが大事だという人が大多数なんですよ。百年後に国が滅んでしまうのだとしても、一年後に国が存続していることのほうが重要なんです。人間というものは悲しくなるほど近視眼的な生き物なんです。どちらかといえば、わたしのような考えの人間が少数で、それこそ異端のようなものなのかもしれませんね」
ファウナは自虐的に笑った。ミランは少しむっとする。
「そんなことあるものか。人間は愚かだけど、同時に自分の非を認め、やり直すことができる生き物だと俺は思っている。そうでなければ、〔神狩り〕なんて存在する意味がないだろう」
森と人との狭間で生きる者。人間の傲慢を諫める神を討ち、愚かな人間にもう一度機会を与える者。もしも、人間の本質が変わらないというのであれば、その存在はあまりにも無意味すぎる。神代から続いてきた役割も、神と戦い死んでいった父も。
だから、ファウナの口から否定的な言葉は聞きたくなかった。少なくとも、彼女を見てミランは人間の味方であり続けようと思ったのだから。
ファウナは申し訳なさそうに微笑を浮かべた。
「そうですね。人間の価値観が変わることができないのだと思っているなら、こうやって調査すること自体、無駄ですからね。ええ、仰る通り、人間は変わることができる生き物だと信じています」
ですが、と言葉を続ける。
「誰かが調べなければ、記録として残さなければ、気づかないし、そうであったということを忘れてしまうということです。それはミランさんの考えと共通すると思いますが?」
二人の考えはともかく、人間が近視眼的な生き物であることは否定できない。目先のことに囚われ、大局な視野を見失うからこそ過ちを犯すのだから。でなければ、〔神狩り〕などといった事後処理を担当する役割など、初めから存在しない。
大事なのは、それを改善するにはどうすればいいか試行錯誤することだ。
「ああ。だから、雇われてやると言ったんだ。俺にできることであれば、な」
「ええ。覚えていますよ。だから、わたしもそれで十分だと言ったんです」
「と、まあ、ここまでが公の目的ですね」
ファウナは、じゃーん、とばかりに一冊の分厚い本を取り出した。
「これはベヴァリッジ博物誌という本です。写本ですけどね。古の賢者ベヴァリッジが記した動物や植物に関する書物です。現在の博物学における教本の基礎であり、後世の賢者に託された課題ですね」
ミランは手渡された本をぱらぱらとめくる。
文字を読むことはできなかったが、動物の種類ごとの挿絵が付いており、見たことあるなと感じるものから、なんだこりゃと首をひねるものまで多種多様だ。その中には先日のセトゲイノシシらしき絵もあった。
「世の中にはこんなに生き物がいるんだな」
「ええ。でも、全部ではないですよ。その証拠に、現在に至るまでこの本に記載されていない新種が発見され続けています。特に有翼爬虫類の生態に関しては空白の部分も多くて、レスニアにも生息する羽毛竜に関しては、卵すら見つかっていないのが現状です。巻末にも、自分が調べたのは世界の一部に過ぎないって書かれていますからね。
この本が執筆された当時は生態系という学術的概念がありませんでした。なので、個々の動植物の観察記録という側面が強いのです。これを現在の学術的視点で編纂し、空白の種類を補完して、生態系ごとの生物相に分類する。要するに、完全版を作るのがわたしの夢なんですよ。
もちろん、わたしだけの努力では不可能でしょう。次の世代の、そのまた次の世代の、さらに次の世代をかけても完成には程遠い。永劫未完の書物と言われています。けれど、わたしは一歩でも完成に近づけたいのです。
とまあ、格好つけて言いましたが、わたし自身、これに載っていない生き物をこの目で見てみたいという欲求が一番大きいでしょうけどね」
そう言うと、ファウナは照れたように笑った。
「なんだよ。世界を救うような壮大な話だったのに、結局は好奇心か。おまえ、他人の机の引き出しとか勝手に開ける手合いだろ?」
「む。失礼な。開けてみたいという欲求はあるのは否定しませんが、泥棒じゃないんですから、開けるならちゃんと許可を貰います」
「そっとしておくことも必要だと思うけどな」
人間が立ち入れないものはどうしても存在する。触らぬ神に祟りなしとも。
「人間から好奇心を奪ったら他に何が残るんですか。確かに、人間が知るべきでない領域があるのは事実でしょう。けれど、同時に知るべきものも存在する。環境破壊などはその筆頭です。無知ゆえに起こった悲劇と言えるでしょう。人々が生態系の仕組みを理解していれば、無用な乱獲や伐採を防げたかもしれないのですから。そして、知らずして、それを判断することは不可能です。要は知ろうとする人間の良識の問題ですよ」
そう。知識そのものに善悪はない。あくまで、人間側がそれをどう使うかだ。
例えば、刃物がある。
刃物は生活に欠かせない便利な道具であるが、同時に人間を傷つけ、殺めることもできる。だからといって、刃物が害悪だとはならない。あくまで問題は使い道の是非に過ぎない。誤った使い道を避けるために必要なのは、刃物の取り扱いを禁止することではなく、それを正しい目的のために使えるようにする教育だ。
そういった意味では、ファウナの欲求は純粋なものだ。ただ知りたいだけ。知的好奇心を満たすだけのものだ。あくまで善悪の基準が使い道に因るものであるならば、そもそも彼女はそれを使おうとしていない。
