戦争の落とし子

 砦に到着した二人を出迎えたのは、数名の兵士とそれを率いる女騎士であった。


「遠路、ご苦労である。自分はアクイラ十騎長。この駐屯中隊を任されている者だ」


 明るい赤毛の女騎士はきびきびとした動作で敬礼をする。


 遊びのない表情。引き締まった体躯。ピンと伸びた背筋。金属製の胸甲鎧と国章が刺繍された外套。いかにも軍属といった雰囲気である。


 レスニア王国において女性武官は珍しくなかった。武芸に対して女人禁制という観念が薄く、女の身分であっても戦う術を会得する環境が整っているからだ。貴人の子女が礼儀作法や精神修養のために武芸を学ぶというのはよく聞く話だし、そもそも女のための剣術流派も存在する。盗賊団を壊滅させたという少女剣士の逸話も珍しいものではない。


 そういった慣例的な面を抜きにしても、王族女性の身辺警護などは男性では困難な場面もあるため、女騎士は組織として必要不可欠な存在なのだ。レスニア王国はことさら寛容であるというだけである。もっとも、珍しくないだけで少数であるのも事実だが。


「ファウナ殿が狩猟の専門家を連れてくると仰っていたので、さぞ老齢な御仁を想像していましたが、よもや自分よりも若いとは思いもよりませんでした」


 そう語るアクイラは二十歳前後か。確かにミランよりも年上だが、それでも士官としては若い部類だ。よほどの実力者か、名家の生まれか。あるいは、そのどちらもか。


 若輩ながらも、騎士としての自負を感じさせる力強くも爽やかな笑みを見せ、手を差し出した。


「……どうも。俺はミラン。しがない猟師だよ」


 ミランは差し出された手には応じず、淡々と答えた。


「しがない?」


 アクイラは話が違うじゃないかと言わんばかり、ファウナを見た。


「け、謙遜されていますが、この地域では最も腕利きですよ。つい先日も、超大型の野猪を討ち果たしたほどでして……」


「ほう」


 アクイラは感心したように呟いた。作物を食害する動物は枚挙にいとまがないが、野猪はその筆頭とも呼べる存在だ。


 雑食性なのでどんな土地でも生きていけるし、食べ物を選ばないということは飢え死ぬことが少ない。何より肉体が大きいので敵も少なく、繁殖力も高いので個体数がなかなか減らない。動物として純粋にしぶとい。それが野猪の強さだ。


 無策で挑んだところで、ミランが言ったように、ただの人間では返り討ちに遭うのが落ちである。


 ミランの態度を実力者特有の謙遜と受け取ったアクイラの横で、ファウナが彼をじろりと睨んだ。どうしてそんな態度を取ったのか、と。彼はそれに気づかないふりをした。


「ところで、ミラン殿、事件のあらましは聞いていますね?」

「ああ。だいたいは」

「では、すぐに本題に移りましょう。こっちです」


 踵を返したアクイラについて、砦に入る。

 石造りの廊下を歩くこと暫し、遺体を保管してある一室へ案内された。


 扉を開けると、つんと鼻腔を刺激した。腐臭だ。


「これがその遺体です」


 二人分の遺体は寝台に仰向けの状態で安置してあった。


 いくつか擦過傷や打撲の跡があるが、致命傷は一目瞭然だ。どちらとも首の部分、頸動脈を大きく噛み千切られている。どれほどの血が流れたのか想像に難くない。おそらく即死だろう。余計な苦痛を感じなかったのは幸いだったに違いない。


「被害者は全部で六人。残りは腐敗が酷くなったので既に土葬してありますが、同じようなありさまです」


「なるほど」


 遺体を見てもミランは落ち着き払っていた。慣れているというのもあるが、予想よりも遥かに状態が綺麗だったからだ。


 確かに、これは不自然としか言いようがない。


 破損部の断面は明らかに咬傷だ。人間の犯行とは言い難い。屈強な兵士の頸の肉を顎の筋力だけで噛み千切るのは困難であるし、非効率的だ。頸動脈を切るだけならば刃物を使ったほうがよほど手っ取り早い。


 だが、獣の犯行だとすると、あまりにも損傷が少なすぎる。


「ファウナ殿の見解では肉食獣の類らしい。自分もそう考えている。しかし、直接、その姿を見た者はいない。だが、櫓で見張りをしていた者が、矢のような速さで森に消える影を目撃したそうだ。姿ははっきりと見えなかったが、どうも四つ足の何かだと」


