第十六章 第四の存在
水無月葵と篠原護は、篠原の姉である外科医の皐月菖蒲を病院のロビーで待っている。
「全く、自分は待つのが嫌いなのに、他人は平気で待たせるんだよな、姉さんは」
篠原がイライラしながら貧乏ゆすりをしていると、
「
不意に背後に立った女性が言った。篠原と葵は同時に小さく悲鳴を上げた。
「ね、姉さん、いつの間に?」
篠原は嫌な汗を拭いながら、その女性を見た。グレーのスカートスーツに身を包んだ、美貌と高慢さを兼ね備えた顔立ちだ。黒髪をバッサリと肩上でカットした髪型は職業上必要だかららしい。その人こそ、二人の待ち人である皐月菖蒲である。
「私も忍びの一族の端くれよ。気配くらい消して近づけるわ」
菖蒲は絵に描いたようなドヤ顔で言ってのけたが、篠原はその事に反応するつもりはないらしく、
「帰って行く患者に紛れ込んで来られたら、いくら何でも気づけないよ」
呆れた顔で応じた。菖蒲はムッとした顔で二人の前に回り込むと、
「それが人にものを頼む時の態度なの? どう思う、葵?」
今度は葵を見た。葵は苦笑いして、
「お忙しいのに申し訳ありません、菖蒲さん。調べて欲しいのは、これなんです」
そう言って、小さな金属を見せた。すると菖蒲は、
「あら、お義姉さんでいいのよ、葵」
ニヤリとして言うと、苦笑いしている葵から金属を受け取り、
「マイクロチップね。アメリカなどで、前科がある者に埋め込むものと似ているわ」
「やっぱり……」
葵は菖蒲に何があったのかを告げた。すると菖蒲は、
「そこまでの事をするとなると、美咲が気がついたセミナーや新商品のお試しフェアが怪しいわね。チップは耳の中に埋め込まれていたんでしょ?」
「ああ。いくらか皮膚に食い込ませていたみたいだ」
篠原が応じると、菖蒲は頷いて、
「私の専門外になるけど、恐らく敵は薬も使っていると思う。催眠だけでそこまでできないし、できたとしても、確実性が低いはずだから」
篠原は葵を見た。葵は頷いて、
「だとすると、想像以上に敵は大規模、あるいは、専門性に長けた人間がいるという事ですね?」
「そうね。もしかすると、国レベルの関与があるかも知れないわね」
菖蒲は声を低くして言った。篠原は腕組みをし、
「アメリカが背後にいるっていう事か?」
「可能性はあるわよ、護君」
菖蒲はいちいち篠原と話す時に彼の名前を君付けで呼ぶ。篠原はそれが虫酸が走る程嫌なのだが、言えば言ったで何倍にもなって返されるので、我慢している。
「合衆国政府に狙われる覚えはないですよ」
葵は菖蒲に言った。菖蒲は肩を竦めて、
「人間て、どこで恨みを買っているか、わからないものよ」
「姉さんも気をつけた方がいいぜ。患者に相当怨まれているだろうから」
篠原がニヤッとして言うと、菖蒲はキッとして弟を睨み、
「患者さんに怨まれるような事をした事はないわよ、護君」
また護君か、とウンザリした顔で思いながら、篠原は、
「自覚ないのか、姉さん?」
「自覚も何も、そんな事は一度としてないわよ!」
菖蒲はしつこい篠原に詰め寄って反論した。葵は周囲の人間が注目し始めたのを見て、
「場所を替えませんか、お義姉さん」
非常に不本意であったが、菖蒲のご機嫌を取るためにそう言った。
真実の星条旗と名乗るテロリスト集団の幹部の一人であるガブリエルを警察に引き渡した神無月美咲は、名残惜しそうにしている皆村秀一と別れ、仲間の如月茜と星一族の三姉妹が待つ篠原の「別宅」に向かっていた。得意の「屋上飛び」である。ビルの屋上から屋上へと飛び移り、急ぐ時はトラックの荷台やバスの屋根に飛び移る事もある。
「はい」
美咲がトラックの荷台に移った時、茜から連絡が入った。
「ここにあった最新鋭の医療機器で薫さんが倒した男を調べましたが、頭の中には何も埋め込まれていませんでした。下っ端だけなのでしょうか?」
茜の声が言うと、美咲は更に飛び移りながら、
「何とも言えないわ。皆村さんに連行してもらったガブリエルも検査すればわかるでしょうけど」
「そうですね。強面さん、無事に連れて行けますかね?」
美咲は茜が皆村を嫌っているのを気にしていたので、
「茜ちゃん、大原さんの先輩をあまり悪く言うものではないわよ」
茜は、自分がほぼ付き合っているも同然の警察庁のエリートである大原統の名を持ち出されると、
「悪口だなんて、そんなつもりはありませんよ、美咲さん。いくら美咲さんが強面さんに気があるからって、私をいじめないでくださいよ」
「気があるだなんて、おかしな事言わないでよ、茜ちゃん」
美咲はムッとして言い返した。
(強面さんが可哀想)
美咲の無自覚の暴言にも似た言葉に茜は皆村を哀れんだ。
「急ぐから、話はそっちに着いてからにするわね」
美咲は携帯を忍び装束の袂に入れ、素早く屋根から屋根へと飛び移った。
(茜ちゃんがおかしな事を言うからもう!)
