賢人の少女
「改めまして、ミランさん。わたしはファウナ。王立学院博物学部において主に動物学の研究をしている国家賢人です」
狭い馬車の客室の中で、少女は自らの正体を明かした。
寝不足のために表情は沈んでいるが、ミランは内心でその肩書に驚く。
(いろいろ詳しいと思ったら、まさか本物の賢人様とはな)
賢人とは文字通り知恵深い者を指す言葉であるが、この場合は称号というよりは職業である。
国家賢人は、その知恵と経験を用いて国に尽くす者たちだ。
レスニア王国が擁する二大教育機関の一つ、王立賢人養成所――通称、王立学院。前途有望な逸材たちがありとあらゆる学問を研究し、その成果は政治、経済、文化といった様々な分野で活かされている。
とりわけ農業と工業の分野においては、画期的な農法や生産物の品種改良、新たな加工技術の開発など、国民の生活に直接的な恩恵を与えていた。
ちなみに、もう一つの教育機関は国立騎士養成所である。
こちらは国家の防人たる騎士を育成する学院で、内容も兵科ごとの実技教科がほとんどであるが、場合によっては政治的な判断が必要な状況も想定されるため、基礎教養科目も履修しなければならない。故に教育機関として分類されているのだ。
騎士が国を守る剣と盾であるならば、賢人は国を支える杖である。この二柱の高品質化によって、レスニア王国は小国でありながら極めて高い水準の国力を維持していた。
(その一員が、一介の猟師に知恵を貸してほしいなんて、どういう風の吹き回しだ。俺、読み書きすらできないのに……)
そのレスニア王国であっても領民の識字の浸透は完全ではない。読み書きはそれ自体が職能として価値があり、だからこそ写本師や代書人という職業が成り立っている。田舎の農村であっても庄屋やそれに類する家柄ならばともかく、一介の猟師に過ぎないミランにとって文字は縁のないものだったし、とりわけ必要だとも思っていない。
己の身分に何ら不満を持たないミランであったが、生まれも育ちもまるで違うファウナを前にすると、住む世界が違うことを突きつけられた気分である。
「そんなに大したものじゃないですよ。つい最近までは見習いだった身分ですから、楽にしてください」
ミランの居心地の悪そうな表情に気づいたファウナが慌てて手を振った。彼女の謙虚な態度は好ましく思うが、若くしてその地位にいるファウナの非凡さは隠しようがない。
「……で、どこへ連れていくつもりだ?」
話を仕切り直す。
あの後、ミランは特に目的も告げられないままに村の入り口で待っていた馬車へと案内された。道中に説明するの一点張りで、詳しい事情はこれからだ。
「騎士団の城砦ですよ。イール地方には第三騎士団の駐屯地があるでしょう?」
この国には大別して三つの騎士団がある。
一つ目は王都の守護を担う第一騎士団。二つ目は国境防衛を任されている第二騎士団。三つ目が各地に点在して遊撃を行う第三騎士団である。
これから向かっているのは、第三騎士団の一部隊が駐屯している砦のようだった。
「騎士団、ね」
ミランは露骨に嫌そうな顔をした。ファウナは怪訝そうに眉をひそめる。
「……なにか?」
「……別に。なんでもないさ」
明らかに何かある。だが、ファウナは追及を避けた。語っていいことならば、ミランのほうから口を開くだろう。
「騎士と賢人とどういうつながりが?」
代わりに、ミランはもっともな疑問を口にした。昔から武力と知力、武官と文官は相容れないものだ。現にそれらを養成する学院でさえ別々に設けられている。
「本筋からは逸れますが、一応説明しておきましょう。まず、わたしは生態調査のためにこの地にやってきました」
「生態調査?」
ミランは聞きなれない言葉に首を傾げる。
「それは田畑の収穫量を調べたりするやつか?」
「それは検地ですね。領主や地方官吏のお仕事で、税収のための調査です。わたしの場合は学術的な側面が強いですね。その土地にどんな植物が生えていて、どんな種類の動物が生息しているのか、またその数はどれくらいなのかを調べるのです」
はあ、と気のない相槌を打つミラン。
「そんなことをして何になるのかって顔ですね。まあ、目に見えた利益はないので、説明が難しいのは確かなのですが」
「よくわからないが、そういうのはもっと人手がいるんじゃないのか?」
至極真っ当な意見にファウナは苦笑する。
「博物学は最も古い学問の一つですが、昨今は研究する人が少ないのですよ。優秀な人材は大戦の前も後も魔法学科に取られっぱなしですし。数少ない研究者たちも、益になるかどうかわからない奥辺境の動植物を研究するより、米や麦、豆や芋といった農作物、あるいは牛や馬、豚や鶏といった経済動物……既に役に立っているものの研究に力を注いでいます。成果がそのまま人々の生活に反映されますからね。国費で研究している立場ですので、優先順位の低い調査には予算も人員も少ないのですよ」
口調こそ穏やかだが、ファウナの表情にはどこかやり切れなさがにじみ出ていた。
文明社会ではあらゆる物事に経済が絡む。まして、勝利国であるレスニア王国であっても未曽有の大戦争の後では国力の低下は免れない。何よりも優先すべきは国家の立て直しであり、今後の外交的主導権を握るためには、他国に対して優位に立てる先進的な技術の開発と保有が不可欠である。
具体的に述べるならば、それは魔法だ。
先の大戦で多大な戦果を挙げた魔法使い。それまで一握りの選ばれた人間だけが備える超人的な能力であった魔法を解析し、体系化し、普遍化するための魔法学の発展は、今後の国政においてとても重要なものであった。
「まあ、ロートヴァルトの使節団との合同演習の結果を思えば、あまりいい気分ではないのは確かでしょうしね」
レスニア王国は魔法学において文句なしの最先端である。だが、厳密にはそれも正しくはないことが証明された。大戦時、同盟を結んでいたロートヴァルト王国も限定的ながらではあるが魔法を普及させていたのである。
しかも、一部の魔法系統においてはレスニア王国よりも完成度が高いとの噂だ。関係者は口を揃えて『まるで未来から完成品を持っていたようだ』と驚愕したという。
友好を結んでいる両国ではあるが、レスニア王国としては黙って後塵を拝するつもりはないのだろう。人材、時間、資金。そのどれも役に立つかどうかも分からない辺境生物相の研究などに割いている余裕はないのである。
「よくわからないが、苦労しているんだな」
田舎の猟師でしかないミランは政治などには縁がなく、また興味もないが、ファウナの苦悩は痛いほど伝わってきた。労りの言葉の一つでもかけたくなるのが人情だ。
「ええ。でも、生き物が好きですから。できるだけ頑張りたいなとは思うんですけど」
「どうして、そんなに生き物が好きなんだ?」
「だって、すごいじゃないですか!」
ファウナが身を乗り出す。顔が近い。さらりと揺れた金髪からいい匂いがした。
「人間ですら迷子になるというのに、遡河回遊魚は産卵の時期になると自分が生まれた川に正確に戻ってきます。蝙蝠はほとんど目が見えないのにも関わらず、夜の森を障害物にぶつかることなく高速で飛行します。正六角柱の空間充填構造は最小限の材料で最大限の空間を保持する特性を持っていますが、我々人間がそれを発見する以前から蜂たちはすでにそれを巣の構造に活用していました。生き残るために獲得したのか、そういった能力を持っていたから生き残ったのかはわかりませんが、どれもこれも神秘的で……知れば知るほど、学べば学ぶほど、生命というものの奥深さに感動します。そして、そういった生命の一つ一つが捕食と被食の関係で連鎖し、一つの大きな円環を築き上げている。世界には無駄なものなんて一つもなく、小さな虫一匹、草の一本ですら重要な構成要素なんです。美しいとは思いませんか!」
「お、おう」
ミランはファウナの熱弁の半分も理解できなかった。だが、彼女が世界に対して純粋な敬意を持っているのは伝わってくる。それはミランにも同意できる感情だ。
世界は厳しくも美しい。古代の狩人はそこに神を見た。古くから細々と、されど連綿と受け継がれる古い信仰だ。賢人などはその対極の存在かと思っていたが、ファウナを見ているとそうでもないらしい。
「お前が生態調査とやらに来たのはわかった。金がないから一人なのも。……あ、だから騎士団なのか?」
ご明察、とばかりにファウナは頷いた。
「ご存じでしょうが、害獣退治は騎士団の仕事でもあります。その記録は辺境の生物相を知る上では一見の価値がありますから。それに、わたし一人であちこち調査するのは限界がありますし」
駐屯騎士団の存在は〔神狩り〕が衰退した理由の一つである。
戦時中でなくとも戦力を維持する常備軍は、その組織形態が故に膨大な費用を要する。そのため、費用を折半している領主は元を取るために領地内に駐屯する騎士団に様々な任務を課す。盗賊などを成敗する治安維持活動がほとんどだが、その中には農家を悩ませる害獣の駆除も含まれる。
かつて、神を殺す技術は職業として成り立つほど貴重であったが、現代では職業軍人による人海戦術に取って代わられてしまった。
(確かに、もう俺たちの時代じゃないか)
移り変わる時代の流れに、ミランは一抹の不安を覚える。自らの役割がなくなることではない。新しいものに押し流された古いものたちの行く末に、だ。
文明の繁栄により良い未来、より多くの幸福が訪れることは喜ばしいことだろう。だが、その傍らで有史以来の伝統が失われ、忘れ去られていく。未来へ進むために過去を切り捨てる思い切りの良さ。それが人間のたくましさであると理解していながらも、その無慈悲さが空恐ろしく感じる時がある。
「さて、ここからが本題ですが、わたしがお世話になっている砦で事件が起きました」
「事件?」
「夜間警備を行っていた兵士が、何かに殺されたのです」
ミランはすっと目を細める。何やら物々しい話になってきた。
「実際の遺体は到着してからお見せしますが、破損状況から察するに、おそらくは肉食獣に襲われたものと推測できます」
「おそらく?」
その言葉に違和感を覚えた。
「言っちゃあ何だが、獣に殺されたなら、見て分からないか?」
ミランは職業柄、獣害に遭った人間の遺体を山ほど見てきたが、そのどれも凄惨の一言に尽きた。本能に生きる獣には容赦というものがない。生きるための糧として、あるいは縄張りを侵す敵として認識されれば徹底的に破壊し尽くされる。同じことを人間がしようとすれば、間違いなく気が狂うだろう。それほどの暴力だ。
「断定できないのは、その遺体があまりにも不自然だからです。人間が殺したようにも、獣が殺したようにも見えない。ただ、人間ならばそういう殺し方はしないという消去法によって、肉食獣の仕業だと考えているだけです」
「……なるほど。いずれにせよ、あの場では話せないわけだ」
ミランはすぐに事情が話せない理由に合点が行った。それが獣によるものであれ、人間によるものであれ、本来であれば事件を解決すべき騎士団が被害を受けている。さらに、事態解決のために外部へ助力を求めるようでは、周囲の村々からの不信に繋がる。
「お世話になっている身分ですので、何か力になりたくて。いくつか仮説は立てているのですが、これといった確証がありません。ミランさんは〔神狩り〕……言わば、この地域における害獣駆除の専門家です。あなたの経験をもってすれば、種類が特定できるのではないかと」
「正体がわかれば対策できるからな。とは言っても、辺境じゃ人間を食う獣なんて山ほどいるぞ。まあ、そういう凶暴で大型の奴はだいたい神域……森の奥深くに潜んでいるし、そうそう人里に下りてはこな――」
ミランの言葉が途切れる。
「馬車を止めろ!」
表情を強張らせたミランが叫ぶと、御者が慌てて手綱を引いた。
馬車が止まるより早くミランは客室から飛び出すと、山猫を思わせる身軽さで屋根へと飛び移る。
そして、矢筒から一本手に取り、弓を構えた。
猟師としての鋭敏な神経が何かを感じ取る。肌を刺すような刺激。殺気だ。
この馬車は何者から狙われている。
(どこだ)
何者かの姿は見えない。ミランは五感を研ぎ澄ませ、敵が潜んでいる場所を探る。
すると、唐突に気配が遠のいた。
(……なんなんだ、一体)
奇妙な感じだった。気配が遠のいたことではない。殺気の種類が、だ。
肉食獣から向けられる殺気とは違う。飢えを満たすために放たれる殺気は原始的である分、水のような透明感がある。しかし、今しがた向けられた殺気は、どこか濁ったような、粘っこいような、肌が焼き爛れそうな油ぎったものだった。
ありていに言えば、まるで親の仇から睨まれているような、非常に人間臭い香り。
だが、近くに人間が潜んでいる気配はない。
「どうかされましたか?」
ファウナも客室から降り、矢をつがえたまま硬直するミランを見上げている。その表情はどこか緊張しているようだった。
「……いや、なんでもない」
ミランは矢を筒に戻して、ひらり、と地面に下りる。
「すまん、気のせいだったみたいだ。寝不足で気が立っているのかね」
心にもないことを言った自覚はあった。
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