賢者の討論
「……知り合いか?」
ミランは不機嫌という言葉が人の形を取ったような少女を指し、尋ねた。
「……ええ。彼女はフローラ。学院時代からの同期で、同じ博物学部に所属する国家賢人です。専門は植物学で、救荒作物の研究をしていますが、薬草学の専門家でもあります」
ファウナが軽く紹介すると、フローラと呼ばれた少女はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「フローラ、こんなところまでに何しに来たんですか?」
「何しに?」
ぴくり、とフローラの形のいい眉が忌々しそうに跳ねる。
「言わなくてもわかるでしょ。私はね、あなたを連れ戻しに来たのよ」
「……まだ、諦めてなかったんですね」
「それはこちらの台詞よ。あなたこそ、まだ諦めてないの?」
フローラは腕を組み、ファウナを睨みつける。
「あなたは国の宝なのよ。あなたが動物を好きなのは知っているわ。けれど、才能が活かせる分野に進むのが、あなたの、ひいてはこの国のためになる。そんなこともわからないようなあなたじゃないでしょ」
そのやり取りで、ミランはフローラの正体を察した。彼女はファウナを本来の学科とやらに進ませようとする一人なのだろう。
「――残念ですが」
ファウナは臆することなく、フローラを真っ直ぐに見つめ返した。
「わたしの気持ちはもう固まっています。周りからどう言おうと、わたしはわたしの在り方を貫く。そう決めたのです」
その凛とした返答に、フローラはわずかにたじろいだ。
「随分、強気じゃない。国家賢人の資格を剥奪されるかもしれないわよ?」
「ええ。構いません」
きっぱりとファウナは頷いた。資格の剥奪という言葉にも動じない。青い瞳には揺るぎない意志の輝きがある。
「……なにがあったの?」
その堂々とした受け答えに、フローラは腑に落ちないような顔をした。
「以前のあなたは、そこまで吹っ切れてなかったわ。理想と現実の狭間で揺れ動いて、どちらを選んでも困る人たちがいると理解していたからこそ、決められなかった。他人を切り捨てる厳しさなんかとは無縁だったのに」
「ミランさんのおかげですよ」
「この男の?」
そういえばいたな、といったような表情でミランのほうを向く。これまで眼中になかったようだ。
「……あなた、名前は?」
「ミラン。しがない猟師だよ」
「……辺境の猟師が、国家賢人のあなたに何を教えるっていうのよ」
ますますもって分からない、とフローラは首を振る。
「教えなさい。あなた、ファウナに何を吹き込んだの?」
ずい、とフローラがミランに詰め寄った。
どきり、とミランの心臓が脈打つ。顔が近い。わずかに幼さが残るものの、目が覚めるように整った美貌が目の前にある。汗ばむような陽気だというのに、少女の体からは爽やかな花の香りがした。
「いや、俺は別に何も……」
「フローラ、ミランさんに詰め寄るのはお門違いです。それに、事情はどうあれ、わたしは国家賢人として生態調査の任に就いています。一度請け負った任務を放棄することはできません。無理やり連れて帰ろうとするなら、然るべき報告をするだけですが」
「……ふん。学部長もなんで了承したんだか」
忌々しそうに唇を歪め、ミランから離れる。
「それは学部長に直接聞いてください。ということで出直してくださいますか。心配しなくても一年後くらいには学院に戻りますから」
「……あなた、いまどこで寝泊りしているの?」
「この間まで第三騎士団のアクイラ中隊のところにいましたけど、いまはミランさんの家でお世話になっています」
それは好都合、とフローラは不敵な笑みを浮かべた。
「ちょうどいいわ。私も今日の宿を探さなくちゃならなかったところだし、私もミラン君の家に泊まらせてもらおうかしら」
「おい。家主を置いて勝手に決めるな」
「なによ。ファウナは良くて、私は駄目なの?」
駄目に決まっているじゃねぇか。と内心で思うが、一応、ミランは説明する。
「俺とこいつは契約しているんだよ。生態調査の間の護衛としてな。宿を貸しているのも、その一環だ」
「なら、当面は私もファウナの仕事に協力しましょう。動物学は専門外でも、生態調査には植物も重要な位置を占めているもの。専門家がいて損はしないでしょ?」
そういうわけだから案内して、とばかりにフローラは二人に背を向けた。
「……おい。なんなんだよ、あいつ」
いきなり現れて、強引に話を進める。こちらの話は聞きもしない。その傍若無人さにはさすがのミランにも怒りの色が見える。
ファウナが申し訳なさそうな顔をした。
「すいません。昔から一直線なところがありまして……言い出したら聞かないんですよ。学院時代もよく講師陣と口論していました」
