神と神狩りと魔法

 遠くから鐘の音がする。


 足跡を辿って獣道を進んでいたミランは足を止めた。


「――すれ違ったか」


 読みが外れた。〈森の王〉は居並んだ兵士たちに構わずに村へ降りたらしい。


 ミランの内心に明確な焦りが生じる。


(アクイラは大丈夫だろうか? その部下たちは? まさか、ファウナやフローラが襲われてはいないだろうか?)


 一度不安に思えば、それが深まっていくのは簡単なことだった。ミランの脳裏に最悪の情景が広がる。なまじ獣害の被害者たちの有様を熟知している彼だからこそ、その惨状を生々しく想像することができた。


 ミランはすぐにでも引き返したい衝動を、歯を食いしばって耐える。


 ただの村人ならいざ知らず、騎士団の精鋭があれだけ揃っているのだ。被害の程度は知れないが、全滅だけはありえまい。容易に攻め入ることができなければ、用心深い〈森の王〉は一度森へ引き返す。それを迎え撃つためのミランだ。いま、ここで自分が引き返しては意味がない。


 信じろ。信じるんだ。ミランは己に強く言い聞かせる。今宵を逃せば、ますます被害は大きくなる。いまここで、決着をつけるのだ。


 すると、森がざわめき始めた。


 怯えるように。恐れるように。


 触らぬように。祟られぬように。


 雪の中で眠りについている生き物たちが、夢の中で恐れ慄いている。


 ――〈森の王〉が、己の庭に帰ってきたと。


 ミランは体勢を低くしながら全神経を研ぎ澄ませた。腰の矢筒から神殺しの矢を取り出し、弓に番える。


 動物はやみくもに森の中を徘徊するのではなく、決まった道順を移動する。その道順を繰り返し通ることでできるのが獣道だ。


 基本的に獣道は障害物が少ない。そして、獣は逃走するときは本能的に障害物の少ない道を選ぶ。ミランの見立てでは、彼が今潜んでいる獣道こそが〈森の王〉が通る逃走用の経路だった。


 果たして、それは的中した。獰猛な気配が高速で近づいてくる。


(手傷を負ったようだな)


 森を震わす激情の気配に、ミランは内心で安堵する。どうやら一方的な虐殺にはならなかったようだ。


 ミランは獣道から外れ、大樹の陰に身を隠した。すれ違った瞬間に、無防備な背中に矢を叩き込む算段だ。


 茂みの陰から様子を見る。雪煙を巻き上げ、巨大な影が近づいてくる。


「――はっ」


 乾いた笑いが出る。


 なんという威容。これほどの大物を相手にしたことなど、これまでの人生で一度もなかった。


〈森の王〉はがふがふと白い息を吐き出しながら、こちらに向かってくる。その顔には裂傷。おそらく、騎士団の誰かが一矢報いたのだ。食事を邪魔され、返り討ちにあった激怒の気配がひしひしと伝わってくる。


 尋常ならざる速度で、〈森の王〉はミランが潜む大樹を通過した。


 ミランはすかさず弦を引き絞る。距離、五間。風はない。標的は無防備に背中を向けている。外さない。外しようがない。


 矢が指を離れた。必殺の毒矢は一秒とかからず五間の距離を疾走し、〈森の王〉の背中に命中する。


 血しぶきをあげて、巨熊は倒れた。


    ◇



 その、少し前。


 遠くから鐘の音が聞こえる。


 村長宅に避難し、いまは囲炉裏の前に座っているファウナとフローラが同時に頤を上げる。


「……出たようね」


「そうみたいですね」


 炭火のほのかな明かりに照らされた顔は、どちらも暗い。


 何とかしたいのに、何もできない。力になりたいのに、力がない。二人をそんな無力感が包んでいる。かといって、開き直って眠る気にもなれない。


 だから、二人して囲炉裏の前で顔を突き合わせてミランの帰りを待っている。賢者らしからぬ、まったく生産性のない行動だ。


「……ミラン君、死ぬかもしれないわね」


「そんな、ミランさんに限って……」


「十分にあり得る話よ。現に、彼のお父さんは先代の〈森の王〉と相打ちだったんでしょ。ミラン君よりも経験のある〔神狩り〕の力をもってしても、無傷で仕留めることはできなかった。年若いミラン君が勝つ保証はどこにもないわ」


 ファウナは口を閉ざした。フローラの言うことは正しい。ファウナの主張には何ら根拠がない。ただの希望的観測だ。


 すると、フローラが大きな溜め息を吐いた。


「あー、こんなに心配するんだったら、さっさと一発やっとけばよかった」


「……なにをです?」


「子作りよ、子作り」


「はあああ?」


 状況にまるでそぐわない発言に、ファウナが素っ頓狂な声を上げる。


「だって、ここでミラン君が死んだら〔神狩り〕の血統は途絶えちゃうのよ? 大戦が終わって、文明が急速に進んでいるこの時代において、彼のような人間は絶滅危惧種よ。これだけお世話になったんだもの、せめて、血だけでも残してあげたいじゃない」


「いやまあ、そうですけど……そういうのは当人の気持ちが大事なんじゃないでしょうか」


「そうなのよね。やりたいことは何が何でもやりとげるのが信条だけど、こればっかりはね。押し倒して拒否されたら、さすがに傷つくし」


「というか、仮にミランさんが了承したとして、フローラはいいんですか?」


「何をいまさら。私は好きよ、ミラン君のこと。というか、ファウナだってそうでしょ。アクイラさんだってそうだと思う。彼に関わって、心を救われた女の人は、誰だってそうなるんじゃないのかな」


