第二十八章 大乱戦
壁に叩きつけられた葵は、立ち上がる事ができないのか、もがいているように見えた。ミカエルはニヤリとして、ゆっくりと彼女に歩を進めた。
「葵!」
篠原が叫び、走った。彼は葵を助けに行くのではなく、ミカエルに突進した。
「うおお!」
篠原の蹴り、突きの連続技がミカエルに放たれたが、彼は見向きもせずにそれを軽々とかわし、反撃に出た。
「ぐう!」
ミカエルの右の掌底が篠原の右脇腹に炸裂した。
「む?」
ミカエルはその瞬間眉をひそめた。篠原は衝撃により、後方へ数メートル吹っ飛びはしたが、倒れなかった。
「ほお」
薫が腕組みをし、フッと笑った。美咲は一瞬何が起こったのかわからなかったが、
「そういう事ね」
頷いて篠原を見た。
「何をしましたか、篠原さん? 貴方、服の下に鉄板でも入れているのですか?」
ミカエルは肩を竦めて篠原に尋ねた。それは明らかに篠原を嘲っているように美咲には見えた。
「入れてねえよ、そんなもの。てめえも、感触が違う事くらいわかってるんだろうが!」
篠原はそう言いながらも、右脇腹を押さえて顔を歪ませている。ミカエルは目を細めて、
「なるほど。東洋に伝わる『気』ですね。葵さんとはまた違った使い方だ。そういう事ですか」
篠原はこみ上げて来る嘔吐感を堪え、ペッと唾を吐くと、
「どういう事でもいいよ。俺が相手だ、かかって来な!」
クイッと右の人差し指を動かし、ミカエルを挑発した。ミカエルは右の口角を上げて、
「相手にならないとわからないのですか? 貴方如きが!」
「うるせえよ!」
篠原は葵の回復のために犠牲になろうと思っていた。葵が勝てない相手では、どう足掻いても自分はもちろん、星一族の星薫にも勝ち目はないし、無論、美咲にも無理だろう。だからこそ、少しでも葵に勝機を与えるために動く。そう決断したのだ。篠原はミカエルが動く気がないと思い、また走り出した。
「時間稼ぎのつもりなら、無駄ですよ」
ミカエルはフッと笑い、消えた。
「何?」
篠原はミカエルの動きを追おうと思い、足を止めた。次の瞬間、ミカエルの強烈な右フックが篠原の鳩尾に決まっていた。
「ぐげえ……」
篠原の呼吸が強制的に止められてしまった。ミカエルの拳の半分が彼の身体に食い込んでいたのだ。
「篠原さん!」
美咲が目を潤ませて叫んだ。薫は声は出さなかったが、ミカエルの動きに衝撃を受けていた。
(何という速さだ……)
ミカエルは苦虫を噛み潰したような顔になり、
「それでもまだ『気』を使いましたか、篠原さん? 本当なら、止めだったのですがね」
拳を引っ込めて、飛び退いた。篠原は弱々しく笑い、右手で鳩尾を撫で、
「時間稼ぎもさせないつもりなら、
ミカエルは自分がまんまと篠原の誘導に引っかかったのに気づき、少しだけ怒の感情を見せた。
(そうか。奴が仕掛けないのは、そういう事なのか)
薫はミカエルの行動に何か気づき、動いた。
「あ、薫ちゃん、ここは俺の一番いいとこなのに!」
篠原が抗議したが、薫は構わずにミカエルに攻撃を仕掛けた。彼女はいきなり右回し蹴りを放った。当然の如く、ミカエルはそれを易々とかわした。次に薫はその流れに乗って左の裏拳を繰り出した。ミカエルはそれも難なくかわし、隙が大きくなった薫に反撃を試みた。ところが、彼の放った右の突きは薫を掠める事すらなく、空を切った。
「何!?」
薫はミカエルの右脇に滑り込んでいた。
「お前は型通りにしか反応できないようだな」
薫はミカエルのがら空きの右脚を両手で抱えると、彼を引き倒し、脚を思い切り捻った。
「うぐ!」
初めてミカエルが呻き声を上げた。薫はそれでも脚を放さず、
「動きを封じさせてもらうぞ」
そう言うと、足首を完全に逆向きにしてしまった。美咲が思わず悲鳴を上げた。
「ふぐう!」
ミカエルも更に呻き声を上げた。薫は彼を床に叩きつけるように放し、
「確かにお前は強い。だが、実践慣れしていないようだな。想定と違う動きをされると鈍い。そして、人間の急所以外への攻撃には対処が遅れる」
その言葉をミカエルは歯軋りして聞いていた。薫の言葉が当たっているようだ。
「お前がどんな経験を積んで来たのかは知らないが、能力だけで戦っていたら、すぐに限界は訪れる。もう終わりだ」
薫の気が変わったのを美咲と篠原は感じた。
(薫さん、殺すつもりなのね?)
