魔犬討伐

 ミランは門の歩哨に立っていた。


 その姿は普段の猟師らしい軽装ではなく、騎士団から貸与された具足で身を固めている。動きづらいことこの上ないが、魔犬の狙いが騎士である以上は変装しなければならない。犬の殺し方そのものは兵士たちに伝授したが、結局は自分が適任だろうと判断した。配置する兵数は最低限にして、攻撃の標的をミランへ絞らせる方針だ。


 ただ、小細工を弄さずとも自分のところに来るだろうとミランは考えている。


 脅威度の高い順から排除するのは戦闘の基本だ。人間相手の戦闘ならばともかく、獣の相手をすることに関しては、ミランはこの中で最も格上である。単純な脅威度で言えば高台に配置している弓兵であろうが、弓は暗闇の中では役に立たないことを魔犬は知っている。


 本来、野生の動物は勝てないとわかった時点で撤退を選ぶ。だが、軍用戦闘犬は人間の戦闘論理を組み込んだ調教をされているはずだ。


 即ち、多数で少数を攻めるのであれば弱い順に、少数で多数を攻めるのならば強い順に。


 今思えば、馬車での移動の最中、ミランを探りに来たのは野生の本能のなせる業だったのだろうか。そして、魔犬がその隠形を看破した彼を見くびるとは考えにくい。


 ――来る。


 ミランの神経が違和感を訴える。全身が闇洋の奥から放たれる殺気を鋭敏に感じ取っていた。


 風もないのに、松明の炎が揺れる。


 刹那、闇の中から白い牙が飛び出してきた。まるで流星のようだった。


 ミランは手に握っている紐を引いた。背後の門扉に仕掛けておいた石弓が矢を放つ。


 闇を引き裂いて飛来する矢を、魔犬は空中で身体をひねって回避した。


(なんてやつだ)


 弓の初速はわずか一秒で三十間を駆け抜ける。至近距離で放たれた矢は視認するだけでも困難。躱すなどもってのほかだ。恐るべき身体能力。


 だが、こうなることは想定済み。ミランは野生動物の身体能力を侮っていないし、そもそもこれで仕留められるとは微塵も思っていない。目的は軌道修正と、勢いをわずかでも殺すことだ。


 狩りに必要なのは射撃の上手さでも素早さでもない。獲物の習性を利用し、自分にとって有利な場所へ誘導する。その知恵と工夫だ。


 魔犬は人体の急所を熟知している。奴は予想通り、急所の一つであり、最も装甲の薄い首筋に向かってきた。


(ここまでお膳立てしたんだ、そうでなくちゃ困る!)


 その牙がミランの首に届くより前に、彼は魔犬の顎に拳をねじ込んだ。


 鋭い牙が食い込むが、籠手の分厚い布地がどうにか貫通を阻止している。


 初撃で仕留めそこなったことに気づいた魔犬は離れようと、ミランの胴を蹴った。


 だが、離れない。

 いや、離れられない。


「残念だったな」


 犬に限った話ではないが、牙というものはわずかに弧を描いている。それは獲物の肉に突き刺さった後、抜けにくくすると同時に引き裂くためだ。魔犬の鋭い牙は籠手さえ貫通したが、それが仇となって抜けないのだ。


 さらに致命的なのが、ミランの指がしっかりと舌の根元を掴んでいることだった。こうなると犬は何もできない。


 熊や猪と違い、犬の武器は文字通り犬歯だけ。その唯一の武器が封じられたとなれば、どうあっても追撃できない。


 劣勢を悟った魔犬は懸命に手足をばたつかせ、逃げようとする。だが、犬の爪の鋭さなどたかが知れている。ミランはそのまま魔犬を地面に叩きつけ、頭を押さえつけた。


 犬の体重は軽い。もとより犬は人間よりも小型の生き物なのだ。単純な体重差で動きを抑えることは難しくない。


 身動きを封じられた魔犬は鼻息を荒げ、血走った眼をミランに向ける。それは指向性の熱量となってミランの神経を焦がした。


 ――死ね。

 ――死んでくれ。

 ――お前が死ねば、全員殺せば、仕事を終えることができる。

 ――そうすれば。帰ることができるのだ。

 ――暖かな寝床と、楽しい仲間と、優しい主人が待つ、あの家に。


 そんな声が、聞こえたような気がした。


「……お前はただ帰りたかっただけなんだよな。飼い主の命令を果たして、褒めてもらいたかっただけなんだよな」


 ミランは悔しかった。情けなかった。この犬は悪しき存在ではない。本当の悪とは、彼らを生み出した人間ではないのか。その業が自分たちに返ってきただけではないのか。


 だが、生きるため、食べるため以外に命を奪うのは悪だ。ましてや憎悪によってなど、原初の掟に背く蛮行だ。


 何故なら、その行いには果てがない。何人、何十人殺そうとその憎しみが消えることはない。怒りと違って、憎しみは相手を罰した後も残り続ける。


 掟を忘れ、野生の気高さを失った獣は堕神だ。人間を律する荒魂ですらない。人間の業は神さえ堕とす。なんと罪深い生き物なのだろう。滅びねばならないのは果たしてどちらなのか。一歩間違えば、自分もこうなったのかもしれない。


 ――それでも。


 ミランの脳裏にファウナの笑顔がよぎる。生命の在り方に感動し、驚嘆し、慈しんでいたあの笑顔。


 ファウナのような少女がいる限り、ミランは人間を信じていたかった。愚かさがこの生き物の本質だと決めつけたくはなかった。時が流れ、人が移ろっても、きっと変らないものがあると信じていたい。


 だから、今のミランにできることは、ただ己の役割に徹するのみ。


「詫びるつもりはない」


 そう短く告げ、忍ばせた短刀を魔犬の喉元に突き立てた。


 ひとしきりの断末魔を挙げた後、魔犬は沈黙した。


 その死に顔は、重責から解き放たれたように安らかだった。



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