 暗に虫ではないと言いたいのだろう。


 辺境には人間を食う虫もいる。大部分は腐肉を貪る小型の掃除屋だが、稀に人間を直接捕食するような巨大な個体も存在する。眉に唾を塗るような話だが真実だ。少なくとも、この辺境においては。


「三日連続で被害が出ているおり、歩哨に立つのも抵抗があるほど士気も下がっている。このままでは職務の遂行は難しい」


 夜な夜な襲い来る正体不明の怪物。鍛え抜かれた兵士であっても、正体がわからないというのは恐ろしいものなのか。


「我々も任務を通じて害獣駆除を行っているが、このような被害は初めてだ。ミラン殿、君は専門家だ。何かわからないか。これは腹を空かせた熊の仕業かね?」


「……熊が下りてくるには時期が早いな。早ければ夏くらいから見かけるが、基本的には秋口からだ。それに、熊だったらこんなもんじゃ済まないさ」


 熊はこの地域において最上位捕食者と言っても過言ではない。故に、森の中の餌を最後まで独占する。熊が下りてくる以前に、競合を避けるために他の動物が人里に下りてくるだろう。


「では、山猫か?」


「夜な夜な動き回るなら猫の類だが、違うだろうな。犬だよ、これは」


 ミランはきっぱりと断言した。


 それも、たった一匹の犯行だ。咬傷の形、大きさから推察するに同一犯だろう。


 周囲の兵士たちが戸惑ったようにどよめく。


 確かに辺境における野犬の被害は後を絶たない。が、発生件数が多いということは、それだけ対抗策が講じられているということでもある。


 例えば、旅人は野営に備えて煙玉を携帯する。この煙玉には香辛料や悪臭を放つ虫の粉末が含まれており、鋭敏な嗅覚を持つ犬に対して効果覿面だ。これさえあれば一般人でも十分対処できる。


 つまるところ、被害の頻度は多くとも脅威にならないのが野犬であり、ミランがその名を出したことに戸惑いが隠せないのだろう。「まさか、犬っころが?」とでも言いたげだ。


「そう考える根拠は何ですか?」


 ファウナは興味深そうにミランを見ている。


 ミランは言葉を選ぶように、顎に指を添えた。専門家に講釈しているようで、なんとも自信がない。


「いいか、そもそも猫と犬では狩りの方法が違う。猫の仲間は森で暮らしていて、待ち伏せ戦法を得意とする。茂みの中にじっと潜んで、獲物が近づいてきたら飛び掛かって、爪で獲物を抑えてから噛み殺すんだ。

 それに対し、犬は平原に棲んでいて、獲物をどこまでも追いかけて疲弊させてから、そのまま飛びついて噛み殺す。見た限り、遺体には致命傷以外に目立った傷がない。打撲も、擦り傷も倒れる時にできたものだと思う。つまり、使。だとすると、山猫よりは野犬と考えるのが妥当だろう」


 それに、待ち伏せを得意とする動物ならば、わざわざ出向くような真似はしないだろう。状況を考えれば明らかに向こうから襲いに来ているのだから。


「なるほど、確かに犬に噛まれたという話は聞いても、引っかかれた、とは聞かないな。犬の爪が猫よりも小さいのは狩猟方法の違い故か」


 アクイラは感心したように頷いた。


「だとして、どうしてこんな噛みつき方をしたのかはわからないけどな。殺したのに食いもしないなんて、不自然すぎる。これじゃ、まるで人間を殺すことが目的としか思えない。そもそも腹が減っているなら、旅行者を襲ったほうがよほど楽だ。わざわざ屈強な兵隊が待ち構えている砦を襲うなんてどうかしている」


 獣に殺されたにしてはあまりにも遺体が綺麗すぎる。いや、損傷に無駄がなさすぎる。最低限の攻撃で命を刈り取る。まるで名うての暗殺者の犯行のようだ。


 ファウナが息を呑んだ。思い当たる節があるらしい。


「――なるほど、軍用戦闘犬ですか」


「なんだ、それ」


「戦闘用に調練された犬のことです」


 軍用動物と言えば馬と思い浮かべるが、それ以外にも使役される動物は存在する。その中の一つが犬だ。


 犬という生き物は古来より狩りを補佐する猟犬として、あるいは家畜や畑を守る番犬として人間に飼い慣らされてきた。賢く、群れ社会を形成するため、人間社会との親和性が非常に高かったからだ。人間よりも弱かったというのも理由の一つだろう。単体であれば素手か、それに近い状態でなければ倒すことはそう難しくない。