美咲は火照って来た顔を撫でながら先を急いだ。
「偵察隊が全滅。回収に向かった者も捕えられ、止めるのも聞かずに暴走したガブリエルも忍びの女に捕まったみたいですよ、ミカエル」
明かりと言えば、起動しているデスクトップパソコンのモニターのバックライトのみの部屋で、肥満気味の黒髪の男が言った。東洋系だが、喋っているのは英語だ。黒のTシャツに黒のジーンズという軽装だが、平べったい地味な顔立ちなのに、目だけが異様にギラついている。
「それに反して、言いつけをキチンと守って命じられた事だけをこなしたウリエルは無事帰還の途に着きました」
東洋系の男が告げると、その背後に腕組みをして立っている長身痩躯の金髪碧眼の白人の男は、
「まあ、いい。ガブリエルはもうそろそろ賞味期限切れだった。敵の手に渡っても、何も得るものはないから、支障はないだろう」
抑揚のない声で応じた。そして、
「それより、頼んでおいた手筈は順調か、ラファエル?」
ラファエルと呼ばれた東洋系の男はニヤリとし、
「抜かりはありませんよ、ミカエル。万事お任せを」
そう言って、恭しく頭を下げた。白人の男は踵を返すと、
「では、実行に移れ」
やはり一本調子の声で命じると、その場から立ち去った。ラファエルは肩を竦めて、
「
そして、まさに目にも留まらぬ速さで、キーボードを叩き始めた。
(日本の忍者を仕留めたら、次はお前の番だ、依頼人よ)
ミカエルは右の口角を少しだけ上げて笑った。
葵と篠原は、菖蒲の控え室にいた。必要最低限のものしかない殺風景な部屋である。
「この手の事は私は門外漢だから、もっと詳しく知っている人に聞いておくわ」
菖蒲はコーヒーを淹れながら、言った。
「もっと詳しく知っている人? だったら、その人に会わせてくれないか、姉さん?」
篠原が言うと、菖蒲はキッとして弟を睨みつけ、
「ダメ。貴方のような高圧的な人間には会わせられないわ。その人は、繊細で緻密な人なの。だから、私が聞いておきます」
「はあ?」
高圧的な存在の象徴のような姉にそう言われてしまった篠原は、どうにも納得がいかなかったが、
「わかりました。よろしくお願いします、お義姉さん」
葵が篠原の言葉を遮るようにして返事をした。篠原は不満そうに葵を見たが、葵はそれを無視して、
「あれからお加減は如何なんですか、金村さんは?」
いきなり、菖蒲の喉元にナイフを突きつけるような質問を放ってみせた。篠原はそれを聞いて、合点がいった。金村とは、前年の事件に巻き込まれた外科医で、菖蒲の思い人である。
(そういう事か。姉さんらしいな)
菖蒲はクスッと笑った弟をチラッと見てから、
「何の事、葵? 金村君がどうかしたの?」
平静を装っているつもりのようだが、カップを持つ手が震え、コーヒーが零れそうだ。
「あら、私の早とちりでしたか、お義姉さん?」
葵は立ち上がって菖蒲からカップを受け取ると、篠原に渡した。菖蒲は遂に「未来の義妹」を睨みつけ、
「葵、いくら貴女でも、言っていい事と悪い事があるわよ。金村君は関係ないわ」
葵はそんな強烈な視線にも負けずに微笑み、
「そうなんですか。私の勘違いだったんですね。金村さんは、脳外科の第一人者で、脳波と電磁波の関係を研究なさっていると聞いた事がありましたので、そう推測してみたのですが」
葵は全部わかっていてわざと惚けている。それに気づいた菖蒲は歯軋りした。だが、どうしても葵の言う通りだと認めたくない彼女は、
「そうよ、勘違いよ、葵。探偵の貴女がそんな事では、先が思いやられるわね」
そう言いながら、もう一つのカップを葵に渡した。葵はそれを受け取って篠原の隣に腰を下ろし、
「そうですね。以後気をつけます」
頭を少しだけ下げた。そして、菖蒲から死角になったところで、ペロッと舌を出した。
(おっかねえなあ、女は)
それを横目で見ていた篠原は、思わず身震いした。
美咲は「別宅」に到着し、中に入った。
「お帰りなさい、美咲さん」
一眠りしたのか、美咲が出かけるときより顔色が良くなった茜が出迎えてくれた。美咲は奥を見て、
「三姉妹の皆さんは?」
茜もチラッと後ろを見てから、
「まだ捕まえた男を調べています。血液検査をしているところですね」
「そうなの」
美咲は茜に手を貸して、奥の部屋へと進んだ。そこは病院の一角かと思われる程医療機器が並んでいる部屋である。恐らく、日本でも最新の機器であろう。
「薫さんて、医師免許を持っているんですよ。もちろん、全くの別人としてらしいですけど」
茜が検査をしている薫を見て美咲に囁いた。
「凄いのね、薫さんて」
美咲はすっかり驚いてしまっていた。三姉妹は美咲に気づき、振り返った。
「無事だったか。さすがだな。サンプルは採って来たか?」
採血を終えた薫が美咲に尋ねた。美咲は苦笑いして、
「サンプルは採れませんでしたけど、いろいろとわかりましたよ」
「では、それを教えてくれ」
薫は血液を採った注射器を次女の篝に渡すと、美咲に歩み寄った。
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