夜明け

 後続はなかった。一匹だけの犯行だったようだ。

 ミランは砦の厨房から鍋といくつかの椀を拝借すると、中庭で火を焚き始める。

 魔犬の肉をを食べようというのだ。


「……あの、本当に食べるんですか?」


 ファウナがおそるおそる尋ねる。


 古き信仰における神とは、つまるところ天災だ。魔犬が誕生した経緯は人災であり、彼の言う神の定義からは外れる。故に、討ち取った神は食べて供養するといった慣習が当てはまるとは思えない。


 それでも、ミランは頷いた。


「こいつは神じゃない。でも、やっぱり俺にとっては神なんだよ。身から出た錆だったとしても、そこから誰かが何らかの戒めを受けたのだとしたら……ただの害獣として葬るよりも、神として供養したほうがいいような気がしてな」


 無論、魔犬はそんなことは望んでいないだろう。それどころか、復讐の邪魔をした彼の血肉になるなどもってのほか。


 ミランが定義する神も所詮は信仰の産物に過ぎない。害を成す獣に、人間が勝手に意味づけしただけだ。だが、それは自然に対する敬愛の心の裏返しだ。〔神狩り〕ミランの譲れない在り方だ。


 ミランは魔犬の亡骸を手早く捌くと、肉を鍋に放り込んだ。しばらく煮込むと、香草のいい匂いがあたりに漂ってくる。


「あの、わたしも食べてもいいですか?」

「なんだ、腹減っているのか」

「違いますよ。わたしも、ミランさんと一緒に供養したいんです」


 物好きな奴だなとミランは思った。思っただけで拒絶はしなかった。

 すると、そこにアクイラがやって来た。


「自分も相伴に預からせてくれないだろうか」

「……あんたもか。別に構わないが、そんなに量はないぞ」

「腹が減っているわけではありません。ただ、食べなければと思うのです。この事態を招いた人間の一人として。……だろう、お前たち」


 アクイラが振り返ると、少し離れた位置に兵士たちが立っていた。皆、ミランに対してばつの悪そうな表情をしている。


「……勝手にしろ」


 ミランはぶっきらぼうに答えると、鍋の中身を椀にそれぞれよそった。

 たった一匹の犬鍋など、大勢で分け合えばあっという間だ。


「たった一匹の犬に、我々は手も足も出なかった。人間など、ちっぽけな存在なのだな」


 アクイラは受け取った椀をじっと見つめながら呟いた。


「小さいころ、遊びに行った森で迷子になったことがある。心細くて、時折聞こえてくる獣の声が恐ろしかった。結果としては何事もなかったが、両親からは散々叱られたのをよく覚えているよ。家の外は怖いもので溢れている。そんな単純で、当然のことを、忘れていたんだな、我々は。この世界は人間が支配しているのだと思い込んでいただけ。ミラン殿の言う通り、なんと傲慢で、愚かな生き物なのだろうな」


 ミランは何も言わなかった。言う必要がなかった。

 ファウナが嬉しそうに顔をほころばせた。




 供養が終わるとアクイラたちは礼を告げ、持ち場に戻っていった。

 鍋や椀を片づけ終える頃には東の空が白み始めていた。夜明けだ。


「これで俺の仕事は終わりだな」


 そう言うと、ミランは大きく伸びをした。昨日の野猪狩りからまる二日、寝ていない。いくら若いとはいえ、そろそろ体力の限界だった。


「お疲れさまでした」


 ファウナが労いの言葉をかける。


「うん。まあ、お前もな」

「わたしなんて、何もできなかったですよ。本当に、何も……」


「そんなことはないさ」


 それはミランの本心であった。ファウナの涙が、彼を戦争の呪いから解き放った。彼女の存在なくして、彼は仕事を成し遂げることができなかっただろう。


「……あの、相談があるのですが」


 しばらくもじもじと指を絡めていたファウナだったが、やがて意を決したように口を開いた。


「おいおい、今度は何を討伐させようっていうんだ?」


 皮肉気にミランは返した。


「いろいろ考えたんですが、やっぱりあなたが一番だと思うんです」

「何の話だ?」

「雇われてくれませんか?」

「はあ?」


 予想外の申し出にミランは呆気にとられる。


「初めに説明したように、わたしの目的は辺境の生物相の調査です。その上で、あなたの狩猟技術、知識、経験……いずれも護衛として申し分ありません」

「俺は一介の猟師だ。そういうのは町の傭兵に頼んでくれ」

「いいえ、あなたがいいんです。あなたじゃなきゃ駄目なんです」


 ファウナはいつになく真剣な面持ちで言った。


「わたしは生態調査に出る直前まで、他の学科への移籍を推薦されていました。

 どの国家よりも先んじて国を立て直すために、もっと国力を豊かにするための分野に進むべきだ。誰も求めていない学問を追及したところで、それが国のためになるのかって。国費で研究している身分です。みんなが言うことも理解できます。何より、わたしの理性が、それが正しいと訴えています。

 だけど、それでもわたしは辺境の生物相を研究したいのです。でも、どうするべきか決められなくて……逃げるように、わたしは生態調査隊に志願しました。辺境の生物相の価値を証明すれば、この分野への評価をきちんと認めてくれるんじゃないかって思ったんです」


 だからか。彼女がここに一人で来たのは。文字通り、その結論から逃げ出し、先送りにしたのだ。


 高い知性、豊かな教養に騙されがちだが、ファウナはまだ十六の小娘に過ぎない。やりたいことと、やらねばならないこと。求めていることと、求められていること。いかに優れた頭脳を持っていようが理想と現実との落差に苦しめられている、ごく普通の人間だ。誰もがミランのように揺らがない己の在り方を持っているわけではない。


「でも、その葛藤そのものが間違いだった。あなたを見ていて、そう思いました」


 そう語るファウナの表情は救われたように晴れやかだ。


「賢人は森羅万象を学び、真理に到達することが使命。でも、いつしかそれを使うことに固執するようになってしまっていた。世界に対して身勝手にも優劣をつけ、国の役に立つことのみが価値あるものと決めつけた。……それこそが賢人として不自然な在り方だというのに。

 もう戦争は終わったんです。自由に学んでいいはずなんです。戦争があった事実は忘れるべきではありません。でも、いつまでも戦禍に呪われたままでは何も変わらない。

 ほかの賢者たちが見向きもしなくたって、予算がなくたって、わたしひとりだって研究していいのです。だって、わたしが知りたいのだから。学びたいのだから。その衝動に準じるのが、わたしの在り方だったんですから」


 そこまで吐き出して、苦々しく笑った。


「そんな当たり前なことに気づけないなんて、本当に賢人失格だなって思います。きっと、あなたみたいな人を本当の賢人というのでしょう。だから、わたしはあなたと一緒にいたい。一緒にいればもっと、本当に大切なことを学べると思うから――」


「そんなの……」


 買い被りすぎだ、とミランは思った。


 自分はただの猟師で、その役割を果たしたに過ぎない。ファウナに誇れるようなことは何もしていない。むしろ、こちらが救われた立場なのだ。人間というものを、まだ見捨てなくて済んだのだから。


 ……だが、それとは別に胸に去来する思いはあった。


 きっと賢人と呼ばれる人々も戦争によってその在り方を歪められたのだろう。あの魔犬と同じように。価値観の偏りが歪を生み、それが積み重なって全体を狂わせていく。


 この少女が、そうなってしまうのは嫌だった。渡来の神を見ていた時の、きらきらした瞳が変質してしまうのは嫌だった。この少女にはずっとそのままでいてほしかった。

 だから、彼の返事は決まっていた。


「……しょうがない。雇われてやるよ」


 溜め息交じりに。思った通りのことを口にした。


「本当ですか!」


 ファウナの表情がぱっと明るくなった。


「けど、明日からな。今日はもう無理だ。帰って寝る」

「ありがとうございます。そのお返事だけで十分です」


 ファウナは微笑んだ。憑き物が落ちたような顔。生まれたばかりの朝日に負けないほどの輝かしい笑顔だった。


 ミランは頬が熱くなるのを感じた。


 何故だろう。ファウナが綺麗だからだろうか。だが、綺麗なものならば世界に幾らでも転がっている。雲一つない青空。夜空にきらめく星々。一面に広がった新緑の木々。誇らしく咲く花々。力強く流れる滝。


 しかし、そのどれと比べても、これほど胸が高鳴ったことはない。


 この不可解な気持ちを何と呼べばいいのか。賢人の蔵書になら何か書いてあるのだろうか。彼は生まれて初めて本を読んでみたいと思った。


 もっとも、仮に何か書かれてあったとして、文字の読めない彼には読み解くことができないのだが。


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