第二十九章 最強の称号

 ミカエルは葵を貶むように見ている。しかし、葵の更なる進化に気づいた篠原と薫は、全く反応が違っていた。

(追いついたかと思うと、更なる高みに到達している。さすが、宿命のライバルと見込んだだけの事はある)

 薫は 感心を通り越して、畏怖の念を抱いていた。

(葵、絶対に勝てよ!)

 篠原は思わず両の拳を握りしめていた。

「さて、どうですか、葵さん? もう十分ですか?」

 ミカエルは深呼吸をやめた葵を見て尋ねた。すると葵はフッと笑い、

「そうね。貴方をぶちのめすだけなら、この程度で十分かしら?」

 ミカエルを挑発した。ミカエルは肩を竦めて、

「まだそんな強がりを……。あなた方はどこまでいっても人間なのですよ。超人の私にはどう足掻いても追いつく事などで来ません」

「そうかしら?」

 葵はミカエルの態度にも感情を昂らせる事なく、余裕の返しをする。その態度が癪に障ったのか、ミカエルは苛ついた表情をチラリと見せた。

「葵さん、ハッタリも度が過ぎると笑えませんよ。貴女は私より強くなる事などあり得ないのですからね!」

 彼は語気を強めて怒鳴った。

(あいつ、とうとうイライラし始めたみたいだな?)

 篠原は慇懃無礼なミカエルが感情を見せたので、嬉しくなった。

(追いつめられて来たか?)

 薫も楽しそうにミカエルを見ている。

「試してみる?」

 葵はニヤリとして更に挑発した。ミカエルもニヤリとして、

「いいでしょう。いつでもどうぞ。貴女の思い上がりを叩き潰してあげますから」

 次の瞬間、葵が消えた。篠原と薫はハッとして彼女を目で追ったが、どこにも葵の姿は見えない。

「む?」

 それはミカエルも同じだった。葵を捉える事ができていないのだ。

(まさか……?)

 ミカエルは顔にこそ出さなかったが、内心は焦っていた。

(水無月葵め、一体どこに消えた?)

 ミカエルは辺りを見渡し、葵の気配を感じるために呼吸を小さくした。だが、葵の姿はおろか、気配すら感じる事はできない。

「どこを見ているの?」

 不意に葵が背後に現れた。ミカエルは慌てて振り返り、葵に右のミドルキックを繰り出した。その速さは、並みの人間なら確実に即死しているものだったが、彼のキックは空を切っただけだった。

「何!?」

 ミカエルはすぐさま態勢を整え、葵の攻撃に備えた。

「私はここよ、堕天使さん」

 再び葵が背後に現れた。ミカエルはニヤリとして、

「同じ手は通用しない!」

 振り返らずに右の回し蹴りを放った。一瞬葵に当たったかのように見えたが、それは彼女の残像で、何の手応えもなかった。

「くそう!」

 ミカエルは歯軋りして悔しがり、グルグルと身体を回転させて周囲を見渡した。だが、葵の姿はどこにもない。

「ほら、ここよ」

 次に葵はミカエルの真正面に現れた。

「ふざけやがって!」

 ミカエルの連続技が葵に炸裂した。右正拳、左ハイキック、左回し蹴り、右ローキック。だが、そのどれもが虚しく空を切るだけだった。

(あの天使ヤロウの攻撃すら、俺には見えないのに、葵は全部見切っているのか?)

 篠原は嫌な汗を掻いていた。薫は、

(だが、あいつがこれで終わるとは思えない。まだ何かある……)

 彼女はミカエルの強さの秘密に気づいた気がしていた。

(もしそうなのであれば、奴に一日の長があるかも知れない。月一族は、その重い掟故に、強さの限界に到達できない……)

 葵達月一族の一番の掟である「殺すべからず」がある限り、葵はミカエルに勝てない。薫はそう考えているのだ。

「この俺を見くびるな、クソ女が!」

 ミカエルの口調が変わった。

「遂に本性を現したか?」

 篠原が呟くと、

「いや、本性ではない。本気だ。奴の強さはこれからだと思うぞ、篠原」

 薫が腕組みをして言ったので、篠原はギクッとして彼女を見た。

「う?」

 葵もミカエルの様子が変化したのに気づいていた。

(もしかして、こいつ、本来の強さを出さないように押さえ込んでいたの?)

 そう思い、ミカエルから間合いを取って止まった。

「俺の本気を引き出させたのは誉めてやるよ、水無月葵。だが、後悔するぞ」

 ミカエルは葵を射殺そうとしているような鋭い目で睨みつけた。

「そう来なくちゃね。あれでおしまいなんて、面白くないもんね」

 葵はそれでもミカエルを挑発した。

(ここまで来たら、この男の最高のレベルを引き出して叩きのめさないとね)

 篠原は葵が何を考えているのかわかり、項垂れそうになった。

(あいつ、バカな事を考えているんだよな、きっと……)

 逆に薫はフッと笑い、

(そうでなくてはつまらん。そいつの思い上がりを粉微塵にしてやれ、葵)

 ミカエルは先程とは変わり、葵の挑発に激昂する事はなかった。

「お望み通り、最高の俺がお前を八つ裂きにしてやるよ!」

 ミカエルの姿が視界から消えた。薫と篠原は彼を見失ったが、葵は確実に追いかけていた。右に回り込んだと見せかけ、左に反転しての右踵落とし。葵はそれを難なくかわし、振り下ろされて行くミカエルの右脚を掴み、一本背負いの要領で投げた。しかし、ミカエルは空中回転をして着地し、反動をつけて葵の方へと飛び、右裏拳を繰り出した。葵はそれをかい潜り、ミカエルの右脇腹に左の肘打ちを見舞った。

