ファウナの庭
白武士道
序章
運命の矢
夜空に獣の声がこだまする。
遠吠えではない。絶叫だ。
田畑を掘り返して作物を貪っていた野猪は、突然の激痛に身を震わせ、大きな地響きを立ててその場に倒れ込んだ。
のたうち回り、息苦しそうにぱくぱくと口を動かすものの、取り入れた空気が体を巡ることはなかった。腹部に深々と突き刺さった一本の矢――風下から撃ち込まれたそれが、肋骨の隙間を縫って心臓だけを正確に破壊しているからだ。
矢。すなわち、弓から放たれたもの。
これが人の手によるものであれば、まさに神業と呼ぶに相応しい一射である。
風下からの狙撃は音も匂いもかき消してくれるが、その反面、風の煽りをもろに受けてしまう。高速で移動する物体はわずかな空気の抵抗でも軌道が逸れてしまうし、ましてやそれが矢のように軽量なものであればなおのことである。
おまけに夜だ。見通しは最悪と言っていい。かくも厳しい条件下で、特定の部位だけを狙って命中させることは生半可な腕前では不可能だし、まぐれもまず起こり得ない。
これを意図的に実現せしめたということは、その射手は神域の腕前の持ち主ということになる。
野猪が完全に沈黙して暫くすると、少し離れた茂みの奥から射手が姿を現した。
すらりと高い背丈。がっちりとした肩幅。体格から察するに男性か。手垢の染みついた狩猟弓を携え、すっかり色褪せした軟革鎧の上から森林迷彩の外套を羽織っている。腰にはいくつかの矢が収まった筒と、実用性一点張りの無骨な短刀が二本。その人物が狩猟を生業にする者であることは明白だ。
なるほど。猟師であれば弓の扱いに熟達していても不思議ではない。だが、あれほどの神懸った一射を放つには途方もない修練を要する。十や二十の歳月では足るまい。さぞや名のある老狩人に違いない。そう誰もが思うだろう。
だが、瞠目すべきことに彼は若かった。少年といっても差し支えないほどに。
年の頃は十五、六だろうか。多く見積もっても二十歳には届くまい。適当にはさみを入れただけの黒髪に、精彩を欠いた眠たげな双眸。頬には小さな傷跡がいくつもあり、それがある種の厳めしさを伴ってはいるものの、ごく平凡な顔立ちの少年だった。とても、神業を成し遂げたとは思えない。
少年はゆっくりとした足取りで、今しがた息を引き取った野猪の傍に歩み寄った。片膝をついて刺さった矢を抜き取ると、慣れた手つきで縄をかけていく。
彼くらいの年齢であれば、大物を討ち取ったことを無邪気に喜びそうなものだが、そういった感情は一切なかった。驕るわけでもなく。遜るわけでもなく。この程度、当然だと言わんばかりに作業を進める。
そう。少年にとっては、本当に当たり前のことだったのだ。
見たことないほどの大物を仕留めようと。どれだけの神業を成し遂げようと。呼吸するのに意識を割くだろうか。瞬きをするのに感慨を抱くだろうか。
否だ。今夜の討伐も、彼にとっては今日を生きるための仕事に過ぎない。
この程度では、心にさざ波もおきない。
代り映えのしない日々。昨日と同じ退屈な日常。
理想に燃えるわけでもなく。夢に焦がれるわけでもなく。ただ生きていくだけの毎日。
しかし、彼の心は満たされていた。今の生活以上のものを求めなかった。ただ、今日を健やかに生きているだけで幸福なのだと心の底から思っていた。誰から教わるわけでもなく、強制されるわけでもなく、ひとりでに辿り着いた……あまりにも老成した人生観。
自分が自分である限り、己自身で在り方を変えない限り、今日という日々はいつまでも続いていくに違いない。彼は真剣にそう考えていた。
だから、彼は夢にも思っていなかった。
この日、この夜。渡来の神を討ち果たした一本の矢が、彼の生活を大きく変えることになるなどとは――。
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