第二十章 罠

 その廃工場は、多くの小さな工場が建ち並ぶ町の外れにあった。元は何を製造していたのかもわからない程朽ち果て、かけられていた看板も錆と汚れで全く判読不能である。外壁はそのほとんどが崩れ、中と外の境界線はあまり残されてはいない。しかしそれでも、建物である事は判別できた。

「本当にあんなところに連中が潜伏しているの?」

 CIA中央情報局の車で近くまで移動した葵は、貸してもらった双眼鏡でそれを観察しながら尋ねた。CIAの日本支部長のブライアン・スチュアートは頷き、

「間違いありません。恐らく、連中は工場跡の下に地下アジトを構えていると思われます。この辺り一帯には、太平洋戦争当時、防空壕が掘られていたと記録にあります。それと連結して、地下道を移動している可能性すらあります」

 葵は双眼鏡をブライアンに返しながら、

「なるほどね」

 半信半疑の目を彼に向けた。ブライアンは苦笑いして、

「嘘ではない証拠に私達も同行致します」

「そんな事、当然でしょ」

 葵は半目でブライアンと彼の部下である対テロ組織課のロバート・ダニエルを見た。そこへ、美咲が薫と共に車で現れた。葵はウィンドーを開き、美咲に合図した。美咲は少し離れたところに車を停め、薫と近づいて来た。

「もう一人いるけど、構わないわよね?」

 葵が言うと、ブライアンは、

「もちろんです。神無月美咲さんなら、大歓迎です」

 何言ってるんだ、こいつは? 葵は訝しそうな目でブライアンを見てから、車を降りた。

「では、行きましょうか」

 ブライアンとロバートも車を降り、葵に目配せした。葵は頷いてから、美咲と薫を見た。

「信用できるのか?」

 ブライアンとロバートが歩き出すのを見てから、薫が葵に囁いた。すると葵は、

「信用なんてしている訳ないでしょ? 様子を見ているの」

「なるほどな」

 美咲は、月と星の頂点同士の会話を顔を引きつらせて聞いていた。

(さすが、所長と薫さんね。CIAがいつどんな行動をとっても、対処できそうだわ)

 美咲も、当然の事ながら、信用はしていない。

(彼等にしても、昨年の黒い救急車事件では、私達には恨みがあるだろうしね)

 葵と薫と美咲は、慎重に周囲を警戒しながら、二人のアメリカ人の後に続いた。


 篠原護の「別宅」で、監視カメラの映像解析をしていた茜と、薫の妹の篝と鑑は、地下鉄の駅にいた人間、葵と篠原を襲撃した人間の中に、性格改善セミナーと新商品お試しフェアに来場していた人間と同一人物が多数いるのを突き止めていた。

「思った通りね。こういう下地でもなければ、あれほど素早く対応できるはずがないわ」

 茜が言うと、篝が、

「これで謎は解けた。後は連中がどこにいるかだが、そこは姉様達に任せて、こちらはどうする?」

 茜を見て言ったので、茜は少しだけ意外に思ったが、

「そうね。マイクロチップを取り付けるだけではあそこまで人を操れないと思うから、映像にある人の情報を集めて、何かを受け取っていないか、調べましょう。恐らく、刷り込みのために更に何かを観るように仕向けていると思う」

「そうだね。大いに考えられる」

 今度は鑑が同意した。

「そうと決まれば、出かけようか」

 篝が言ったので、茜も立ち上がりかけたが、

「あんたはまだ本調子じゃないから、ここで情報収集してなさいよ。外の事は私達に任せて」

 鑑が茜の肩を押して、椅子に戻した。

「あ、ありがとう……」

 茜が涙ぐんで言ったので、鑑は照れ臭そうに鼻の下を指で擦り、

「な、馴れ合うつもりはないけど、いたわりの気持ちは持っているわよ。私達だって、鬼や悪魔じゃないんだからね」

「そういう事。但し、この一件が片づいたら、また以前と同じよ」

 篝がウィンクして茜に言った。茜は零れそうになった涙を拭って、

「うん」

 嬉しそうに応じた。


 ブライアン達は何も躊躇う事なく、廃工場の敷地に足を踏み入れた。葵達はそれでも警戒心を緩めずにそれに続く。

(妙ね。この人達からは何も悪意を感じない気がするんだけど、何となく気が許せない)

 葵は殺気ではない何かを敷地中から感じていた。それは薫も同じだった。

(この嫌な感覚は何だ? 何がそう思わせる?)

 美咲もそうだった。

(アジトだとしたら、既に敵の潜入を許してしまっているのだから、何かリアクションがあって然るべきね。どうして何もないのかしら?)

 葵達の警戒をまるで感じていないのか、ブライアンとロバートはどんどん奥へと入っていく。それは罠がある事を知っているとしか思えない程の大胆さにも思えたが、二人が葵達を騙しているとも思えない。葵達には常人とは違う感覚がある。もし、相手が罠にかけようとしていれば、たちどころにわかるのだ。

(只、イスバハンの時のように、対象者がそれと自覚していない場合には、無理だけどね)

 葵はイスバハン王国の王女にすっかり騙された時の事を思い出して、苦笑いした。

(まさか、またあれと同じケース? でもねえ……)

 ブライアンとロバートが何者かに操られているのかとも考えたが、それも考えにくかった。

(もしそうなら、一体敵はどこなの? 誰が私達を嵌めようとしているの?)

