素顔のままで

 ミランとアクイラが慌てて一階に駆け降りると、そこにはまるで悪夢のような光景が広がっていた。


 石畳の廊下が真っ黒に染まっている。


 それは馬陸やすでの群れだ。


 数えきれないほどの馬陸が、黒い絨毯となって石畳を覆っているのだ。


 それがうぞうぞと蠢動するのを見て、アクイラの顔がみるみる青ざめていく。


 さすがのミランも同じ気持ちだった。目を背けたくなるような光景。知識や経験を超越した、本能的に引き起こされる恐怖だ。


 なぜ人間が昆虫類に対して抵抗を感じるのか。その理由は様々だが、その一つは存在の異質さに因るものであると考えられている。


 例えば、人間が子犬や子猫を可愛いと思うのは、顔の構造が人間の赤ん坊のそれと共通しているからだという説がある。種族は違えど、自分と似ているものに愛着を持つのが人間というものだ。


 その意味で、人間と昆虫は肉体構造的にかけ離れすぎている。まず脊椎の有無からして違う。手足の数も違えば、繁殖形態も異なる。あまりの共通点の少なさが故に、人間は彼らに対して愛着を持つことが難しいのかも知れない。


 廊下では数名の部下が悲鳴を上げながら右往左往していた。


 そのうちの一人がアクイラの姿に気づく。


「隊長、急に虫が湧いて出まして……!」


「み、み、見ればわかる!」


 毅然と答えたつもりだろうが、アクイラの声は震えていた。


「とりあえず、これ以上侵入されないように窓や戸を閉めて回っていますが……うひぃ、鎧の隙間から入ってくる!」


 地獄絵図とはこのようなものなのだろう。屈強な騎士たちも予想外の事態に完全にお手上げ状態だ。


 もともと騎士とは人間相手の戦争屋である。害獣駆除も担うからといって、生粋の猟師ほど生き物の対応には熟達していまい。


「あ、慌てるな! 慌てるんじゃないぞ! 落ち着いて冷静に対処するんだ!」


 アクイラは膝を震わせながらも、懸命に声を張り上げる。


「隊長の言うとおりだ!」


 同じく声を張り上げたのは、この状況に動じていない大柄な一人の兵士だった。その手には竹箒が握られている。


「いくら数が多かろうと、たかが虫だ。箒でまとめて掃き出してしてやる!」


 大柄な兵士が箒で掃き出すのを見て、ミランが血相を変えた。


「ば、馬鹿! 刺激を与えるな、そいつには毒が――」


「え?」


 掃き散らされた馬陸の塊が、ぶしゅうと臭液を噴き出した。苦いような、甘いような形容しがたい異臭が廊下に広がる。


「なんだ、この臭い……うっ」


 うめき声をあげ、箒を持った部下が膝をつき、ぱたりと倒れる。馬陸の毒にやられたのだ。


 馬陸の毒は蜂のように即効性があるわけではない。だが、馬陸の毒は狩猟にも用いられる危険なものだ。付着すれば炎症を起こし、気化したものを吸い込めば頭痛、吐き気、眩暈や意識の喪失などを引き起こす。一匹や二匹ならまだいいが、数が数だ。あれだけの濃度、最悪の場合、命を落とす危険もある。


「――不味いな」


 扉や窓を閉め切っているため、毒素は滞留したままだ。倒れた兵士をそのままにしておくのは不味い。急いで手当てをしなければ。だが、助けに入るということは毒の中に飛び込むということだ。


(まずは、毒素を肺に入れないように濡らした布か何かで口元を覆わなければならない。だが間に合うか……? 準備している間にも、あの兵士は毒霧のなかにいるんだぞ……!?)


 ミランが決断を下すより早く、アクイラが駆け出した。鎧を身に着けているとは思えないほど俊足である。


「おい、無理するな! お前は虫が――」


「ああ! 嫌いだ! 今でも気を失いそうだ! 嫌だ、嫌だ、逃げ出したい!」


 情けないことを叫びつつも、馬陸を掻き分けて部下の体を引っ張り上げる。


「だが、自分が踏ん張らなかったせいで、部下が死ぬところを見ることのほうがもっと、もっと嫌だ……!」


 それは鬼気迫る表情だった。夏至祭りの演武で、涼しい顔で三人の兵士をあっという間に倒した女とはとても思えない。


 だが、その必死な形相こそが、アクイラの素顔なのだ。いつ自分の弱さが明るみになるかと不安に耐え、それを隠すために努力を続けてきた女の仮面の下。やり方は間違っていたかもしれないが、積み上げてきたものは本物だ。それを笑える者などいるものか。


 アクイラはその表情だからこそ美しい。不謹慎だが、ミランはそう思った。


 フローラの言ったとおりだ。もしかしたら見抜いていたのかもしれない。彼女もまた、努力で成り上がった人間だから。


 アクイラはミランのもとまで部下を引きずって来ると、力尽きて片膝をついた。顔面蒼白だ。あれだけ接近したのだ、毒にも充てられたのだろう。


「……ミラン殿。すまん。限界だ。あとは頼む」


 そう言い残して、アクイラはぱたりと倒れこんだ。


「……簡単に言ってくれるな」


 ミランは忌々しそうに唇を歪める。


 だが、あの虫嫌いのアクイラが、部下の命を守るために死力を尽くしたのだ。それに応えないわけにはいくまい。


「いいか、お前たち。さっきも言ったが、こいつらは刺激を与えると毒を出す。湿した布で口を覆ってから対処だ! まずはそれを全体に周知しろ!」


 おう、と周囲の兵士たちが唱和する。


「気を失ったやつは外へ運べ! 毒気がこもった室内よりマシだ! あと、伝令! 俺の家へ行ってファウナとフローラを連れてこい! 専門家が必要だ!」


「了解しました!」


 慌ただしく、けれども堅実に兵士たちはそれぞれの仕事を始めていった。


 指揮官がおらずとも自らの頭で考え、事態解決に向けて適切に行動している。アクイラが倒れたことを不安に思う兵士は誰もいなかった。


 アクイラが隊長として蔑ろにされているわけではない。むしろ、その逆だ。彼らはアクイラという完璧な女に依存しないために、これほどの練度に達するまで修練を積み重ねた。いつか彼女が弱音を吐けるように。


(……これが騎士団か)


 これまで色眼鏡で見ていたが。なんだ、なかなかやるじゃないか。


「いい部下たちだな。だからこそ、お前がそこまで気負うことはないんだよ」


 アクイラを背負いながら、ミランは優しく語りかけた。


 その声が気を失ったアクイラに届いたかどうかは定かではない。



     ◇



「気分が悪い人は、我慢する必要はないわ、さっさと吐きなさい。自分で動ける人は裸になって付着した毒を水で洗い流してきなさい! え? 恥ずかしい? こんな時に恥ずかしがっているんじゃないわよ!」


 表では雨に打たれながらも、フローラがてきぱきと指示を出す。彼女の本業は植物学科ではあるが、その系統である薬草学を通じた医学的知識にも精通している。専門家ではないが、それでも最先端の学院で学んだ身の上。そのへんの藪医者よりもよっぽど優秀である。


 だが、その顔は青かった。フローラこそがではないのか。


「おい、フローラ、大丈夫か。顔が真っ青だぞ。お前も馬陸の毒に当てられているんじゃないのか?」


「……いえ、単に二日酔いがまだ治っていないだけよ」


「……そうか」


「いま、心配して損したって思ったわね?」


「思ってないぞ」


 それだけ言い置いて、ミランは砦の中へ戻った。あの様子なら大丈夫だろう。


 ファウナは外と中を行ったり来たりして駆除に当たっている。


「面倒くさくても、一匹一匹、丁寧に捕まえてください。そっとですよ。強い刺激を受けると毒を出しますから、素手では絶対触らないでくださいね」


 地道な作業だが、幸いなことにここは騎士団の砦だ。人手は足りている。動ける人間総がかりで、一匹一匹を優しく外へ移動させていく。


 すると突然、ファウナが「ふぉぉぉ!」と喜色満面な声を上げた。


「これはまた、でっかいですね。見てください、一尺くらいありますよ!」


 にこにこしながら火箸で摘まんだ馬陸をミランに差し出してくる。


 長さはおおよそ一尺。確かにでかい。この大きさはミランも見たことがない。過去最大といってもいい。いいのだが、はっきり言って不謹慎だ。


「いや、見せなくていい。それよりも、どうしてこんなに湧いて出たんだ?」


 ファウナは状況を思い出し、さっと真顔に戻る。


「馬陸は水に弱いので、雨が降ると溺れないように地表に出てくるんです。それに彼らは集団で生活しているので、おそらく営巣場所が水没したのだと思われます」


「大量発生というわけじゃなくて、もともとこれだけの数がこのへんに生息していたということか……」


 陸上の動物種の七割が昆虫というが、それでも少しぞっとする話である。


「だが、終わりかけとはいえ、今は雨季だぞ。雨なんて頻繁に降る。なんで今日に限って……」


「そこなんです。わたしも気になります」


 そう言って、ファウナが兵士の一人を呼び止めた。


「すいません。最近、砦を改築したとか、訓練のために土地を掘り返したとか、そういうことはありませんか?」


「……いえ、そういったことはありませんが」


 ふむ、とファウナはしばし考え込む。


「でしたら、状況が落ち着き次第、周辺の調査をお願いします。ひょっとしたら、これは何らかの警鐘なのかもしれません」



     ◇



 幸いなことに雨が止む頃には事態は収束した。体調不良で倒れた者も大勢いたが、フローラの見立てではどれも軽症で、安静にすれば問題ないそうだ。


 とはいえ、馬陸の数は尋常ではなかった。死体から気化した毒素だけで十分に致死する状況だったという。死者を一人も出さなかったのは、ミランが当て布の使用を早期に周知していたからであろう。


