第十三章 ウリエル

 水無月葵と篠原護は、帝星大学付属病院の法医学教室の解剖室を目指して、長い屋根付の回廊を歩いていた。病院は大学の敷地の一部にあり、医師や看護師、患者ばかりではなく、学生達も数多く出入りしている。大股で颯爽と歩く葵と、その後を小走りでついていく篠原は、上司と部下のように見える。

「機嫌直してよ、葵さん」

 篠原は揉み手をしながら言った。しかし葵は、

「機嫌を直すも何も、私は別に怒っていないし」

 つれない反応をした。篠原は苦笑いをして、

「冷たいなあ、葵さんは。そういうところも、好きなんだけどね」

 葵はそれには何も返さず、回廊の角を曲がり、その先の法医学教室がある建物のドアに向かった。

「え?」

 そのドアまでの空間には、誰もいなかった。気配すら漂ってはいない。ところが、身を切り裂くような凄まじい殺気が辺りを埋め尽くしているのを葵と篠原は瞬時に感じ取った。

(何、これ? やけにあからさまじゃない? 誘っているの?)

 葵は眉をひそめて目だけで周囲を見渡した。歩みはそのままで、ドアを目指している。篠原も同様に周囲を目だけで見渡し、警戒している。彼は何があっても葵を守るつもりだ。

(どこだ?)

 ドアまでの距離はおよそ十五メートル。その間には直径一メートルほどのコンクリートの支柱が三本建てられている。その陰になら、十分人が隠れられるが、そこには誰も隠れていないのは葵も篠原もわかっていた。だが、殺気は確実に二人に向けて放たれている。

(もしかして……?)

 篠原が目を屋根に向けたのと、その一部が突き破られて黒い影が降りて来るのはほぼ同時だった。葵と篠原はその場からバッと飛び退き、襲撃者に対した。

「さすがだ。よく交わしたね。並みの人間なら、今ので死んでいたよ」

 そう言って乾いた拍手をしてみせたのは、身長がニメートル近くある細身の黒人だった。全身を黒のつなぎで覆っており、短く刈り込んだ髪、あらゆるものを射殺してしまいそうな鋭い目、頑丈そうに胡座を掻いた鼻、分厚い唇の持ち主である。