果たして薫を止める事ができるのか? 美咲は篠原に目配せしたが、篠原は首を横に振った。無理だと判断したようだ。薫が消えた。ミカエルに止めを刺すために。ところが、床に倒れ臥したのは、薫の方だった。彼女は口から血を吐いていた。
「何?」
篠原と美咲には何が起こったのかわからなかった。いや、薫にも何が起こったのかわからなかっただろう。
「ご教授、ありがとう、薫さん。次からは気をつけますよ」
ミカエルは薫から離れた場所に何事もなかったように両脚で立っていた。足首も問題ないようだった。
「残念でしたね、薫さん。私は超人なんですよ。通常の人間なら負傷してしまうような関節の動きでも、それは私にとっては普通の事なんです」
ミカエルは薫に自分の足首を百八十度回してみせた。
「呻いたのは演技ですよ。すっかり騙されたようですね?」
ミカエルは得意満面の顔で薫を見ていた。
「ふざけるな!」
薫は再びミカエルに突進した。篠原も葵がまだ立ち上がれていないのを見て、それに続いた。薫と篠原の混合連続技に対しても、ミカエルは微笑んだままで応じていた。薫と篠原は目配せして一旦退いた。
(恐るべき適応能力だな。先程とは雲泥の差だ)
薫は自分がミカエルに助言を与えてしまったのを悔やんだ。篠原はもう一度葵を見た。しかし、葵は動けずにいた。
「む?」
ミカエルは美咲の姿が見えないのに気づいた。
「おや? 美咲さんはどうしましたか? 皆さんを見捨てて、逃亡したのですかね?」
彼は愉快そうに笑い、篠原に尋ねた。篠原はムッとしてミカエルを睨みつけ、
「美咲ちゃんはそんな薄情な子じゃねえよ! お前の仲間と一緒にするな!」
ミカエルは篠原の剣幕に肩を竦めて、
「そうですか。いや、私には仲間などいませんが。あなた方に囚われた者達の事を言っているのであれば、違いますよ」
「何?」
篠原はミカエルの妙な返答に眉をひそめた。ミカエルはフッと笑い、
「あいつらは、私の駒です。仲間などではありませんよ」
篠原は呆れたが、薫は頷いた。
(こいつは最初から、我々の実力を測るためだけに、あいつらを差し向けて来たのだな)
薫はチラッと葵を見た。葵はまだ立ち上がっていない。
(それ程のダメージを受けたとは思えないが……)
葵の回復があまりにも遅いので、薫は何かあると感じていた。
(そして、美咲が姿を消したのにも、何か理由があるようだな。もう一人いるはずのラファエルとかいう奴を探しに行ったのか?)
それはミカエルにも把握されているようだった。彼は葵を見て、
「いつまでダメージを受けたふりをしているのですか、葵さん? もう回復しているのでしょう? そして、貴女は美咲さんに別行動を取らせるために意図的に私の注意を引きつけようとしていましたね?」
そう言われて、葵はスッと立ち上がった。篠原はそれを見て、
「何だよ、葵? やられたふりしてたのか? 俺はお前が回復する時間を稼ぐために命を懸けようと思っていたのに!」
少々ムッとした顔になった。葵はフンと鼻を鳴らして、
「そんな事も見抜けないような奴に、時間稼ぎなんかできないわよ」
その返しに篠原はグッと詰まった。美咲は葵の芝居だと気づき、別行動に移っているのだから、自分が間抜けだったと結論づけるしかないのだ。
「やはりそうでしたか。私は貴女がそれ程遠くへ飛ばされるような打撃を加えたつもりはなかったので、妙だとは思っていたのですよ」
ミカエルはニヤついて葵を見た。葵はミカエルを睨め付けて、
「それはどうも」
次の瞬間、葵の気が更に膨れ上がり、変質し始めた。薫と篠原ばかりではなく、ミカエルも目を見開いた。
(まだ上にいくつもりか、葵?)
薫は戦慄してしまっている自分に驚いていた。篠原はすでに言葉もなく、何も考えられない程になっていた。
「葵さんはまだ最強にはなっていなかったという事ですか? なるほど、これは面白い」
ミカエルが言うと、葵は、
「さっきはあれで最強だと思ったのよ。でも、まだいけるってわかったから、もう一度やってみただけよ」
葵の身体の周りの空間が歪んで見える程、彼女の身体から凄まじい気が噴き出していた。薫と篠原はそれをはっきり視認していた。ミカエルには気の流れは見えていなかったが、葵の周りの空気の流れが異常なのは理解していた。
(もしかして、これが鬼の行が禁じ手とされた真の理由なのか? 青天井?)
篠原は全身から尋常ではない汗が噴き出すのを感じた。「鬼の行」が禁じ手となったのは、あまりにも強力な技だったからではなく、それを使う者を確実に死に至らしめるからだと言われていた。だが、どうやらそうではないようなのだ。
(溜めれば溜める程強くなれる。限界がない。だが、それは鬼の行と言う技の限界がないだけであって、使い手に無限の強さを与えてくれる訳ではない)
篠原は、かつて葵が薫と戦った時より彼女の身を案じていた。
「葵……」
すると葵はその小さな呟きを聞き取り、
「心配しないで、護。私は死なないわ」
ミカエルを睨みつけたままで言った。篠原は苦笑いして、
「そうか。安心した」
そう言って、薫を見た。薫はフッと笑って篠原を見てから、
(月一族……。やはり底知れぬ忍び達だ。まだまだ当分追いつけないか)
葵を見た。
「まだ強くなるつもりですか、葵さん? でも、無駄ですよ。どこまで行っても、あなた達は人間どまりだ。超人である私に追いつく事などできないのですからね」
ミカエルは葵の中で何が起こっているのかわかっていなかった。彼女もまた、人を超えようとしていたのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます