在り方

 蜥蜴が手に入ったのは僥倖であった。蛇よりも食いでがある。


 ミランはすぐさま捌いて念願の食事を摂ると、ファウナのために虫籠を作成した。そのあたりで拾った枝や葉っぱでこさえてしまうあたり器用である。


「これでいいか?」


「ばっちりです」


 籠の中にはさっき捕まえたウキマネキの幼虫が入っている。


 幼虫は止まり木の中ほどで動きを止め、しばらくじっとしていた。


 灯篭の明かりだけの薄暗い部屋でファウナはじっと見つめている。


 待つことしばらく。ぴり、という、うっかり聞き損じてしまうほど小さな音がしたかと思うと、背中に大きく亀裂が入り、中から成虫が出現した。


 真珠のように真っ白い体。硝子のように透明な羽。完全変態と違い、不完全変態である蝉は幼虫の面影を残しつつも、違う生き物に変貌した。


「……やっぱり虫は面白いですね」


 優しい笑みを浮かべながら、ファウナは言った。


「少し、昔話をしていいですか?」


 ミランは無言で続きを促す。


「わたしの生家はちょっとした名家だったのですが、中でもわたしは特別な子供でした。特殊な才能を持っていたんです。誰にも真似できない才能。とある分野において、天才と称しても過言ではないほどの」


 それは朝焼けの砦でファウナが語ったことだ。別の学科への異動を推薦されていると。それを押して、今の学科に留まることを選んだのだと。


「それが発覚した時点で、わたしの価値と将来は決まりました。それ以外の未来は不要。いかに才能を伸ばすか、いかに活用していくか。幼少のうちからそればかりを追い求める日々でした。とはいえ、それが当たり前だったので、当時のわたしは人間とは自己の才能や能力に応じた役割に就くことが当然である、なんて至極真面目に考えていたのです」


 それは無理からぬことだ。どんな親でも子供に茨の道を歩かせたくはない。どうせならば、才覚や適性のある道に進ませたいと願うだろう。


「ある時、わたしは一人の老人と出会いました。家の敷地にある林に、昆虫採集に来たのだそうです。それはもう楽しそうに蝉を追いかけていました。頼んでもいないのに捕まえた蝉を見せに来て……ふふ、女中さんに叱られていましたね。お嬢様になんてものを見せるのか、悪い影響が出たらどうするのか、と」


 ファウナは含み笑いをした。悪い影響も何も、今の彼女は蝉どころか、あまねく動物の生態を研究する国家賢人だ。


「素性を尋ねると、その方は在野の賢人で、昆虫の研究をされているとのことでした」


「……ということは、そのじいさんは王立学院に属していない?」


 その通りです、とファウナは首肯する。


 学問の探求を志す人間はほぼ確実に王立学院の門を叩く。学院以上に学ぶ環境が整った場所がないからだ。出自や経歴、年齢、性別、経済力なども一切不問。賢者としての能力があれば、誰にでも門戸は開かれている。……はずだ。


「在野にいる賢人は二種類です。何らかの理由で学院から追放されたか、そもそも国家賢人としての能力が足りないかです。その人は後者でしょう。才能がないのに、どうしてこの老人は研究を続けているのだろう。当時のわたしは不思議でなりませんでした。だから、尋ねたんです。無能が有能に上回る成果をあげられるわけなのだから、あなたがやっていることは意味なんてないのに、どうしてへらへら笑っているのか、と」


「……うわあ」


「引かないでくださいよ。わたしだって、最低だって思っているんですから。でも、その老人は気を悪くした風もなく、わたしにこう言いました。――意味などないさ、あるのは意志だけだよ、と」


 ――才能や素質に従うだけで幸福になるような単純な世の中なら、誰も悩んだり苦しんだりしておらんさ。自分の在り方を決めるのは自分の意思だ。誰かのではない。他ならぬ自分の意思が反映されていることが問題なのだ。自分の在りたいように在れる。それが、わしにとっては一番の幸福なんじゃよ。だから、笑っているのさ。


「要するに、その老人は虫が好きだから研究していたんです。誰かのためでもない、自分がただ好きだからという単純な理由で。けれど、わたしは衝撃を受けました。その言葉は今までのわたしの価値観を否定するものだったからです」


 その数日後、老人は亡くなったという。ファウナは親に無理を言って、葬儀に参列させてもらった。


「――とても穏やかな死に顔でした」


 心の底から憧れるような声。


「わたしには才能があって、それを伸ばす環境もあった。でも、果たしてそこにわたしの意思はあったのか。わたしは、あの人のような穏やかな顔で人生を終えることができるのか。気が付けばそんなことばかり考えるようになりました。わたしがしたいことはなんだろう。才能や環境を別にして、私自身が本当にやりたいことは何なんだろう。もっと言えば、私は何のためにこの世に生を受けたのだろう、と」


 老人との語らいは、ファウナの価値観に亀裂を生んだ。まるで蝉が古い殻を脱ぎ捨てるように。翼を手に入れて飛び立つように。初めて、自由意志というものを自覚するようになった。


「王立学院に入学してからは、わたしはわたしのしたいことを探しました。いろんなことを試してみましたよ。でも結局、行きついたのは動物学でした。もちろん、生き物は好きですが、その根幹にはあの人のようになりたいという思いがあったのかもしれませんね」


 安直ですよね、とファウナは苦笑した。


「もちろん、周囲からは猛反発がありました。いいえ、あっています。現在進行形です。わたしの才能を活かす学科への移籍の話は未だに片付いていません。どんな理由であれ、わたしはわたしの将来に期待した人たちを裏切り、国家賢人でありながら国益を損ねる選択をしたのですから。それに、自分でも贅沢な人間だと思っているのです。生き方を選べない人たちだって大勢いるのに。誰にも真似できない才能を持っていながら、その道に進むのが嫌だなんて……」


 己を形作るのは己の意思だ。それは間違いない。だが、意思が介在するがゆえに、それを選んだ責任もまた存在する。世の中には、誰かの言われるままに、何も考えることなく生きたほうが楽な人間もいるのだ。


 他ならぬ、ミランがそうだった。


「俺には何も言えないよ。俺は〔神狩り〕を継ぐのが当たり前だったから。子が親の仕事を継ぐのは当然だと思っているし」


 猟師の家に生まれ、育つ過程でその技術や理念を継承した。そして、いずれは父の跡を継いで〔神狩り〕になる。将来を疑うことなどなかった。それ以外の生き方など知らないし、必要もなかった。自分はそれで満足していたから。もしものことなど想像したことさえない。


「……ただ」


 ――もし、別の道があったのなら。選ぶ自由があったのなら。彼もまたファウナのように悩んだのかもしれない。少なくとも悩まないとは断言できなかった。


「それは、一生のうちに食べられるのが肉か野菜かってことだろう。肉しか食えないやつは野菜を食えるやつが羨ましく見える時もあるだろうし、逆に、野菜しか食えないやつは肉が食えるやつが羨ましく見える時もあるだろう。どっちか選べるということは、どっちかしか選べない奴にとってみれば確かに贅沢な悩みだろうさ。

 ……でも、どっちかは選べても、どっちも選べるわけじゃない。

 これが正しい道筋だって選んだつもりでも、歩いていくうちに本当にこれで正しかったのか、間違っていなかったのかって何度も不安になると思う。そして、何かの拍子につまずいて、ああ、やっぱりあっちにすればよかったんだって後悔するかもしれない。後悔は選んだやつにしか訪れないからな。

 選べない人間は羨みこそすれ、妬みこそすれ、後悔だけはできないようになっている。だから、選べるやつが選べないやつより無条件に幸せだとは限らないと思うぜ?」


 だから、お前は苦しかったんじゃないのか、と視線で投げかける。


「ええ、きっとそう。でも、わたしの気持ちは先日、お伝えした通りです。結局のところ、わたしの才能や価値は戦争によってもたらされたもの。戦時中ならばいざ知らず、この泰平の世において本当に必要なものではない。ようやく、わたしはわたしの在り方に出会えたような気がします。ミランさんのおかげですよ」