 その二日後、アクイラがミランの家を訪れた。


 毎度のことではあるが、ミランの家に来客用の部屋などない。自然と食卓が応接間の代わりになっている。


 食卓を挟み、ミランとファウナ、そしてアクイラが向かい合っている。ちなみにフローラは城砦へ回診だ。医療分野に関しては彼女しか手を出せない。無論、彼女の本業は植物学なのではあるが。


「ファウナ殿が仰ったとおり、川上のほうで地滑りがありました。それで川の流れが変わり、森のほうへ水が流れていったようです」


「それで、馬陸たちがびっくりして逃げ出したんですね」


「地滑りの規模は小さいものでしたが、そのまま放置しておけば農業用水に影響が出たかもしれません。なので、村人と協力して早急に土砂の撤去を行いました」


「ええ。それでいいと思います。ご苦労様でした」


「こちらこそ、ご助力に感謝します。魔犬に引き続き、二度も救われました。まことに感謝の念に堪えません」


 畏まって首を垂れるアクイラに、くすり、とファウナが笑みをこぼした。


「それにしても、意外でした。アクイラさんって虫が苦手だったんですね」


「……は。お恥ずかしい限りです」


 頬を朱に染めて、アクイラは顔を伏せた。


「笑ってすみません。でも、これでも安心しているんですよ。アクイラさんも普通の女の子だったんだなって。虫が苦手だなんて、女の子らしい欠点で可愛いじゃないですか。……あれ? もしかして、わたしって可愛くない……?」


 勝手に自滅したファウナは放っておいて、ミランが尋ねた。


「まあ、そうやって盛大にバレたわけだが、あれから部下とはどうなんだ?」


「はい。それから特に態度が変わるようなことはなく……むしろ、以前よりも親身になってくれているような気がします。ミラン殿のおっしゃる通り、無理に仮面をつけ続けてもしょうがないということですね」


 アクイラははにかみながら答える。


「自分は、自分の力だけで部隊をまとめていると思っていましたが、それは自惚れでした。彼らのような立派な部下がいるからこそ、こんな若造でもまとめ上げることができたのです。ならば、自分は部下をもっと信じればいい。そして、その部下に恥じない隊長であるように日々精進を積めば良いのです」


 そう言って、アクイラは爽やかな笑顔を浮かべた。


 理想の騎士ではなく。ただの一人の女としての素顔。


 それは完璧の仮面なんかよりも、よっぽどアクイラに似合っている。ミランはそう思った。


「でも、部下の理解が得られたからって、虫嫌いのままじゃいずれ任務に支障が出るんじゃないのか?」


「ご安心を。馬陸まみれになったせいか、そこはかとなく虫に耐性がついてきたように思えるのです。そのうち克服して見せましょう」


 ごきぶりにびびっていたとは思えないほど、自信満々な発言。確かに、あれだけ凄惨な体験をしたのだ。それに比べれば大抵の虫はどうということもあるまい。


「そうかそうか。だったら、もう俺が倒しに行かなくてもいいな」


「……え?」


 きょとん、とアクイラが目を瞬かせる。


「ほら、結局、仕留めそこなったじゃないか。あのごきぶり。お前が抱きついたせいでな。まだあの部屋にいるんじゃないか」


 その通りである。結局、アクイラの部屋に潜伏しているごきぶりはそのままだ。馬陸の一件ですっかり失念していた。


 思い出した途端、アクイラは脂汗をだらだらと流し始めた。


「ミラン殿、申し訳ないが、また自分の部屋に来てもらえないだろうか……?」


「なんでだよ。今のお前なら自分ひとりで駆除できるだろ。仮にそれが無理でも、別にもう虫嫌いは周知の事実なんだから、恥ずかしがらずに部下に倒してもらったらいいじゃないか」


「虫嫌いはバレましたが、片づけが下手なのはまだ言ってないのです! あの部屋を部下に観られるわけにはいきません! 虫が嫌いなのは女としてまだ可愛げがありますが、部屋が汚いのは女の沽券に関わります!」


 アクイラは情けないことを握りこぶしで力説する。


「というか、お前……昨日の今日で、もう散らかしたのか……」


 この間、あれだけ掃除したのに。ミランは呆れ果てた。


「もういい。俺は知らん」


「ミラン殿、後生です、そこをなんとか!」


「知らんったら、知らん」


 アクイラの仮面を完全に取り去るには、どうやらまだまだ時間がかかるらしい。

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