夜の森

 夜の森は死地と言っても過言ではない。


 鬱蒼とはびこる樹木で視界が悪い上に、梢の天蓋がわずかな月影さえも遮ってしまう。夜空よりもなお深い闇洋が支配する世界だ。歩くことさえおぼつかない。


 日が暮れ始めたら森に踏み入るべきではない。外がいくら明るくとも、森の中はすぐに闇に沈んでしまう。もう少しだけという油断が、死を招く。


 そんな夕暮れの森の中を、ミランとファウナが歩き進める。


 危ないから待っていていいと言ったが、ファウナはついてきた。せっかくだから夜の森の様子も見ておきたいとのことだ。


 まあ、いいかとミランは同行を許可した。


 この周辺は神域――原生林――との緩衝地帯である。辺境に確実に安全な場所など存在しないが、今回踏み入るのは比較的、浅い場所だ。自分の傍にいれば問題ないだろう。


 何より、ここはミランにとって庭のようなものだ。庭で迷う主もおるまい。


「それにしても、蝉ですか」


 猟師だからといって獣の肉しか食べないわけではない。森より得られる糧は何でも食べるのが猟師の流儀だ。


 そういった事情を抜きにしても、辺境の食糧事情はあまり芳しいものではない。徴税が緩やかなイール地方であっても、それは変わらない。食べられるものは何でも食べるのが辺境の農村だ。


「都会の人間には、抵抗があるかな?」


 挑戦的な口調。ファウナはそれを不敵な笑みで返す。


「まさか。現地の食材を味わうのも野外活動の醍醐味ですよ。言っては何ですが、わたしが食べられないのは毒物ぐらいです。それに、蝉は美味しいって聞きますし」


 見た目はともかく、蝉は昆虫食の中では味は良いほうだ。不作のときには、農民が土を掘り返して根こそぎ食べ尽くしたという話もある。


「成虫も食えるが、幼虫はもっと旨い。時間さえ間違えなきゃ捕まえるのも簡単だしな。毒も持ってないし」


「この時期ということは、ウキマネキですか?」


 蝉は一般に夏に羽化するが、春から初夏にかけて羽化する種類もいる。ウキマネキはそういった春蝉の一種だ。ちょうど羽化の時期なのだろう。


 彼らの鳴き声は雨季を招くとされている。彼らが鳴き始めると麦秋であり、同時に田植えの時期となる。


「蝉は日暮れから土の中から出て、天敵のいない夜中に羽化します。確かに、幼虫を捕まえたいなら、今くらいの時間帯ですね」


「詳しいのは獣だけじゃないんだな」


「昆虫類を抜きに生物は語れませんよ。形は小さくとも、昆虫は一つの生物相を構成する動物種の七割を占めていると言われていますから。それに、わたしが生物学を志すきっかけの一つですからね。……そうだ」