「それに、まだ発見されていないものを見つけようとするのと、意図的に隠してあるものを暴くのでは意味合いが違います。ミランさんは女性の下着は好きですか? 好きですよね、男性ですもの」
「おい」
一方的な決めつけに対しての抗議の視線を放つが、黙殺された。
「その性的好奇心を満たすために、相手の気持ちを無視して強引に服を脱がせば犯罪です。しかし、相手の同意を得て脱いでもらえば罪には問われません。
動物学にはこういう言葉があります。『上手に質問しさえすれば、自然は知りたいことをみんな話してくれる』。きちんと敬意をもって臨めば、世界はその神秘的な胸元を見せてくれると思うのです。言い方を変えれば、そういう探索者でないのならば彼女は現れてすらくれません。だから、きっと大丈夫ですよ」
ファウナの物言いは、まるで世界が女性であると確信しているようだった。事実、古の信仰における神性は女性格であることが多い。特に山や森はそうだ。山の連なりは乳房、深い森は豊かな髪の象徴であり、突発的な自然災害は女性特有の狂乱に置き換えられる。新しい命を生み出す母性的役割を差し引いても類似点が多々ある。
それにしても、彼女というのはどうなのか。単なる代名詞以上の意味が込められているような気がする。
「なるほど、よくわかった。しかし、お前は俺を何だと思っているんだ。そういうことをするやつだと思われているのか」
「男性が女性に性的な欲望を持つのは健全なことですよ。逆もまた然り。結局のところ、恋愛感情などというのは性欲の延長です。性欲なくして種の繁栄はあり得ませんから」
恋に幻想を抱いてもおかしくない年齢だというのに、恋愛を繁殖のためと割り切るファウナは確かに変人かもしれない。いや、往々にして学者というものは変人なのかもしれないが。
「だから、犯罪的行為でない限りは容認します。これから一緒に住むのですから、男性の生理にいちいち目くじらを立ててもしょうがないでしょう?」
不穏な言葉が聞こえた。
「……一緒に住む?」
「はい」
「誰が?」
「わたしが」
「誰と?」
「ミランさんと」
「……なんで?」
「だって、いちいち砦から出向くのは効率が悪いじゃないですか。移動時間を節約できれば、調査に当てる時間も増えるわけですし」
「いや、それはそうかもしれないが」
「わたしは寝袋がありますから、床さえ貸していただければ充分ですよ。じゃーん、長年愛用している寝袋、みのむし君です。いいものですよ、これは」
頼まれてもいないのに、鞄から綺麗に折り畳まれた寝袋を取り出す。その名の通り、どことなく蓑虫にしている。
「ああ、そうそう。お金の話もしなければいけませんね」
ついでに、鞄の中から革袋を取り出した。
「とはいえ、予算はあまり潤沢ではないので……諸々の実費を含めて、前金としてはこれくらいしか用意できませんが……」
足りますか、と申し訳なさそうに視線で問いかける。
ミランは目玉が飛び出るかと思った。
机の上に置かれたのは金貨が十枚。足りるどころではない。庶民であれば一年は遊んで暮らせる大金だ。
今日は目を疑う光景ばっかりに遭遇する。
「……お前の学科は、金がないんじゃないのか」
「ないですよ。現地雇用をするにしても、この十倍くらいは増やしてもらわないと」
なんとなくではあるが、ミランは研究職と言うものが金食い虫と言うよりも、金銭感覚がおかしいのではないかと思った。
しかし、支払い能力に関しては問題がないことが証明された。もとより暴利をむさぼる気はないのだが、ミランはそこまで裕福ではない。現に今日の夕飯にも困るありさまだ。無料で誰かを寝泊りさせる経済的余裕はなかった。
となれば、あとはミランの気持ちの問題だ。
「女の子と一緒に住むというのは、その、どうなんだ。俺は構わないけど、知り合って間もない男と一緒に暮らすなんて、お前は嫌じゃないのか?」
「ミランさんを信用していますから」
屈託のない笑顔が眩しい。
「あのな。俺だって男なんだぞ。間違いが起きないとも限らない」
「もし、ミランさんに下心があるのなら、いちいちわたしの意思を確認しないと思いますよ。それが擬態だったとしても、見抜けなかったわたしの落ち度です。
それに、ミランさんはこんな発育不全な体でも欲情するんですか? お尻は大きいですけど、基本的にはちんちくりんでぺったんこですよ。わたしに女性的な魅力はないと思いますけれど」
言葉尻は淀んでいた。自分で言って空しくなったようだ。
「まあ、お前がいいなら、いいけど」
「なら、決まりですね」
(寝床は、まあ、親父かお袋の部屋を宛がえばいいか)
部屋の空きはある。もともと親子三人で暮らしていたのだ。住む人間が一人増えたところで困ることはない。
と、なれば。
ぐぅ、とミランの腹の虫が鳴った。そろそろ行動に移さなければ、本格的に動けなくなりそうだ。
「なら、まずは飯の心配だな。そろそろ夕飯の支度をしたいんだが」
「あ、もちろんお手伝いしますよ」
「食材はここにはないよ。いまから、ちょっと出るんだ」
「今からですか。でも……」
そろそろ日が暮れますよ、と心配そうな顔である。
「むしろ、今がいい時期なんだよ」
「いったい、何を狩るんですか?」
ミランはたっぷりと間を置いて言った。
「蝉」
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