 そこが一番の疑問なのだ。

「こっちです」

 ロバートが振り返って、手招きした。葵は薫と美咲に目配せし、二人に近づいた。ブライアンとロバートが立っているのは、工場の中にあった事務室のような仕切りに取り付けられたドアだった。ドアとは言っても、そのほとんどが朽ち果て、ノブもだらんと垂れ下がっているものだったが。それでも、仕切りのほとんどが残っているので、中がどうなっているのかは外からは見えない。

「開けます」

 ロバートが言い、ドアの部分を蹴り飛ばした。ドアはその衝撃で壊れるというより、崩れ落ちるようにその姿を失った。周囲に土ぼこりが舞い、葵達は顔をしかめて口をハンカチで覆った。ドアがなくなったお陰で、仕切りの向こうに外の光が差し込み、内部が半分程見えるようになった。事務机が二つ並べられており、奥には酷く汚れたホワイトボードがあった。当然の事ながら、人の気配はしない。ロバートとブライアンは葵達に目で合図し、中に入って行った。葵達も目配せし合い、それに続いた。

「外部から探り切れなかったのはここだけです。ここのどこかに地下道への入口があるはずなんです」

 ロバートは周囲を見渡しながら告げた。ブライアンも足元を注視して歩いている。仕切りの中の面積は畳十畳ほどであるが、物が散乱しており、床はほとんど見えていない。葵達もそれぞれ床を調べ始めた。しかし、それらしき形跡はどこにもない。

「む?」

 薫が何かに気づいた。葵と美咲もハッとして顔を見合わせた。

「罠だ!」

 薫が叫んだが、遅かった。彼女達が立っていた床全てが一斉に抜けたのだ。

「うわあ!」

 ロバートとブライアンもなす術なく、抜けた床のせいで下へと落ちた。

「く!」

 薫はすぐ脇にあった仕切りの壁に捕まったが、その仕切りも内側へと倒れて来た。

「美咲!」

「所長!」

 葵と美咲は互いに手を取り合い、一瞬にして忍び装束に変わると、袖からロープ付の小さい銛をわずかに残っている建物の柱に飛ばして巻きつけ、落下速度に制動をかけた。薫も服の下からくないのようなものを出し、周りにある土の壁に突き刺し、落下を食い止めた。

「まさか、あの二人まで巻き込んでの罠とはね」

 葵は袖からライトを取り出し、下を照らした。穴はおよそ十メートル程続いており、ロバートとブライアンは下まで落ちてしまったせいで、死んでいた。

「あの二人、CIAではなさそうね。間抜け過ぎるわ」

 薫も、

「そのようだな。恐らく、事情も知らずに私達をおびき寄せるために使われた俳優か何かだろう。騙しているつもりがないから、こちらにも連中の意図は見抜けないという事だ」

 すると美咲が、

「お二人共、上の方から焦げくさにおいがして来るのですが?」

 美咲が口を挟んだ。葵が上を見ると、黒煙が穴の向こうを覆っており、何も見えなくなっていた。

「落としただけでは飽き足らず、焼き殺すつもり?」

 葵がムッとして言うと、薫は、

「出るぞ、水無月葵」

「言われるまでもないわよ!」

 三人は穴から脱出し、紅蓮の炎に焼かれている廃工場の敷地に出た。

「さすが、月一族と星一族だね。もう脱出しちゃったんだ」

 どこからか、葵には聞き覚えのある声が聞こえて来た。

「ウリエルね? どこに隠れているの? こんな卑怯な手を使って!」

 葵が怒鳴ると、声は、

「卑怯だなんて心外だなあ、葵さん。大好きな貴女にそんな事を言われると、僕、傷つくよ」

 美咲はその反応に目を見開いた。葵は身震いして、

「気持ち悪い事言わないで! 早く姿を見せなさい。でないと、酷いわよ!」

 しかし、ウリエルの声は、

「嫌だよ。葵さんには悪いけどこのまま焼け死んで欲しいんだ。ラファエルの作戦を台無しにしてくれたから、彼が凄く怒っていてさ。全員、気が狂うまで犯してやるって雄叫び上げているんだよね」

 犯すという言葉を耳にして、葵と美咲は身震いしたが、薫は激高した。

「出て来ないなら、こちらから行くまでだ」

 彼女はウリエルの正確な位置を読み、炎の中を突き抜けていった。

「無茶しないで!」

 葵と美咲も薫に続いた。二人の忍び装束は六千度まで耐えられる繊維でできている。難なく炎を突破した葵と美咲は、すでに戦闘状態に入っている薫とウリエルを見つけ、

(さすが薫ね。ウリエルの隠している武器を見破ったみたい)

 ウリエルに騙された篠原が知れば、ショックで寝込んでしまうだろうと思った。

「やるねえ、お姉さん。もしかして、星薫さんなの?」

 ウリエルはヘラヘラ笑いながら、薫の攻撃をかわしている。

「あの男が、篠原さんと戦ったウリエルですか?」

 美咲が尋ねると、葵は二人の戦闘を見つめたままで、

「そうよ。嫌らしい戦い方をする奴よ」

 蹴り、突きの悉くをいとも簡単にかわすウリエルを見て、薫は焦っていた。

(隠し武器などを使う奴だから大した事はないと思ったが、予想以上だな……)

 ウリエルは薫が無反応なので肩を竦め、

「何だよ、無愛想だな。お姉さんも強くて美人だから葵さんとどっちにしようかなって思ったけど、やっぱり葵さんの方がずっと素敵だね」

 薫はそんなウリエルのバカげた話には耳を貸していなかったが、葵は、

「あんたに素敵とか言われても全然嬉しくないわ!」

 あまりに腹が立ったので叫んだ。

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