「問題児だな」
「でも、とても優秀なんですよ。それに行動力もあって、自分のやりたいことは何が何でもやり遂げる性格で……優柔不断なわたしとは大違いです。でも、不思議と一緒に机を並べることが多くて……ふふ、懐かしいですね。彼女のああいうところを見るのは。わたしが国家賢人になってからは疎遠でしたから」
ミランは口を閉ざした。
疎遠になった理由は、聞かなくてもわかるからだ。
◇
「自然の恵みに左右される農作だけでは戦後の人口増に対応できないわ。だいたい雨季に田植えをすること自体が非効率的なのよ。雨季に田植えをするのは、水田という性質上、たくさんの水を必要とするからだけど、そのせいで秋の台風で農作被害が出るじゃない。治水技術を改良すれば田植えが早期化できて、安定して収穫できると思わない?」
「言いたいことはわかりますが、稲苗はどうするんですか? そもそも、稲は気温が高くないと発芽しないでしょう? 田植えを早期化するということは、それだけ育苗の時期を早めるということですし」
「苗床を温めてあげればいいのよ。室温管理をすることで、発芽の時期を調整できるのは過去の実験で実証済みでしょう。治水と温度管理の技術さえ定着すれば実現可能よ」
「農家の人たちの手間と費用の問題はどうします?」
「どこかの土地を借りて試験運用して、費用対効果を割り出さないといけないわね。領主の説得から入らないといけないけど、こういう概念実証実験に協力してくれそうな領主様ってなかなかいないのよね」
「税収に響きますからね。稲苗の育成に失敗するだけで、どれだけの損失になるか。温室管理なんて、わたしたちでも失敗の連続です」
「米が税としての役割を担っているから、農民は稲作を強制されているわけでしょ。飢えないだけの食糧生産なら麦と豆の二毛作のほうが労力も手間もかからないし、地力も下がらないし、善いこと尽くしなんだけど。もちろん、稲も素晴らしい穀物よ。面積単位の栄養価は別格ですもの。先人の品種改良の賜物ね。ただ、繊細すぎるのよね。安定収穫とは程遠い種だわ」
「まあ、だからこそ税収として成り立つわけですけどね。逆に米の価値が安定してしまえば、それで困るのは王侯貴族ですよ」
「そうね。米を中心とした価格統制が損なわれれば、税収は原則として米という形でしか取り立てられない王侯貴族は大損失だわ。そうなる前に経済の転換期が来るでしょうね。貨幣が絶対的な価値を持つ時代でも来るのかしらね」
「経済については専門外なので何とも言えません。話は戻りますが、田植えの早期化は個人的にはあまり賛成はできません。本来の在り様を損ねた栽培が自然だとでも? 人間にとって有益な行いが、自然界にとっても有益とは限りません。水田には独自の生態系が構築されています。早期化はその均衡を崩すきっかけになる。ただでさえ、里地の生態系の強度は脆いんですよ。そういった反動をどう処理するつもりですか?」
「だーかーらー、どこかで実証実験したいって言っているの。というより、そもそも人間の知恵ってやつが不自然なものだと割り切るべきよ。自然と共存共栄するのが理想なのは理解できるけどね、そのために飢えに苦しむ人たちを見捨てろっていうの?」
「そうは言いませんけど……」
「それに、従来の方法を続けて人口が増えるたびに新たに開墾するほうが、よほど生態系の破壊につながると思うけどね、私は」
賢人たちの討論が続く。
村長への報告を済ませた後、家へ戻ってきたファウナとフローラはレスニア王国の農業について語り合っていた。ミランの家の食卓を占領して。
知識人の会話というのはどうしてこう長くて、ああも複雑なのだろう。ミランは彼女たちが言っていることの半分も理解できない。
「ちょっと、ミラン君。お茶、まだなの?」
いつの間にか、フローラはミランのことを君付けで呼ぶようになっていた。馴れ馴れしいとは思うが、あまり悪い気はしない。これまでそういった敬称で呼ばれたことがないため、新鮮味を感じたというのもある。
「もうちょっと待て。いま蒸らしている」
それにしても、どうして家主なのにこき使われているのだろうか。
そう疑問に思いながらも、ミランは遠くから聞こえる田植え歌を聴きながら厨房で粛々と茶の準備をしている。
茶と言っても、正確には茶ではなく花草茶だ。本当の茶葉は高級品で、常備しているのは裕福な家庭だけである。
庶民は季節の香草を煎じたものを愛飲する。例えば、今からの時期は焙煎した麦を煮出した麦湯などが定番だ。家庭によって香草の組み合わせが違い、持ち寄って茶会などするのが農村の密かな楽しみである。
