第六章 〈森の王〉、再び
神と呼ばれるもの
その夜、今年一番の寒波が到来した。
大平原の北部に位置するレスニアの冬は厳しい。夕暮れごろから舞い降り始めた牡丹雪は一夜にして村全体を白く覆った。
場合によっては、そのまま村ごと雪の中に沈むこともあるが、幸いなことに一晩で降り止んだ。
それでも積雪量は大したもので、夜が明けたトゥアール村は一面の銀世界であった。大人たちは溜め息を吐きながら屋根に上って雪かきを始め、子供たちは頬を赤く染めながら雪遊びを開始する。
そんな村のはずれの民家に、ミランの姿があった。
冬越えのための備蓄として賄われ、すっかり数を減らした家畜小屋の入り口で、膝を折ってじっと足元を見つめている。
その鋭い視線の先。敷かれたばかりの雪の絨毯の上に、くっきりと何かの足跡が残っていた。
彼の視線を険しくさせているのは、その大きさのせいか。直径でおおよそ一尺。成人男性の顔よりもさらに一回り大きい。
さらに、歩幅も広かった。規則的に残された足跡の間隔から、ざっと見積もっても体長は
「……因果なもんだな」
白い息を吐きながら呟くと、ミランはその場を立ち去った。
◇
「間違いないな。あれは熊の足跡だ」
ミランは囲炉裏の前で手をかざしながら答えた。炭火から発せられる熱がじんわりと手のひらを温める。
「やはりか」
向かい合うように腰を下ろしていた村長が唸る。
明け方のことだ。村はずれの家畜小屋が騒がしいので家主が様子を見に行くと、巨大な影が立ち去っていく姿が見えたのだという。飼い馬の鳴き声に驚いて引き返したようで、人間や家畜に被害はなかった。
しかし、そのことを不審に思った村長は、朝一番でミランに現場検証を依頼した。
そして、彼の出した答えが熊だった。
「並外れた大きさだ。あんなに大きな足跡は、一度しか見たことがない」
ぱちり、と囲炉裏の炭が音を立てる。
「――〈森の王〉か」
「……とは言っても、別個体だろう。父さんが〈森の王〉を討ち果たして数年。別のやつが王の座を継いでもおかしくはない」
〈森の王〉という名称は、イール地方における最上位捕食者と、その個体に与えられる尊称に過ぎず、自然の怒りを体現する神とは扱いが違う。前回、神として振る舞ったのが〈森の王〉だったというだけだ。
「だが、わからんな。〈森の王〉は大戦時の伐採で怒り狂ったんじゃろ。もう大戦は終わり、伐採も行われておらん。それに今秋は木の実も豊作で、熊はほとんど人里に降りてこなかったと聞く。森の精気は少しずつ戻って行っているものと思ったのじゃがな……」
「この時期に徘徊する熊は『穴持たず』だ。伐採とは関係ないだろうな」
穴持たずとは、自身に体格に適した穴蔵を見つけられず、冬眠に失敗した熊を指す。そのため、ほとんどの穴持たずは大型だ。
「冬の森はほとんど食べるものがない。近いうちに人間を襲うようになるだろう」
「正真正銘の神というわけだな」
「そういうことだ」
冬ごもりに失敗し、餌を求めて人里に降りる。熊害の典型例であり、冬季における神の暴威。いつぞやの魔犬や、先代の〈森の王〉のように、人為的に生じたものではない。自然災害や獣害の擬神化。古来の信仰における正しき神だ。
ミランはすっくと立ち上がり、壁にかけておいた外套を羽織る。
「帰って神討ちの準備をする。〈森の王〉が降りてくるとしたら夜だ。熊は夜行性だからな。出歩くことはもちろん、戸締りもしっかりしておくようみんなに伝えてくれ……あと、明るいうちに騎士団のほうにも連絡を頼む」
台詞の後半は、村長の目を丸くさせた。
「そりゃ構わんが……そんなに、自信がないのか?」
「自信がないわけじゃない。だが、それでも万一に備えたいんだ。父さんが命を賭して守ったトゥアールの人たちを、誰一人として失いたくないんだよ。それに……俺が出ている間、誰があいつらを守るんだ?」
村長は深々と頷いた。
「そうだな。お前が出れば、賢者様を守る者がいなくなるからな。わかった。すぐに遣いをやろう」
◇
ミランが家まで戻ってくると、庭先でファウナが腰をかがめて何かを見ていた。
「ただいま」
「あ、ミランさん。おかえりなさい」
振り向いたファウナが、にっこりと微笑んだ。