 ふと思いついたように、言葉を切った。


「ミランさん。もしよかったら――ひゃあ!」


 ファウナが口を開きかけたその時、ミランが彼女の腰に腕を回して抱き留めた。


「ちょ、や、だめ……まだ心の準備が……!」


 突然のことにファウナは顔を真っ赤にしている。暴れるかとも思ったが、ミランの腕の中でじっとしている。助かる。


「そんな、森の中でなんて……!」


「わけわからないこと言ってないで、口を閉じてろ。舌噛むぞ!」


 言うが早いか、ミランはファウナを抱きかかえたまま大きく跳躍した。近くの樹の幹を蹴って、再度跳躍。ひらり、と樹木の枝に着地する。


 その直後、さっきまで二人が経っていた場所を巨大な影が走りすぎて行った。


 地面に這いつくばる四つ足と長い尻尾。縦に割けた瞳孔。鱗を備えたごつごつした外皮。――蜥蜴とかげだ。


「――!」


 夜行性の爬虫類の一種。そして、その俗称。餌にするのは主に小さな昆虫や哺乳類がほとんどだが、時に自身の体長よりも大きい動物さえ捕食するため、その異名が付いた。


 しかし、それでも大きさはたかが知れており、餌として人間が標的になることはまずない。だが――


「これはでかいな」


 ミランはぎょっとした。この個体は小型の鰐ほどもありそうだ。あの大きさなら、人間の子供はうってつけの獲物に違いない。


「……よく気づきましたね」


「この木の周りだけ虫の声があまりしなかったからな。何かが潜んでいるんだろうとは思っていた」


 ファウナが瞠目する。周囲の情報からいち早く異常を察知し、危険を予知、回避する猟師としての直感。改めて、ミランが一角の猟師でないと思い知らされる。


「うわ、見てください。ミランさん」


 ファウナの声に釣られて視線を向けると、二人が退避した樹木の幹に、羽化のために土の中から出てきた蝉の幼虫があちこちにいた。


「……なるほど。賢い奴だ」


 爬虫類は蝉も食べる。しかし、おおくちが近くに潜んでいながら、無事に木を登ってきた幼虫の数が多い。つまり、あのおおくちはこいつらに手を出していないのだ。


「こいつらには手を出さずに、それを狙うやつらを標的にしたか。俺たち以外にも、小動物が食べに来るだろうしな」


「おおくちにそんな習性があるなんて、知りませんでした」


 あれだけの巨体を賄うに足る餌を確保するために、目の前の小さな獲物を見逃して、それを狙うより大きな獲物を狙っているのだ。なんとも知能的な狩猟法である。あの個体だけの能力なのか、それともあのくらいの大きさまで育てば発現する生態なのか、今の段階ではわからない。


「ここにいろ。ちょっと仕留めてくる」


「危険です。このままやりすごしましょう。もしも噛まれたら病気になってしまいます。そうなったら、わたしが対応できるとは限りません」


 爬虫類は病を媒介することが多い。外傷は大したことはなくとも、その傷から病に冒される恐れがある。


 ファウナは国家賢人として医学や薬学にも多少の知識はあったが、それでも専門家ではない。受けた毒が対処できる種類とは限らない。


「あいつらは木を登ってくる。俺は樹上でも立ち回れるが、お前は無理だろう?」


「……すいません」


 暗に足手まといと言われ、ファウナは落ち込む。


「そんな顔するな。これが護衛の初仕事だ」


 申し訳なさそうな顔をするファウナの頭をぽんと叩き、ミランは地面へ戻った。


「さて、俺たちの晩飯が一つ増えるか、俺がお前の晩飯、いや、朝飯になるかだな」


 矢筒から矢を一本取り出し、弦に添える。


 初撃を躱されたおおくちは、一度、茂みまで戻って身を隠したようだ。ざざざ、と周囲を疾走する音がする。どうやら諦めていないらしい。


「おっと」


 ミランは背後からの襲撃を危なげなく躱した。


 大型動物の行動は読みやすい。潜伏してからの奇襲ならばいざしらず、動作に伴う音や地響きが目立つからだ。


 二度、三度とおおくちは飛びかかるが、その牙は虚しく空を切るだけだ。


 しかし――


「お?」


 周囲が急に静かになった。おおくちは茂みの中から出てこない。力任せに飛びかかってどうにかなる相手ではないと悟ったようだ。


(諦めたか?)


 だとすれば、賢明な判断だ。


 食うということは食われるということ。被食と捕食の関係は一方通行ではない。だからこそ、身に及ぶ危険を可能な限り減らすために自分よりも弱い獲物を選ぶのが自然界の鉄則だ。手に余ると判断した時点で撤退するのも戦略の一つである。


 ――いや。


 ミランは警戒を解かなかった。周囲から漂う純粋な殺気は、まだ彼の皮膚をちくちくと刺激する。


 つまり、おおくちにとってミランは依然として獲物であり、彼を仕留め得る何らかの手段を持っているということだ。


(――っ!)