その意味で、ミランは少しばかり茶の味にうるさかった。何といっても古の猟師、狩猟採集文化の権化。森の中で手に入る香草、薬草の類は戸棚にあらかた揃っている。
調理に関しては食えればいいと焼く、煮る、揚げる、の三つしか使わないミランだが、花草茶の調合は手間を惜しまない。彼にとって心血を注ぐに値する唯一の趣味らしい趣味と言えた。
――今だ。
かつてないほど真剣な表情で煮出し具合を見極めると、薬缶を火から離し、三つの湯飲みに中身を注いだ。
すると、部屋中に桜の香りがふわっと漂い始める。
「わあ、桜のいい香り」
「……本当ね」
季節外れの香りにフローラが目をしばたたかせる。
「待たせたな」
盆に湯飲みを三つ乗せ、ミランも席に着いた。
「ほら」
「……ありがと」
フローラは手渡された湯飲みをしげしげと眺める。透き通った赤茶色の液体。湯気に混じる芳香は確かに桜のものだ。もう初夏だというのに。
フローラが慎重に唇をつけ、一口含む。
「あ、美味しい」
フローラの顔がほっとほころんだ。出会ってからこれまで、険のある表情ばかりだったが、ようやく年頃の少女の表情になった。
「もう夏だし、季節外れだけど、風流ね。気に入ったわ。ミラン君、なかなかやるじゃない」
そう言って、フローラはにっこりと笑う。整った容姿をしているだけに、その笑顔は花が咲いたように華やかだ。
「フローラは専攻が植物科だけに、花草茶にはうるさいんですが……こんなに素直に褒めるのは珍しいことですよ」
ファウナがこっそり耳打ちする。ミランはまんざらでもなさそうに鼻を鳴らす。
「けど、どうやってこの香りを出しているの? 桜の葉は保存しようにも塩漬けにしないとすぐ変色してしまうし、塩漬けにしてしまったらお茶としては使えないわ」
「あ、それはわたしも思いました。不思議ですね」
「……聞かないほうがいいと思うぞ」
答えながら、我ながらいい出来だと自らも茶をすする。
「もったいぶらずに教えなさいよ。そりゃ花草茶の混合比は家伝でしょうけど、優れた技術は共有したほうが楽しいじゃない。まして、桜の葉を塩漬け以外で保存する方法なんて私でも知らないのよ?」
「……聞いて後悔するなよ?」
「賢人が知ることを恐れてどうするのよ。いいから言いなさいよ」
しょうがないな、とばかりに盆を手に取り、まるで盾のように構える。
「桜の葉っぱを毛虫に食わせて、その糞を乾燥させるんだよ」
「ぶっふー!」
ファウナが口の中の茶を霧状に噴き出した。
――しまった、そっちか。
「ファウナが吐き出すのは珍しいな。蚯蚓の糞でできた地層は触れるのに」
「げほげほ……さ、触るのと飲むのじゃ全然違いますよ」
ファウナはせき込みながら弁解する。
「蛇を食べるのも、虫を食べるのも理解できますが……まさか排泄物まで利用するとは……ミランさんの悪食がここまで徹底しているなんて……」
「なにおう」
ミランとしては遺憾である。食べられるものと、そうでないものの区別をつけているだけだ。それを悪食と罵るとは。
「ふうん、なるほどね。そういう方法もあるのか」
対するフローラの反応は冷静であった。
「……意外だな」
無類の生き物好きのファウナですら抵抗があったというのに、フローラの淡白な反応にはいささか肩透かしだ。
「生薬の中にもあるのよ。まあ、蚕の糞だけど。天蚕農家では蚕の糞を家畜の肥料にするという話もよく聞くし。ミラン君が使った毛虫がどんなものかは知らないけど、食べているのは桜の葉っぱだけだし、消化する過程でいい感じに発酵してこの香りが生成されているのでしょうね。
それに私、虫は平気なのよ。植物と虫って切って切り離せない関係じゃない? 虫は確かに植物を食害するけど、受粉を助けてくれる存在でもあるわけだし。逆に植物を他の虫から守る虫もいる。私たちが思っている以上に植物と動物には複雑な関係性があるの。だから、研究していれば嫌でも見るってわけ」
「つまり、見慣れているわけか」
そういうこと、とフローラはもう茶をすすった。
「ああ……せっかく頂いたお召し物が……もう、ミランさんのせいですよ」
噴き出した茶で服を汚したファウナが頬を膨らます。悪気は一切なかったが、謝るよりほかない。
「もういいです。悪気がないのはわかってますから。でも、染みがついちゃうといけないので、ちょっと着替えて、洗ってきます。しばらく席を外しますが、フローラ、ミランさんに迷惑かけちゃだめですよ」
「失礼ね。いつ、だれが迷惑かけたってのよ」
その発言に、ミランは信じられないものを見るような目をした。
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