「前にも言ったが、そんなに大したことはしていないぞ」


 それは今も変わらず本心だ。自分はただ、己の在り方を貫いただけでしかない。


 くすり、とファウナが笑った。人間はいつだって、自分ができることを正しく評価するのが難しい生き物なのかもしれない。当人にとっては大したことなくとも、別の誰かから見れば黄金のように尊いことだってあるのだ。


「あなたは、あの場にいた誰もができなかったことをしたんですよ。戦争で歪んでしまった価値観に流されず、己の信念を貫いたのです。あるがままの自分を貫いたんです。自分の意思を行動に反映させたのです。わたしがそうありたいと願った姿そのままに」


 在りたいように在る。その、なんと難しいことか。

 ほめすぎだろ、とミランは毒づく。悪い気はしなかったが。


「いろいろ悩みましたが、それでも、やっぱりわたしは動物学を学びたい。たとえ、どんな結末が待っていようと、その時まで自分が誇れる自分でいたい。胸を張って生きていたいんです」


 意味もなく。価値もなく。誰からも必要とされることもなく。けれど、自分の意思で、そう在ろうとした亡き老人のように。


 それまで自己の在り方など考えなかった少女にとって、自分で在り続けるミランという少年の姿は、ただそれだけでとても眩いのだ。


「俺にできることがどれだけあるかは知らないが、まあ、手伝ってやるさ」

「ありがとうございます」


 それから、何も語ることはなく。二人はそっと蝉の羽化を観察し続けた。






 まだ朝霧が漂う早朝。


 ミランとファウナは虫かごをもって庭に出ていた。


 ウキマネキは一晩かけて羽の形成時期を終えた。あんな話の後だ。さすがに食べるのは気が引けた。


 ファウナは虫籠の開け、ウキマネキが自然に飛び立つのを待っている。


 ウキマネキは籠をよじ登り、外へ出た。周囲を警戒しているのか、じっとしている。


 まるで、見知らぬ空に飛び立つのを不安がっているように見えるのは、ファウナの話を聞いたからだろうか。


「大丈夫ですよ」


 同じことを感じたのか、ファウナが優しい声音で話かける。


「外の世界は怖いことだらけでしょう。敵もいるでしょう。伴侶を見つけられるとも限りません。生き延びたとしても、ひと夏の命です。ひょっとしたら、このまま虫かごの中で過ごしたほうが幸せなのかもしれませんね」


「でも、飛べるのに飛ばなかったら、きっと後悔します。それは命の死ではなく、蝉としての死です。それでも、いいんですか?」


 優しくも、厳しい問いかけ。生きていることと、生かされていることは違う。生命として本当に気高いのはどちらなのか。


 ファウナの言葉の意味が伝わったかは分からない。しかし、それを合図に蝉は羽ばたきを開始した。


 やがて、足が籠から離れる。羽化して初めての飛行だ。重力に逆らう体をうまく制御できず、もたつき、二人の周囲を漂った。


「さあ、行きなさい。元気でね」


 コツをつかんだのか、ウキマネキは一気に飛び立っていった。


「おお、飛んだな」


「ええ!」


 二人は同時に空を見上げた。感慨深げな笑みを浮かべながら。


 もともと小さい蝉の影があっという間に小さくなり、そして――


「「あ」」


 樹洞から飛び出した梟が、羽ばたいたばかりの蝉を捉えた。そのまま反転。巣に持ち帰る。


 じーっ、じじーっ。


 物悲しい悲鳴が洞の奥へと消えていく。


 二人の間を気まずい空気が流れた。


「……気を落とすなよ」


「……わかっています。これも自然の掟ですから」


 気丈に答えるが、これからの道行きに不安を感じたのか、ファウナはちょっと泣きそうだった。


 ちなみに、梟はあまり昆虫類を食べないとされている。ファウナが巣を荒らしたことに対する意趣返しだったのかは定かではない。



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