 がさり、と後方の茂みが動く。ミランはすかさず反転し、矢を放った。


 矢が茂みに吸い込まれ、茂みが大きく波打った。


 当たった。当たったが――


(おかしい。手ごたえがない)


 そう悟った瞬間、側面から殺気が迫った。


(しまった、陽動か――!)


 ミランは反射的に体をねじって、蹴りを繰り出した。ほぼ無意識の行動だったが、幸運にもおおくちの柔らかい腹に入った。


 げえ、とおおくちの口から空気が漏れる。


 ミランは反動を利用して体勢を立て直すと、矢筒ではなく腰の短刀に手を伸ばした。引き抜きざま、投擲。


 短刀は新円を描きながら異名通りの大顎に吸い込まれた。蜥蜴の外皮は硬く、ちょっとした刃物では傷つかないが、内側からは別だ。短刀の鋭い切っ先は口の内側を裂き、そのまま頭蓋を貫通した。


 背中から地面に叩きつけられたおおくちは、しばらくのたうちまわり――やがて絶命した。


 おおくちが完全に沈黙したのを確認すると、ミランは大きく息をついた。


 それにしても、どうやってミランの虚を突いたのか。


 茂みを覗いてみると、そこには矢が突き刺さったままの尻尾が転がっていた。糸が切れたように今は動かない。


 これには覚えがあった。自切だ。


 蜥蜴の中には尻尾を自ら切り離して囮とし、その間に逃げるものもいる。切り離された尻尾はしばらく動き回るので、ミランはその気配を誤認し、そこにいると錯覚してしまったのだ。


 本来、自切行動は、敵の襲撃から逃げおおせる際に使用する防御的な陽動だ。だが、これは明らかに攻撃のために応用している。


 餌をおびき寄せるにも囮を使い、攻撃にも囮を使うとは恐れ入る。


 爬虫類には成長の限界がない。生き続ける限り体が大きくなるという。しかし、ここまで巨大化する前に、大抵はより上位の捕食者に食われてしまうものだ。大きくなったから相応の知恵をつけたのか、知恵があったからここまで大きくなれたのか。ミランには知り様がない。


「ミランさん、大丈夫ですか?」


 上から声が降ってきた。


「ああ、どうにか仕留めた。蜥蜴の尻尾切りって言えば逃げるための手段なのに、こいつ、攻めるための陽動に使ってきたぞ」


「えっ、自切したんですか? しかも、攻撃的な陽動に?」


「ああ。すっかり騙された」


「へー、見てみたかったなぁ」


 そこで会話が途切れた。樹上でなにやらもぞもぞする音が聞こえる。しばらくすると、物音は消え、代わりに諦めたようなため息が聞こえてきた。


「……ミランさん」

「どうした?」

「下りられません」


 泣きそうな声だった。

「……ちょっと待ってろ」


 一つ溜め息を吐くと、ミランはもう一度、ひょいと枝に登った。


「ミランさんって驚くほど身軽ですよね。それに、樹上で立ち回れるっておっしゃってましたよね。わたしも何人かそういう動きをする人と会ったことがあるのですが、辺境育ちってみんなそうなんでしょうか」


「さあな。いいから、つかまれ」


 ミランはひょいと木の上に登ると、ファウナに背中を向けた。おぶされ、ということらしい。おずおずと首に腕を回し、体を密着させる。


 ファウナの体の感触と体温が布越しに伝わってきた。ふわりといい匂いがする。幼く見えても女なのだ、と実感した。


 それにしても、


(本当にこいつ幼児体型なんだなぁ……)


 柔らかいには柔らかいが、まったく起伏がないというか。胸よりも先にお腹の感触が伝わってくるあたり、ものすごく残念な感じがする。


「……ミランさん。いま、何を考えているか当ててみましょうか?」


「どうせ自滅するんだから、止めておけ。ああ、そういえば、さっき何を言いかけていたんだ?」


「ああ、そうでしたね」


 とん、と軽やかに地面に立つと、振り返ってこう言った。


「そのウキマネキなんですけど、一匹だけ、食べずにわたしに下さいませんか」


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