「無礼な奴だな、お前。挨拶もなく俺達を殺すつもりだったのかよ?」

 篠原がニヤリとして尋ねた。するとその黒人はフッと笑い、

「これは失礼したね。僕はウリエル。もちろん、本名じゃないよ。これはボスが付けてくれた名前だ」

「へえ。じゃあ、さしずめ、あんたのボスはミカエルで、あと、ガブリエルとラファエルがいるのかしら?」

 葵は腕組みをし、目を細めて言った。ウリエルと名乗った黒人は葵を見て、

「ほお、よくわかったね。ボスの名はミカエルだよ。世界で一番強い人さ、水無月葵さん」

 葵にとっては予想していた事ではあったが、改めて自分の名を呼ばれると、気味が悪くなった。

「ベタな名前だな。もっとひねったのにしろって、帰ったらボスに伝えろ」

 篠原が気分が悪そうに舌打ちした。ウリエルはギロッと篠原を見ると、

「そんな事は伝えられないよ、篠原護」

 葵はさん付けで、俺は呼び捨てかよ、と思った篠原だったが、

「どういう意味だ?」

 ウリエルは愉快そうに笑うと、

「君達は死ぬからさ。死んだ人間の伝言をボスに伝えても意味がないだろ?」

 その挑戦的な言葉にムッとした篠原は、

「ああ、そうだな。お前はボスのところに帰れないから、伝えようがないよな?」

「どうしてさ、篠原?」

 ウリエルはわざとらしく肩を竦めて篠原を見る。篠原は、また呼び捨てかと思いながら、

「俺にぶっ倒されて、救急車で運ばれて留置所行きだからだよ!」

 そして次の瞬間、一足飛びにウリエルの間合いに飛び込み、右のミドルキックを彼の左脇腹に決めようとした。

「ぬ!?」

 キックがウリエルに当たる直前、篠原は妙な予感がし、サッと身を退いた。

「どうしたの、護?」

 葵は篠原の行動を妙に感じて尋ねた。すると篠原は顔を汗塗れにして、

「こいつ、今、明らかにキックを誘っていやがった。だから、やめた……」

「え?」

 葵も篠原の言葉の意味がわからない。するとウリエルはニヤリとして、

「ほお、凄いね、篠原。気づいたのかな?」

 そう言うと、左の脇腹から、無数の鋭い剃刀を飛び出させた。葵はギョッとして篠原を見た。篠原は顔の汗を拭い、

「蹴飛ばしていたら、右脚が使えなくなっていたって訳か……」

 ウリエルは剃刀をしまうとゲラゲラ笑い出し、

「面白いなあ、お前は、篠原。もうちょっと間抜けかと思ったけど、少しは切れるんだね?」

「うるせえよ、この!」

 篠原は何も隠していないと思われる顔面目がけてハイキックを放った。すると今度は、つなぎの襟元から小さなナイフが飛び出した。

「うわっ!」

 全く予想していなかった訳ではなかったので、篠原はキックを引っ込め、後退った。ナイフをしまい,

「惜しかったなあ。ちょっと出すのが早過ぎたのかな、篠原?」

 今度は子供っぽい笑みで言うウリエル。篠原はイラッとした。だが、迂闊に攻撃を仕掛けると、何が飛び出して来るかわからないので、動かなかった。

「あれ? ビビっちゃった? もう怖くて来られないの? 何だ、つまんない」

 ウリエルはヘラヘラ笑いながら、篠原を挑発した。篠原はカッとなりそうだったが、歯軋りをして堪えた。するとウリエルは狡猾な笑みになり、

「だったら、こっちから行っちゃおうかな?」

 そう言うと、一旦篠原に突進すると見せかけて、逆方向にいる葵に向かった。

「葵!」

 焦った篠原がウリエルを追いかけようとした。ウリエルは下卑た笑みを浮かべたままで右の袖口から刃渡り三十センチはあろうかと思われるサバイバルナイフを取り出し、葵に向かって射出した。すると葵はそれを寸前で顔をほんの少し左にずらしただけで避けた。ところが、ウリエルが放ったのは一本だけではなかった。葵から見て、第一投からわずかに左に第二投が迫っていたのだ。ウリエルは命中を確信し、ニヤリとした。ところが、何故かナイフは葵を素通りして、第一投と同様にその背後にあるコンクリートの支柱に当たって地面に落下した。

「な、何だ?」

 ウリエルは何が起こったのかわからず、呆然としていた。そして、ハッと我に返り、葵がいた場所をもう一度見ると、彼女はそこにはいなかった。

「遅過ぎよ、ウリ坊!」

 葵はウリエルの足元にしゃがんでいた。

「うお!」

 ウリエルは狼狽して呻き声をあげ、飛び退いた。葵はゆっくりと立ち上がり、

「あんたのボスに伝えなさい。日本の忍びを舐めるなってね。不意打ちや多勢に無勢の攻撃でいくら勝ちをもぎ取ったところで、そんなのは勝ったうちに入らないって」

 言葉は穏やかだったが、葵の目はウリエルを貫かんばかりに睨みつけている。しかし、ウリエルは、

「まあ、いいさ。僕の任務は、君達の足止めだからね」

 葵と篠原は顔を見合わせた。

「じゃあね、楽しかったよ、葵さん。篠原なんかと付き合うんだったら、僕の方がずっとカッコいいし、頭も切れるから、乗り換えを考えといてね」

 ウリエルは葵の言葉など意に介さないという顔で告げると、フッと姿を消してしまった。

「くそ!」

 篠原が走り出す。葵も舌打ちして走り出した。法医学教室へのドアを開け放ち、篠原はヒンヤリとした廊下を走った。まるで人の気配を感じないその廊下に彼は背筋が凍りつきそうになった。

「血の臭い……」

 葵も続いて飛び込んで来て、その空間のおぞましさを感じたようで、眉間に皺を寄せて立ち止まった。

「あいつら!」

 篠原は解剖室のプレートが付けられた部屋の扉を引いて開け、中に入った。

「う……」

 そこは葵の事務所のフロアより凄惨な状態だった。解剖台に載せられた与党進歩党の岩谷幹事長と思われる遺体は、切り刻まれ、全く判別がつかない状態にされている。特に殺害犯が突いた喉の部分は切り取られ、原型を留めていない。そして、遺体はそれだけではなかった。解剖医と助手と思われる二体も切り刻まれていたのだ。

「畜生、乗せられちまったって事かよ!?」

 篠原は悔しさのあまり、壁を拳で叩いた。葵も解剖室に入って来て、

「警察に任せるしかないわね。ここがこんなだという事は……?」

 そう言って篠原を見た。篠原は頷いて、

「あの強面さん達を襲撃した奴も始末されるかもな」

 葵は携帯を取り出して、

「皆村さん達が危ないわね」

 そして、神無月美咲にかけた。


 その美咲は、ちょうど戻って来た星三姉妹をシェルターに迎え入れたところだった。

「はい」

 美咲は星三姉妹と如月茜が見つめる中、通話を開始した。

「そうですか。そこも襲撃されましたか」

 美咲は解剖室の凄惨な状況を想像し、気が滅入りそうになった。

「それより、皆村さん達が危ないかも知れないわ」

 葵にそう言われ、美咲はピクンとした。

(また皆村さんを巻き込んでしまう)

 一年程前、別の事件で、皆村は敵の狙撃で生死の境を彷徨ったのだ。美咲はそれに今でも責任を感じている。皆村の生活に支障が出るなら、自分が介護しようと思った程なのだ。

「薫さん、ここを頼みます。ちょっと出かけて来ます」

 美咲は携帯をしまうと、星薫を見て言った。薫は縛り上げた白人の男をチラッと見て、

「わかった。好きな男を守るために行くのだな?」

「違います」

 美咲はムッとして応じると、茜に目配せして、走り去った。

(神戸さんが可哀想……)

 茜は心の中で、美咲に思いを寄せている外務省官僚の神戸典を哀れんだ。

「さ、中へ」

 茜は薫達をシェルターに入らせ、厳重な扉を閉じた。


 話題の皆村秀一は、狙撃犯を確保し、護送車を手配して、最寄りの所轄署に向かっていた。走行している道路の先に交通誘導員がおり、赤い旗を振っている。

「あれ、こんなところ、工事してたっけか?」

 運転していた署員の言葉に皆村はピンと来た。

「止めるな、突っ切れ!」

「え?」

 皆村の無茶な命令に運転者は動揺したが、

「奴らはさっきの狙撃犯の仲間だ! 止まったら、殺されるぞ!」

「ええ!?」

 護送車の中を張りつめた空気が支配する。車は速度を緩めずにそのまま誘導員らしき人物に向かった。その人物は、護送車が止まらないとわかり、慌てて横に飛んだ。護送車は道路を塞いでいたパイロンや誘導灯などを弾き飛ばし、そのまま走り続け、追いかけて来る黒塗りの車を振り切るために更に加速した。

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