「はあ!」

 だが、ミカエルはそれを右肘で防御し、飛び退いた。葵は間髪入れず、次の攻撃に移る。飛び退いたミカエルの軸足を狙い、ローキックを繰り出した。ミカエルはそれをすんでのところで側転でかわし、態勢を建て直すと、すぐさま葵に向かう。葵はその動きを確実に捉えており、ミカエルの右アッパーを避けると、その流れを利用して、左脚を支点にして身体を回転させ、やや低めの右回し蹴りを放った。

「ぬう!」

 ミカエルはそれをかわそうとしたが、一瞬遅れ、葵の蹴りを左の腿に受けてしまい、跳ね飛ばされて倒れた。その一連の動きはわずか数秒の間の出来事である。

畜生ダムユー!」

 ミカエルは日本語にする余裕すらなかったのか、母国語で怒鳴った。薫と篠原はミカエルが倒れたのを見て目を見開いた。

「殺す! もう絶対に殺す!」

 ミカエルは素早く立ち上がると、肩を怒らせ、語気を荒らげて葵に怒鳴り散らした。

「なら、早くかかって来なさいよ、坊や」

 葵は腕組みをしてフッと笑い、右手の人差し指をクイクイッと動かして、挑発した。

「うおおお!」

 冷静さを完全に喪失したミカエルは、雄叫びを上げると葵に突進した。

「勝負あったな」

 篠原が呟いた。しかし、薫は、

「いや、まだわからないぞ、篠原」

「え?」

 その言葉に篠原はギョッとした。

(葵のたった一つの弱点は、相手を殺せない事。奴がつけ入るとすれば、そこだ)

 葵と凌ぎを削った事がある薫だからこそわかる事だった。

(むしろ、私と戦った時のように完全に『鬼』と化した方が決着は早かったかも知れない)

 薫は目を細めて、葵の出方を窺った。

「うりゃあ!」

 ミカエルのハイキックが葵を襲う。葵はそれを難なくかわし、ミカエルの鳩尾に左フックを叩き込んだ。

「ぐげえ……」

 ミカエルの呼吸が一瞬止まり、口から泡を噴いた。葵は拳を引き、次にミカエルの右顔面を殴りつけた。

「がはあ!」

 ミカエルはもんどり打って仰向けに倒れた。

「やはり……」

 薫は自分の懸念が当たってしまっている事に気づいた。

(私が葵だったら、今の鳩尾への一撃で奴の心臓を潰している。今の葵の力なら、それが可能なはず。だが、一族の掟がそれを許さない……)

 篠原は薫の言葉を聞きつけ、

「薫ちゃん、『やはり』ってどういう事だ?」

 薫は篠原を見て、

「葵は私と戦った時より強くなったが、そのせいで戦いに勝てなくなった」

「はあ?」

 篠原には薫の謎かけのような言葉に意味がわからない。

「何だよ、それ?」

 篠原はそう尋ねながらも、起き上がったミカエルに気づき、視線をそちらに戻した。

「その程度の打撃では、俺には大したダメージにはならねえぞ!」

 ミカエルは涎を垂らしながら、葵に再び突進した。葵は舌打ちをした。

(『鬼』の力が読めないから、どれくらいの打撃でいいのかわからない……。失敗したかな?)

 彼女は「鬼の行」による爆発的な力の発動を制御したつもりだったが、相手に与える衝撃を計算し切れていなかった。

「葵、手加減するな。そいつは普通の人間ではない。急所を外して、動きを封じろ!」

 薫が叫んだ。葵は彼女の言葉にハッとした。

(そう言えば、こいつは自分の事を『超人』て言ってたわね。その事に賭けるか)

 意を決して、ミカエルを迎え撃った。ミカエルの正拳を右手で受け止め、次に繰り出されて来た右のトウキックを後退してかわしつつ、受け止めた右拳を両手で掴み、素早くミカエルの懐に飛び込んで、背負い投げをした。ミカエルは床に叩き付けられる事なく着地し、その反動を利用して葵に頭突きを見舞って来た。葵はそれを身体を仰け反らしてかわすと、ミカエルの胴体を両腕で締め上げ、バックブリーカーの要領で頭から床に叩きつけた。

「ぐべべ!」

 ミカエルは白目を剥き、口から血の混じった泡を噴き出した。

「やったか?」

 篠原が叫ぶと、薫が、

「いや、まだだ」

 薫の言葉通り、ミカエルはすぐに意識を取り戻すと、飛び起きた。葵は間合いを取って身構えた。

(確かに言葉通り、超人のようね……)

 鬼の行を発動している葵の攻撃を受けて、それでもなお立ち上がるミカエルは、彼の言葉通り、人を超えていると思われた。


 葵とミカエルが壮絶な戦いを繰り広げていた頃、もう一人のメンバーであるラファエルは、建物の地下に張り巡らされている薄暗いトンネルを走っていた。

(ミカエル、希望が叶って満足だろう。喜びをかみしめたまま、あの世に旅立つがいいさ)

 彼は狡猾な笑みを浮かべ、その先にある脱出口に向かっていた。

「一人でどこへ行くの、もう一人の堕天使さん?」

 聞こえるはずがない方向から、女の声がしたので、ラファエルはギョッとして立ち止まった。

「だ、誰だ?」

 腕力は全くない彼は怯えながら周囲を見回した。

「月一族の神無月美咲よ」

 ラファエルの進行方向から、美咲が姿を現したので、彼は危うく尻餅を突きそうになった。

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