第二章 蝉と老人の追憶

再会

 あまりのことにミランは絶望した。


 嘘だと言ってくれ。あるいは夢であってほしい。幻でも構わない。


 一人の猟師として、世界がある種の無慈悲さを内包すると理解している彼をもってしても、目の前の光景は到底受け入れられるものではなかった。


 けれど、どれだけ呪詛を吐き、憎悪を募らせようとも現実が覆ることはない。

 さもありなん。その程度で覆るのなら、人の世はこれほど不幸に満ちていないだろう。飢え死ぬ幼子も、慰み者にされる乙女も、我が子によって捨てられる老人もおるまい。


 どれだけ呪おうと、恨もうと、最後には受け入れるしかないのだ。


 ミランは糸の切れた人形のように崩れ落ち、力なく両膝をついた。


 その虚ろな視線の先には――


「食い物がない……だと……」


 ――空っぽの食料庫があった。


 穀物はおろか、野菜の乾物も肉の燻製も何もない。食べ盛りかつ空腹の男子にとって、目の前の光景は地獄だろう。たぶん。きっと。


「……最近忙しくて、作り置きする暇がなかったからな」


 ミランは恨めしそうに独りごちる。


 あの魔犬退治から二日が経つ。


 家に戻ったミランは、つい先ほどまで泥のように眠り続けていた。


 村の田畑を荒らした渡来の獣、戦争が生み出した魔犬と立て続けに戦ったミランの心身は大いに疲弊していた。どちらも人の手に負えない怪物――古き信仰における神だ。普段の狩りとは根本からして違う。


 特に今回は心的負担の方が大きかった。人間の愚かさを目の当たりにし、その落とし子とも言える魔犬の憎悪は間違いなく彼の精神をすり減らした。


 傷ついた心を癒すには時間がかかる。かさぶたが自然に剥がれ落ちるのを待つように、時間でしか解決できない。まる二日も眠っていたのはそういうことだった。


 しかし、空腹には抗えない。


 腹の虫の音で目覚めたミランは久しぶりの水を飲んだ後、食べ物を求めて屍人のように台所へ向かい、そして現実に揺るぎない直面したわけである。


 とはいえ、跪いていても食料が勝手に蘇るわけではない。それは一人暮らしのミランが身に染みて理解していることだった。働かざる者、食うべからずである。


 しかし、もうじき日も暮れる。今から狩りに出かけたとして、果たしてどれだけの成果を得られるだろうか。


(んー、いくつか候補はあるけれど、この季節なら……)


 これまでの経験から、あまり労力を使わずに捕獲できる獲物を脳内に列挙していく。


 すると、外からけたたましい鳥の声が聞こえてきた。


 おや、と首を傾げる。


 ミランの家のそばには古びた大樹が生えている。その樹にはこれまた大きな洞があり、季節に応じて様々な野生動物の隠れ家になっていた。今は梟が巣を作っている。


(卵を狙いに、蛇でも忍び込んだかね)


 だとすれば哀れなものだとミランは思った。梟が、ではない。蛇が、だ。


 梟は猛禽だ。森の生物相においては頂点に君臨する。無論、同じ生物相に属する肉食獣は他にもたくさん生息しているし、そもそも被食と捕食の関係は状況に応じて様変わりするのだから、頂点捕食者をただ一種に限定することはできない。しかし、それでも彼らが高次に位置しているのは確固たる事実である。


 要するに、蛇などでは返り討ちに遭うのが関の山、ということだ。


 そこで、待てよ、と閃く。


(蛇という手があるじゃないか)


 蛇は辺境ではよく食べられる食材の一つである。何せ捕獲が容易だ。小型の蛇であれば専門的な技術がなくともちょっとした道具で簡単に捕獲できるし、下処理も首を落として皮と内臓をぺろりと剥がすだけなので時間を取られない。


 身は旨味が少なく淡白なので、香草やたれと一緒に炒めるのが一般的だが、鍋や汁物の具材にも適している。


 中でもミランが好むのは揚げ物だ。小骨ごとばりばり食べられるので無駄がない。

 揚げたての蛇に塩を振って、とっておきの酒をこう、きゅっと。


「やばい。無性に食いたくなってきた」


 他の候補のことなど脳裏から消え去った。ミランは徒手空拳のまま外に飛び出す。一般人ならいざ知らず、所詮は蛇。真の狩人にとっては素手で事足りる相手である。


 しかし。


「ちょっと待てい、そこな猛禽類! その蛇、この俺がもらい受け……る?」


 結論から言えば、ミランの期待は大いに裏切られた。


 予想外の事態にミランは硬直する。訳がわからない。どうしてそれがそこにあるのか、どんな因果があればそうなるのか。栄養が足りていないミランの脳では到底理解ができるものではなかった。


 尻。

 尻である。


 女の尻が、古樹の洞から生えていた。


 美しい臀部を桃に例えると聞くが、腹が減りすぎてついに幻まで見始めたかと、ミランは自分の頬をつねった。


「……あれ?」


 痛い。空腹による幻覚ではないようだ。


 すると、


「いた、いたたたたた! 痛い痛い! ごめんなさい、ごめんなさい! 卵を取りに来たわけじゃありません! だから突かないで、お願いします!」


 尻がしゃべった。どこかで聞いたような声だった。


 尻の先は洞の中にいる梟から攻撃を受けているのだろう。もがくようにぱたぱたと足を上下させていた。その拍子に衣服の裾が捲れ上がり、ちらりと下着が見える。どこか背徳的で扇情的な光景だった。


 ミランとて年若く、健康な男子である。煩悩を刺激されてもおかしくはない。


 腹さえ減っていなければ、だが。


 ミランの胸中を占めるのは、なぜ蛇じゃないのか、いっそのこと本物の桃ならよかったのにという、まったくもって失礼千万な失望感である。


「……何やっているんだ、お前」


 ようやく正気を取り戻したミランが、尻に――もとい、ファウナに尋ねる。


「あっ! その声はミランさんですね!」


 助かった、とばかりにファウナが洞の中からくぐもった声を上げた。


「申し訳ないのですが、一人では抜けられないのでちょっと引っ張ってくれませんか? うっかり落ちてしまって、割と笑えない状況なんです。なんと言いましょうか、ミミズク夫妻が今にも合体技を放ちそうな感じで!」


 そりゃあ、昼寝していたところを邪魔されたとあれば梟夫妻もお冠だろう。制裁を受けても致し方ないことだ。自然界において無知は言い訳にならない。


 とはいえ、猛禽類の爪は人の皮膚くらいは簡単に引き裂ける。いくらファウナが悪いと言っても、年頃の女の子の顔に傷がつくのは、さすがに寝覚めが悪かった。


「……しょうがないな」


 後頭部を掻きながら、ミランは尻の前に立った。


 子供のような外見とはいえ、ファウナはれっきとした大人の女性である。無遠慮に肌に触れるのは躊躇われた。しばし悩んだ末、両の足首を引っ張ってみることにする。


 体も小さいが、足首もまるで小枝のように細い。おかげで握りやすくはあるが、同い年と言われても実感がわかない。


「じゃあ、いくぞ」

「お願いします!」

「せえの!」


 すぽん、とまるで蕪を引き抜くような音がした。


 どれだけすっぽり嵌っていたんだ、と思ったのも束の間、


「おおっと!」

「きゃあ!」


 勢い余って、ミランは体勢を崩した。二人はもつれ合って、地面に倒れ込んだ。あえて下敷きを選んだのは、男としての意地だった。


「だ、大丈夫ですか?」

「……ああ」


 軽い。ミランの腹の上に圧し掛かったファウナは驚くほど軽かった。


「あ、ごめんなさい。重たかったですよね」


 ファウナがミランを下敷きにしていることに気が付くと、ぱっと離れた。二人してほこりを払って起き上がる。


「いやあ、お手間をおかけしました」


 えへへ、とファウナは申し訳なさそうに笑った。樹洞の主に引っかかれたのか突かれたのか、生傷だらけの顔が痛々しいが、大した怪我はしていないようだ。


「もう一度聞く。何やっているんだ、お前」

「樹洞は様々な動物の隠れ家になるので、どんな動物が棲んでいるのか気になって覗いていたら、うっかり足を滑らせまして……」

「すっぽりはまったわけか」

「お恥ずかしながら……おまけに樹洞の底が思ったよりも深かくて、手が届かなかったんですよ。そのせいで、体勢を維持するので精いっぱいで」


 要するに、尻だけ引っかかって宙吊りになっている状態だったようだ。


「でも、お尻が引っかかってくれたおかげで巣を潰さずに済みました。わたし、ちんちくりんのぺったんこですが、お尻だけは見かけより大きいんですよ。正直、気にしていたんですけど、今だけは感謝ですね」