「何を見ているんだ?」
「カマキリの卵ですよ。ミランさんが言ったとおりです。ほら、カマキリの卵まで雪が届いていません」
ファウナは庭の古樹の幹を指す。そこにはカマキリの卵が産みつけられていた。その位置は、降り積もった雪よりも高いところだった。
「カマキリが卵を産み付けた位置で積雪量を予想するなんて実に面白い。産卵時期は秋だというのに、彼らはどうやって数ヶ月も先の降雪を予想できるのか……これが解明できれば、一種の災害予報として活用できますね」
そんなことか、とミランは苦笑する。それは民間に古くから伝わる迷信の類だ。いつか、話の種にと語ったことがある。
それを確認するために、この寒い中、ファウナは外に出ていたのか。鼻の頭を赤くして。
ファウナはそういう少女だ。生き物のことになると目を輝かせ、いつでも太陽のような笑みを浮かべるのだ。その微笑みには人間的な損得や利害などなく、ただ純粋に自然に対する敬意だけが込められている。
賢人らしからぬ少女。ミランがこれまで出会った人間の中でも、最も自分の価値観に近しい者。
ふいにミランの顔が曇った。
ファウナの体は小さい。とても小さい。
もし、〈森の王〉がミランの想像通りの巨体でファウナの前に立ちふさがった時、彼女は生まれたての赤子に等しい無力な存在となり果てる。襲われればひとたまりもない。柔らかい腹部は切り裂かれ、はらわたは無残に食い散らかされる。
その時、どんな表情をするだろう。どんな感情を持つだろう。
最悪の想像が脳裏をよぎり、背筋が冷える。
「ファウナ、いい加減にしないと風邪ひくわよ」
すると、家の扉が開いて、フローラが顔を出した。
「……って、ミラン君もいたのね。おかえり」
「ああ。今戻った」
「朝一番で村長さんから声がかかっていたようだけど、何があったの?」
「……この村に、熊が出た」
二人がさっと真顔になる。
「幸い、被害はまだ出ていない。だが、時間の問題だ。すまないが、しばらく留守にする」
「神を、狩るんですね」
「そうだ」
ファウナが固唾を飲む。ミランの役割は知っていた。知ってはいたが、彼と生活を共にして半年。彼がついぞ神を狩る瞬間は目撃できなかった。
だが、いよいよこの時が来たのだ。魔犬のような偽物ではなく、本物の神を狩るための戦いが。
「わたしもついていっては駄目ですか。何か、お手伝いできることが――」
「駄目だ」
ミランはきっぱりと断言した。それは拒絶に近かった。
「はっきり言う。お前たちは足手まといだ。守る余裕はない」
「……それほど〈森の王〉ってやつは手強いのね」
「ああ。お前たちは日が暮れる前に村長の家に行け。ここは森に近いからな。少しでも離れたところで夜を明かすんだ」
そう言って、ミランは家の中に入っていった。二人もそれに続く。
ミランは床下から厳重に封をした箱を取り出した。入っていたのは、乾燥させた植物の球根だ。
「……それ、毒草でしょ?」
フローラが目ざとく、正体を見破る。
「そうだ。普段は肉が汚染されるから使わないんだけどな」
「生薬にも使われるものだけど、解毒処理をしない状態だと、かなり強力な毒性を持っているわ。よほど、なりふり構っていられないのね」
「……数年前は、村一つが消えかけた。それは被害の発見と、父さんのところへ情報が入ってくるのが遅かったからだ。穴持たずは餌を求めて、どこまでも活動範囲を広げていくから、動き出すのが遅れれば遅れるほど討伐が困難になる。今回、早期に発見できたのは僥倖だ。まだ被害が出ていないうちに確実に殺す」
毒草の状態を一つ一つ確認すると、よし、と小さく頷く。
「納屋に行ってくる。危ないから、入ってくるなよ」
ミランはそう言いおいて、納屋へ向かった。
狩猟道具がひしめく納屋の中で、ミランは口元を布で覆い、手袋をはめて、毒矢の作成に取り掛かった。
毒草の球根を臼で引いて粉にし、それに樹脂を塗った矢じりに丁寧に振りかけていく。一本一本、魂を込めるように。
その瞳は、どこか思いつめたように険しかった。
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