 ただし、それは家畜化したものだけだ。野生の犬は単身の弱さを群れて補う。その長所を最大限に伸ばし、軍事転用したのが戦闘犬だ。


 本来、軍用に調練を受けた犬は主に警備、哨戒、探知、伝令のために運用される。戦闘にも参加するが、あくまで補佐的なものだ。


「犬は人間よりも聴覚、嗅覚が鋭敏です。それが裏目に出て、近代の魔法戦のような轟音が渦巻く戦場では怯えて使い物にならなかったといいます。軍馬ですらそうでしたから。ですが、それを克服した軍用犬部隊があると聞きました。大戦中、同盟国の騎士団はその戦闘犬部隊に夜襲を受け、甚大な損害を受けたと聞きます」


 戦闘調練を受けた犬は夜戦において最大の脅威だった。火を恐れず、闇に溶け込んで敵陣へ侵入する。身を隠そうにも嗅覚で探り当てられ、逃げようにも無尽蔵な体力と俊足から逃れるすべはない。


 しかし、その夜の支配者たちも、多くが戦争で散っていった。矢に、槍に、時には魔法の餌食になった。


 更に経済的な問題もある。終戦を迎え、各国の国力は低下を理由に軍縮のあおりを受けた。軍用動物は馬を除いて管理や維持が難しくなり、その大半を手放さざるを得なかったのである。


「犬はどの生物相においても高位に属する生物です。おおよそ最優の捕食者と言って過言ではありません。軍事調練を受けた個体ならば、その戦闘力の高さは想像に難くない」


「うちの兵士どもがいとも簡単にやられてしまってもおかしくはない、か。しかし、戦争はもう終わった。各国で立て直しを図っている今、いたずらに他国を攻撃して刺激しようとする馬鹿がいるとも思えないが……」


「仮にどこかの国からの攻撃だとしても、散漫な攻撃では意味はありませんし、ましてやここは戦略的に重要な土地ではありません。攻撃を受ける理由がないのです。故に、敵国の意図は存在しない。戦役時の敵国が使役したものが取り残され、この地方に住みついたと考えるほうが自然です。そして、命令に従って未だに敵国の兵士に攻撃を継続しているのかも。……あるいは、仲間を殺された復讐のためかもしれません」


 アクイラは唾を飲み込んだ。


「まさか、犬だぞ。ただの動物だ。いくら賢いとはいえ、そこまで……」


「あり得ない話ではありませんよ。犬にも感情があるのは確認されています。快、不快といった原始的なものだけでなく、愛情や独占欲、嫉妬のような高度な感情も見受けられるそうです。だとすれば、自国を滅ぼした相手に怒りや憎しみといった複雑な感情を抱いていたとしてもおかしくはありません」


「馬鹿な、それでは――」


 人間と変わらないではないか、とアクイラは絶句する。


 それはもはやただの野生動物の行いではない。復讐だ。生きるためではなく憎悪によって相手を殺すなど、人間と何ら変わりない。


 獣の身でありながら憎悪を宿し、知恵を用いて人間を殺す。魔犬。そう呼ぶに相応しい怪物だ。


 二人の話を聞いていたミランは、痛ましげな表情をしていた。


 仲間を殺された憎しみだろうか。それとも、捨てたことに対する恨みなのか。あるいは――彼らの戦争は、そもそもまだ終わっていなかったのかもしれない。


 人間の都合で生み出され、捨てられ、居場所を失った生き物。その気持ちは生み出した側には理解できない。


 現に――


「しかし、隊長。所詮は犬畜生。正体さえ解れば、対処は可能です」


「ええ。カドックたちの仇を取ってやりましょう!」


 取り巻きの兵士たちは魔犬討伐に息巻いている。


「――まるで、被害者気取りだな」


 兵士たちの現金な姿に、思わずミランは吐き捨てた。


「自業自得じゃないか。自分たちの都合のいいように育て、用済みになったから捨てる。恨まれて当然だ。そのしっぺ返しが来ただけだろう」


「自業自得だと!」


 周囲がわざついた。


「貴様、六人も人間が死んでいるんだぞ、その言い草は何だ!」


「これは我が国の戦闘犬による被害ではない。我々は被害者なのだぞ!」


「田舎の猟師とはいえ、お前もレスニアの民だろう。何を他人事のように!」


 兵士たちは不謹慎な発言をしたミランを責め立てた。彼はその様を冷ややかに見ている。


 他人事のように?