 ファウナはよくやった、わたしのお尻、とばかりに臀部をさすった。


 確かに尻が引っかかったのは幸運と言えるだろう。だが、そもそもにおいてこの樹洞は成人の体格が通る大きさではない。言わば、ファウナの幼児体型とそれに反比例した尻が生み出した悲劇である。言わぬが花だろうが。


「ご存知でしたか、あの中には梟が巣を作っているんですよ。梟は春から夏にかけて繁殖するのですが、ちょうど抱卵の最中でした」

「そりゃ知ってるよ。俺の庭の話だからな」


 その梟の夫婦は樹洞から顔を出し、卵泥棒未遂のファウナをじっと睨んでいる。


「うう……天敵認定されてる……そんなつもりじゃなかったのに……」


 ファウナは泣きそうだった。


「でもよかったな、鳥で。中にいるのが蜂とか蛇だったら、お前死んでいたぞ」


「はい。それに関しては幸運でした」


 ファウナが無事なのはよかったが、安心で腹は膨れない。蛇か蜂であれば、まだ飢えをしのげたものを。


 ちらり、と梟夫婦を見やる。


(猛禽は食えないからな)


 猛禽は動物界において屈指の狩人だ。特に梟は知恵と猟運の象徴であり、それを獲物とすることは罰当たりとして禁じられている。験担ぎに近いが、それもまた古い信仰に連なるものだ。


「で、何か用か?」


「何か用か、じゃないですよ」


 ファウナは不満そうに頬を膨らませた。


「ミランさん、あの後、すぐに帰ったじゃないですか。明日からって言ったのに、砦で待っていたんですけど、連絡もないから、こっちから出向いてきたんですよ」


 魔犬討伐が終わった後、あまりの眠たさに、ろくに待ち合わせる段取りをしないまま別れた二人であった。さらに言えば、ミランは先ほどまで寝こけていた。連絡がないのも当然である。


「それは悪かった。それにしても、よくここがわかったな」


「村の人から場所を聞きました。こんな外れに住んでいるんですね」


 ミランの家はトゥアール村のはずれを流れる小川のほとりにある。家屋の分布具合から見ても、明らかに離れた場所だ。意図的なものを感じるほどに。


「そういうしきたりなんだよ。〔神狩り〕は森と人里の狭間に住まなきゃならないんだ」


 ミランの言葉にファウナは顔を曇らせた。


〔神狩り〕は神でも、人でもない。その狭間の存在だ。だからこそ、森にも人里にも属せない。身も心も、暮らす場所でさえ。


 だが、本質は違う。それは神を殺したという穢れ、罪科を村に持ち込まないために隔離しているのだ。農耕社会における穢多の概念。今なお猛威を振るい続ける、貴賤という名の身分の壁。村社会において必要とされながらも、同時に忌避されてきた人々の現実。


「なんて顔しているんだよ」


 ミランはだからどうした、と言わんばかりの顔をした。


「しきたりというだけで、村の人たちは俺に対してどうこうするわけじゃないし、困ったことがあったら助けてもくれる。それに、誰からどう言われようと、俺は俺だ。誰からも理解されなくたって、今更〔神狩り〕としての在り方は変えるつもりはない」


 誇り高い人だ、とファウナは思った。同情や憐憫は、彼の誇りを傷つける。


「……違いますよ。ちょっと引っ掻かれたところがしみただけです」


「そういや、確か傷に効く薬草があったな。塗ってやるから、とりあえず家に入ろう」


 こっちだ、とミランは背を向けた。


 ファウナはミランに聞こえないように、小さな声で呟いた。


 ――あなたと出会えて良かった。

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