 恥ずかしがるそぶりもなく、きっぱりとフローラは言った。そういうところは心底羨ましいとファウナは思う。


 でも、その通りだ。彼の存在に、どれほど心を救われたことだろう。


 ミランに出会わなければ、ファウナは己の生き方に迷い続けていたことだろう。彼女にとって、ミランは特別な存在だ。求められるのなら、どんなことでもしてあげたいと思うほどに。


「ファウナは、ミラン君に死なないでほしい?」


「当たり前じゃないですか」


「だったら、なんで、あんたはここにいるの?」


 ファウナは言葉の意味が分からず、えっ、と呆けたような声を漏らす。


「私は、ここで待つことしかできないわ。ただの学者ですもの。文字通り、ついて行っても足手まといよ……でも、あんたは違うでしょう?」


 フローラはファウナを見つめた。緋色の瞳が、ファウナの空色の瞳をまっすぐに射貫く。


「……わたしが手を出せば、ミランさんの矜持を傷つけてしまいます」


「私が初めてこの村に来た時、あんた、ミラン君に言ったわよね。大事な人だからこそ、わたしは自分の気持ちに嘘を吐きたくない。本当のわたしで向き合いたいんだって。いまのあんたに、その言葉、そっくり返すわ。あんたにとって、ミラン君は偽りの気持ちで向き合う程度の人なの?」


 ぱちり、と囲炉裏の炭が割れた。


 ファウナはしばし瞳を閉じる。長い長い沈黙を経て、開かれた青い瞳には、強い決意の輝きがあった。


「――フローラ。あとは任せますね」


「はいはい。留守番くらいはしっかりやるわよ」


 ファウナは立ち上がって防寒着に素早く袖を通すと、そのまま兵士たちの怒号飛び交う扉の向こうへ駆け出した。


「……まったく、手がかかること。学院の総意を突っぱねて、博物学科に行ったくせにさ」


 愚痴りつつも、フローラの顔には微笑が浮かんでいた。



     ◇



(不味い――!)


 ミランは絶句した。


 確かに毒矢は命中した。にもかかわらず、〈森の王〉にはまだ息がある。


 いくら怒りで我を失っているとはいえ、矢傷を受けて狙撃者の存在に気づかないはずはない。〈森の王〉はのそりと体を起こし、ミランが潜む大樹を睨む。


 ミランは即座に後退した。


(体がでかいから、毒が回るのが遅いのか。なら、それまで時間を稼げば――)


 そこまで考えて、ミランの思考は止まる。


 どん、という地響きがしたと思った瞬間、目の前に〈森の王〉がいた。


 時間が切り取られたような感覚だった。


 熊の鈍重そうな外見とは裏腹に走力は人間をはるかに上回る。そんなことは百も承知だ。


 だが、わずか一歩で。五間の距離を飛び越えるなどとは想定外だった。


 丸太のような腕がミランを薙ぎ払う。とっさに腕で受けたものの、そのまま吹き飛ばされた。茂みを突き破りごろごろと雪の上を転がって、木の幹に強かに背中を打ち付けて止まった。


 防寒着の下に着こんでいる軟革鎧のおかげか、外傷はなかった。だが、背中を打ったせいで息ができない。


 痛みと息苦しさで意識が朦朧とした。


 一撃で仕留められなかった時点で、ミランの負けだ。〈森の王〉はやがて毒が回って死に至るだろう。だが、その前に自分は殺される。


 アクイラには自害するよう助言をしたが、肝心の自分はできそうになかった。


(――まあ、仕方ないか)


 不思議と心は穏やかだった。


 村のみんなや――あいつらは守ることができたんだ。未熟者なりに、最善の結果を掴みとることができた。


(――ああ、そうか。父親もきっとこんな気持ちだったのかもしれない)


 こんな気持ちで死ぬのなら、悪くない。


 ミランが自らの死を受け入れようとしていると、あり得ないものを見た。


 ミランと〈森の王〉の間に割って入る影。村長の家に避難しているはずの、ファウナの後ろ姿だった。


「ミランさん、大丈夫ですか!?」


「ば、馬鹿野郎、なんで来た、逃げろ!」


 ミランは息も絶え絶えに叫んだ。〈森の王〉はまだ十分に余力を残している。ファウナを噛み殺すくらい、わけはない。


 だが、いつまでたっても〈森の王〉はファウナに飛び掛からなかった。まるで見えない糸に縫い留められたように微動だにしない。


 ミランはファウナの全身が淡く発光していることに気づいた。魔法だ。ファウナが魔法を使っている。


 魔法というものが、どんなものかミランは知らない。だが、きっとそれはこの状況を打破できるものなのだろう。しかし、それは――神と〔神狩り〕の戦いを汚すものだ。


「やめろ。手出しは無用だ。俺は負けた。負けたものが死ぬのは自然の掟だ。だから、死んでも後悔なんてないんだ……!」


「――それでも」


 ファウナは振り向かなかった。背中を向けたまま、淡々と言葉を紡ぐ。


「わたしは、あなたに死んでほしくないんです。あなたの矜持を傷つけても、あなたに嫌われても、わたしは、あなたに生きていてほしいんです。それがわたしの、本当の気持ちです。……わがままだって、わかっています。でも、わたしは、もう自分の気持ちに嘘はつかないと決めたのですから」


 ファウナは右手を空に伸ばした。雲が流れ、月光が雪化粧の森を照らす。


「詫びるつもりはありません」


 それは、どちらに対しての言葉なのか。


 ファウナはそっと腕を下ろす。見えない剣を振り抜くかのように。


 それと同時に、森の王は唐竹に真っ二つに引き裂かれた。二つになった熊の断面から、血が滝のように吹き出し、周囲の雪を真っ赤に染める。


 指の一本も触れず、弓矢のような道具も使うことなく。〈森の王〉はあっさりと両断されてしまった。


 それが、ミランが初めて見る魔法という現象だった。

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