 もっともな話だ。この身は〔神狩り〕。森と人との狭間に在る者。人間でもなければ神でもない。たとえそれが古の信仰と文化に成り立つ架空のものだとしても、彼は自己認識において非人である。人間たちの事情など知ったことではない。


 彼にとって魔犬の養い主が、どの国の誰かなど、どうでもいいのだ。戦闘犬という概念を生み出した人間という総体に対する非難なのだから。


 むしろ、兵士たちの被害者だという主張こそ他人事のように聞こえる。同類がしでかしたことだというのに、自分たちは無関係だと言い張る面の皮の厚さ。


「怪物の正体がわかった途端、ずいぶんと強気じゃないか。怯えて歩哨にも立てなかったくせにさ」


 痛いところを突かれたのか、兵士たちは怯む。


「いい加減にしろ」


 アクイラがミランと部下との間に割って入った。どちらに味方したかは分からない。


「部下の失礼な態度については謝罪する。だが、彼らも仲間を失っているんだ。気持ちは汲んでほしい」


「そうですよ、ミランさん。彼らが被害者なのも事実です」


 ファウナがなだめるように言った。


「これも大戦がもたらした戦禍。負の遺産と言ってもいいでしょう。生態調査とは関連が薄いですが、わたしのほうから報告書にはしっかりと記載しておきます。戦時中の軍用生物が野生化していたとすれば、学院側ももう少し大掛かりな調査隊を組んでくれます。そうすれば、他の軍用動物による第二、第三の被害をなくせるかもしれません」


「いや、ファウナ殿、それは待っていただこう」


 アクイラがファウナの提案を遮る。


「自分はこの中隊を任された者として、事態を早期に解決したいと思っている。しかし、そんな報告をすれば、上層部の中には犯人探しを始める連中もいるだろう。外交の手札とするやもしれんし、あるいは賠償の口実とするかもしれん。今は各国で国を立て直している大事な時期だ。掘り返して刺激するような真似は避けなければならない。通常の害獣の案件として駆除し、穏便に済ませるべきだと考える」


「……アクイラ十騎長、それは隠蔽ではありませんか」


 ファウナが厳しい視線を向けるが、アクイラは肩をすくめて受け流す。


「隠蔽とは人聞きが悪い。ファウナ殿、あなたも仰ったではないか。他国からの攻撃ではない。軍用犬が野生化したものだと。上層部を惑わせるような報告をしない、と言っているだけです。結果だけを見れば、ただの獣害。犬による獣害など、この辺境ではありふれたものなのですから――」


「ふざけるな!」


 その言葉にミランは激昂した。


「そうやって、自分たちがしでかしたことを無かったことにしようっていうのか! そいつだって、好きで害獣になったわけでもないのに!」


 処理しようとしている。無かったことにしようとしている。戦争が生み出し、これまで生き残った存在を、他ならぬ人間がとばかりに。


「そうやって忘れていくのか。だから愚かなんじゃないのか、人間は!」


 言って、ミランは後悔した。ファウナも、ここにいる騎士たちも無関係だ。実際に犬を調練したわけでもない。ただの被害者であることも、また事実なのだ。


「……すまん。怒鳴るつもりはなかった。昨日から寝てなくてな。ちょっと苛立ってた」


 ミランは申し訳なさそうに謝罪するものの、その場に居合わせる誰とも目を合わせることができなかった。


「ちょっと外の空気吸ってくる。……すぐ戻るから」





 ミランは砦の屋上で風に当たっていた。


 もうじき日が暮れようとしている。


 落陽の輝きがまるで山火事のように森を朱色に染め上げ、人里に餌を探しに来た鳥たちが間延びした声をあげながら森へと帰っていく。夜行性の獣たちはそろそろ目を覚まし、空腹を満たすために狩りを始めるだろう。


 村の方からは夕餉を作るための水煙がいくつも立ち上っていた。ここからでは聞こえないが、きっと童たちがそれぞれの家に帰る前に、明日の予定を取り付けているに違いない。


 ありふれた辺境の夕暮れ。森と人里とが混然一体となった風景。素朴だが、このような景色も、今では辺境にしか残されていない。


 けれど、ミランの胸中にはどろどろとしたわだかまりがある。眼前に広がる景色が美しければ美しいほど、それが浮き彫りになっていく。


(あの時の――)


 あの時の殺気は、おそらく魔犬によるものに違いなかった。


 今思えば、あの濁った気配はまさに憎悪だったのだろう。飢えた野生動物を相手にした時のような、生きるための純粋な殺意とはまるで別物だ。


 自然では生と死は等価である。誰かが生きるには誰かが死なねばならず、誰かが死ねばそれは別の誰かが生きる糧になる。


 自然界はそういった生命の調和によって成り立っており、超越的な視座から見れば人間の道徳観念から成る善悪の定義など無意味だ。故に、ミランの知る殺気とは苛烈であっても透明感があり、ありていに言えば綺麗なものであった。


 あのような黒煙と悪臭を巻き散らす、火刑じみたものでは断じてない。


 だが、そもそも魔犬を自然のものと受け止めていいものか。


 今回の件は、人間がもたらした自業自得と言って間違いない。


 いや、いつだってそうだ。森から神が現れる時は、いつだって人間側に非がある。


 無遠慮に獣の生息圏に踏み入った。森を拓いて住処を奪った。人間基準の価値の有無で乱獲し、生息数の均衡を乱した。そんな人間の傲慢を戒めるために、神は獣の姿を取って、彼らに罰を下す。


 だが、それは怒りからだ。生命の調和を忘れてしまった人間に対する正しき怒り。決して、憎しみからではない。


 憎しみに起因する変質であるならば、魔犬はミランの定義する神とは違う。人災の一つの形だ。森の神々は関係ない。


 だとすれば、これは〔神狩り〕が関わるべき案件ではないのかもしれない。


(せめて、彼らにひとかけらでも後悔があったのなら……)


 自然界の報復だと理解しながらも、それでも〔神狩り〕が人間の側に立って神を殺すのには理由がある。生活を営む人々の根底に、神や自然に対する畏敬の念があるからだ。


 自らの浅慮を恥じ入り、身の程を知って、生命の調和を思い出し、頭を垂れる。それがなければ〔神狩り〕は人間の肩を持とうとはしない。人間と自然との折り合いをつけるのが役目なのだから。


 だが、兵士たちは魔犬をただの害獣としてしか認識していない。そして、あろうことかその存在を抹消してようとしている。ミランが見下げ果てるのも無理はなかった。


 だが、ミランの行いもまた褒められたものではない。

 彼の主張は単なる八つ当たりだ。戦争によって在り方を歪められた獣を憐れむばかりで、彼らの立場や心情を慮れなかった。調停者として未熟であったと謗られても文句は言えない。その事実がなお、彼を気落ちさせてしまう。


(父さんなら、どうするかな……)


 そんなことを考えていると、


「あいたぁ!」


 という悲鳴が聞こえた。


 思わず振り返ると、屋上の入り口でファウナがうずくまって鼻を抑えていた。階段でこけたようだ。


「……大丈夫か?」


「あ、はい。大丈夫です。転ぶの慣れてますから!」


 心配させまいとファウナはぎこちなく笑った。状況的にミランを追いかけてきたのだろう。


「……心配するな。頭冷やしたら戻るからさ」


 暗に一人にしてくれと伝えたつもりだったが、ファウナはそこを動こうとしなかった。針のむしろに座るような、居心地の悪い時間が過ぎる。


 その沈黙をファウナが破った。


「……あなたは戦争を憎んでいるんですね」


「戦が好きなやつなんて、この世にいるのかね」


 ミランは忌々し気に吐き捨てる。


「……そうですね。愚問でした」


 ファウナはしゅんとした。


 また八つ当たりしてしまった。こんなに小さな女の子に。自分の身を案じて、わざわざ来てくれた優しい娘に。


「……だが、お前の言う通りだ。俺は戦争を憎んでいる。そして、それを正当化する騎士たちも。なにせ、俺の父は戦争に殺されたようなものだからな」


 とつとつと、ミランは語り始める。


「戦時中、このあたりでも鉄を打つために伐採が行われたんだ。でも、そのせいで〈森の主〉が怒り狂い、近隣の村に下りてきてたくさんの死傷者を出すことになった。その村の人たちが伐採したわけじゃないのにな。でも、そんなこと、〈森の主〉には関係ないことだ。森の怒りを示すのが神の役割だから。そして、父さんは〈森の主〉の怒りを鎮めるために戦って、その時の傷が原因で死んだ」


