厳戒態勢
その日の夜。
村長の依頼を受け、イール駐屯中隊より一個小隊ほどの兵士がトゥアール村に派遣された。
兵士の配置に伴って、村の周囲に立てられた篝火の明かりが淡く雪の絨毯を照らしている。
「ミラン殿」
様子を見に来たミランの姿を発見した、アクイラ十騎長が駆け寄ってきた。
「アクイラか。寒い中、急に派遣を要請してすまないな」
ミランが素直に労をねぎらうのは珍しい。やや意表を突かれながらも、アクイラは敬礼で返す。
「いいえ。これも騎士の務めですゆえ」
「だが、まさかこんなに動員するとは思わなかったよ」
部隊編成の単位は時代、国家によってさまざまだが、レスニアにおける一個小隊は歩兵三十名前後を指す。これはイール駐屯中隊の戦力の約三分の一に相当する。
単なる害獣駆除の任務としては、異例の人数だ。
「標的が標的ですからね。我が隊の古い兵士には、ミランの御父上の武勇伝を存じているものもいます。それにしても、これほど火を焚いて、熊はかえって逃げませぬか?」
ミランは肩をすくめた。
「だったら、大いに助かるんだがな。イールの熊は火を恐れない。それに、奴は腹が減っている。おかまいなしにやってくるさ」
火という人間最大の武器を恐れないからこそ、熊は辺境における最大の獣害として君臨している。野犬や毒虫に比べて直接的な対抗手段が少ないのだ。いざ襲われれば、物理的に排除するしかない。
「俺はこれから森へ行く。ここは任せたぞ」
その言葉に、アクイラは表情を曇らせる。
「それは危険です。どうか、我々と行動を。熊めが火を恐れずに、村へやってくるというのでしたら、ここで迎え撃ったほうが確実です」
ミランは首を横に振った。
「子育ての時期や空腹時は凶暴だが、熊というのは基本的に臆病で用心深い。状況によっては腹を満たすことよりも身の安全を選ぶこともある。全力で逃げる野生動物を追撃するのは困難だ。それに、ここが餌場にならないと判断すれば、兵を配置していない別の村を狙う。そうなった場合、陣を敷いている分、お前たちがすぐに動くことは難しいだろう。遊撃が必要なんだ」
「ですが……」
なおも言いつのろうとするアクイラに、ミランは優しい笑みを浮かべた。
「俺は誰一人、死者を出したくない。お前たちがいてくれるおかげで、俺は神のみに集中できるんだ。本当に、感謝しているよ」
かつてのミランでは決して出ない言葉だった。
もし、ミランがファウナと出会わなかったら。フローラやアクイラと出会わなかったら。きっと、彼は一人で〈森の王〉に立ち向かっていたことだろう。そうなった時、ミランは果たして誰の血も流さずに討伐できただろうか。
きっと、無理だ。今のミランはそう思う。
父が〈森の王〉と相打ちに終わったのも、父が一人だったからだ。こうやって自分以外の誰かの力を借り受けることができれば、結末は違ったのかもしれない。
――俺も、だいぶ習わしから遠い存在になってしまったようだ。
人と神との狭間。人でなく、神でない中途半端な存在。そうあることを誇りに思っていた自分の在り様が、大きく変わっているような気がした。
だが、不思議と嫌な気分ではなかった。
ミランはアクイラに向きなおって、指を三本立てる。
「俺から助言できることは三つ。一つ、必ず複数人で行動しろ。俺は例外だが、単独行動は厳禁だ。二つ、情けをかけるな。仮に射線上に仲間がいたとしても、仲間ごと射ろ。もちろん、殺せると確証がある時だけな」
「……最後の一つは?」
「もう駄目だと思ったら、自害することも考えておけ。生きながら食われるのは、なかなかに地獄だぞ」
アクイラの背筋に冷たいものが走るのを感じた。
◇
村の守りを騎士団に任せ、ミランは森の中に残された足跡を追う。
雪道は足跡が残りやすいため追跡は容易だ。森の中を駆けながら、〈森の王〉のおおよその行動範囲と傾向を割り出す。
とはいえ、簡単に尻尾を掴むことはできないだろう。野生の動物には自らの足跡を踏んで後退し、進行方向を悟られないようにするものもいる。動物が弱肉強食の世界で勝ち続けるためには、そういった知略も不可欠だ。
だからこそ、ミランは騎士団の出兵を要請した。
アクイラの部隊を呼んだ理由は二つある。一つは村人の警護だが、もう一つは〈森の王〉の警戒心をそちらに向けるためだ。元来、臆病な熊。餌場と目をつけていたところに変化が訪れれば、慎重にならざるを得ない。
しばらく様子を見るだろう。しばらくは森の浅い位置で釘付けにできる。その間に背後を取れるのが理想的だ。
可能であれば、アクイラたちに被害が出る前に仕留めたい。
ミランは逸る気持ちを抑えながらも、気配を消して森の中を駆けていく。
だが、残念なことに――結果だけを見れば、ミランの読みは外れた。
◇
歩哨に立っていたアクイラは鼻に違和感を覚えた。
半年ほど前の馬陸の事件以来、これまでの人生の中でおおよそ経験したことのない悪臭を嗅いだせいか、彼女は臭いというものに敏感になってしまったのだ。
そのアクイラの嗅覚が訴える。篝火の松脂が焦げる臭いに混じって、どこからか漂う獣の臭気を。
ふと視線を感じ、アクイラが振り返ると――そこに熊がいた。
心臓が跳ねる。呼吸が止まる。まるで巌のような巨体。
間違いない。ミランから聞いていた〈森の王〉だ。それが音もなく、わずか三間程度の距離まで忍び寄っていたとは――!
(なんという威容。これが、〈森の王〉か……!)
内心で驚愕しつつも、アクイラの体は反射的に槍を構えた。
恐ろしい。恐ろしいが、半年ほど前に全裸で渡り竜と直面したことに比べれば、どうということはない。少なくとも、あの時と違って肉体の自由は利いている。
(――ミラン殿には感謝だな。おかげで、無様を晒さずに済む!)
背を向けるようなことなどしない。野生動物との戦闘において、背中を向けることは最も愚かな行為だ。アクイラは冷ややかな眼光を宿し、真っすぐに倒すべき相手を見据える。
まだ〈森の王〉の接近に気づいていない隣の部下には声をかけられなかった。声を出せば、その時点で〈森の王〉は飛び掛かってくるだろう。三間の距離など無いに等しい。振り向くより先に部下がやられる。
まずは、こちらが立て直す時間を稼ぐ。それは、接近を事前に察知できたアクイラにしかできないことだ。
裂帛の気合とともに、アクイラは槍を突き出した。唸る穂先が〈森の王〉の顔面に突き刺さる。
ぶおおお、と野太い咆哮が夜空を震わせた。
アクイラは声を張り上げる。
「鐘を鳴らせっ! 出たぞ!」
異変に気付いた部下が手にした鐘を激しく叩いた。その音を聞きつけてぞくぞくと兵士たちが集まってくる。迅速な動きはアクイラの指導の賜物だ。
兵士たちはそれぞれ槍を突き付け、〈森の王〉を包囲しようと陣形を構築する。
――その前に。
不利を悟った〈森の王〉は完全に包囲される前に、最も手薄な部分を突き破って森の方角へと駆け戻った。
「追え!」
だが、熊の脚力は人間をはるかに凌駕する。人間では熊の追撃から逃れられないのと同様に、人間では到底追いつくことができない。
かくして〈森の王〉は
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