 ミランは間接的にとはいえ父を殺めた戦争を、その中核を担った騎士を憎んでいる。騎士たちに対する態度は当然の帰結であった。


「戦争がなければ伐採する必要はなかった。〈森の主〉も怒らずに済んだし、父さんも死ぬことはなかった。戦争は森への敬意を忘れさせる。人間も動物もオーベルテールに生きる一個の命に過ぎにないというのに、そんな当たり前のことでさえも、戦争は忘却させてしまうんだ。因果応報、自業自得さ。あんたたちは帝国との戦争に勝ったかもしれないけど、それよりもを敵に回したかもしれないのに。それに、気づかない連中があまりにも多すぎる……!」


「……返す言葉もありません」


 ファウナには、ミランの言う強大な相手が何かわかっているようだった。


「……でも、本当はわかっている。〔神狩り〕だ何だと言って、俺だって人間なんだ。誰かが死んだから悲しいし、助けられるなら助けたいと思っている。人間が悪いってわかっていてもな。そうじゃなきゃ、きっと父さんは戦わなかったよ」


 それでも、〔神狩り〕とて人間なのだ。自分が蒔いた種だと割り切って、見殺しにできるようなものではない。人と森の狭間に生きる故の――人でも森でもないが故の苦悶。


「……ごめんなさい」


 ミランはその言葉に嗚咽が混じっているのに気が付いた。慌てて振り向くと、ファウナの瞳から大粒の涙が溢れていた。ミランはぎょっとする。


「お、おい。どうした。何か傷つけること言ったか?」


「いいえ、違うんです」


 ファウナはぐしぐしと袖口で涙をぬぐった。


「わたしはとても軽率なことをしました。わたしはあなたに助力を頼むべきではなかった。この怪物はきっと、あなたが定義する神ですらない。あなたが倒すべき相手ではありません。人間の業が生み出したものです。なのに、あなたはここから立ち去らずにいてくれた。それが申し訳なくて……いたたまれなくて……」


 ミランは自分で自分を殴りたい気分になった。


(……俺は馬鹿だ)


 人間のすべてが愚かなのだと、決めつけていなかったか。自分以外の誰も彼もが自然への崇拝を失ったと思い込んでいなかったか。


 少なくとも、この少女は違うではないか。自分ではない誰かの罪を、我がことのように省みることができる人間ではないか。


 あれだけ近くにいたのに、そんなことさえ気づかなかった。憎しみはそれほどまでに目を曇らせる。在り方を狂わせてしまう。魔犬がそうであったように。


 まだまだ未熟だな、と大きく息をついた。


「……まあ、俺も大人げなかったよ。ここの騎士たちが魔犬を生み出したんじゃないのは事実だしな。八つ当たりだったよ。俺も、知らず知らずのうちに戦争に狂わされていたのかもしれないな」


 すでに過去のことでありながら、今を生きる者たちに影響を与え続ける。戦禍は極大の怨念のようなものだ。


「もう、終わったことなのに」


 それは自分に言い聞かせているようだった。


 忘れてしまえば、繰り返す。騎士たちのように。


 忘れなければ、囚われる。魔犬のように。


 きっと、その二つを乗り越えて初めて大戦の呪いから解き放たれるのだろう。


 そのためには示す必要がある。この件に関わる全員に、憎しみは乗り越えられるということを。憎悪こそが忘れ去られるべきものなのだと。それが、過ちを正す唯一の贖罪なのだから。


「ファウナ。お前が泣く必要はない。俺は俺の意思で、魔犬を討つ。たとえそいつが神でなくとも、これは俺の仕事だ。俺が打ち倒さなければならない相手なんだ」


 自分もまた一人の戦争の犠牲者として、もう一匹の犠牲者を救わねばならないと、ミランの瞳に強い意思の光が宿る。


「あなたは……」


 ファウナはどこか眩しいものを見るように目を細めた。


「……なんだ?」


「い、いえ、別に」


「よし、頭も冷えた。それじゃあ騎士様に犬の殺し方を伝授しますかね」


 砦の中に戻るミランを、ファウナは追わなかった。


 ――もう、終わったことなのに。


 その言葉はファウナの心に棘となって刺さった。


 今度は、ファウナが気持ちを切り替える番だった。


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