風の葵 テロリストの真実

神村律子

プロローグ 蠢くものたち

 今もこの地球上の各地で、多くの罪なき命が理不尽に奪われている。だが、それを多くの人達が知らずにいる。

「如何です、この計画?」

 一人が言った。もう一人は差し出された書面を読み、

「うまくいくのか?」

「もちろんです」

 書面を差し出した者が応じた。書面を受け取った者はそれを机の上に投げ出し、

「ならば問題はない。邪魔者は殲滅する。それを知らしめるために行動せよと伝えろ」

 言われた者は何も言わずににやりとして頷いた。


 西暦二千十四年、夏。東京都文京区の一角のグランドビルワンの五階にある水無月葵探偵事務所のフロアは静かだった。

「茜の奴、どこまでアイス買いに行ったのよ!? もう一時間以上経つんですけど!?」

 事務所のオーナー兼所長の水無月葵はソファにふんぞり返って不満を口にした。二十七歳の痩身の美人で、長いストレートの黒髪、ちょっと大きめの黒々とした瞳、高くスリムな鼻、薄くて小さめの唇の持ち主。いつも明るい色のスーツを着込み、ヒールの低い革靴を愛用している活動的な女性だ。

「どこまで行ったのでしょうね?」

 それに応じたのは、自分の机のパソコンに向かって書類を作成中の所員の一人、神無月美咲である。軽くウェーブがかかった奇麗な黒髪を肩まで伸ばし、ややウルウル気味の瞳と、小さい小鼻、新鮮なサクランボのように潤いのある唇。葵より三つ年下の彼女は落ち着いた雰囲気。服装も性格のように、淡色系のツーピースで、スカートの丈は膝よりほんの少しだけ上程度である。

「また、大原君とどこかでイチャイチャしてるんじゃないの? ああ、やだやだ」

 葵は口を尖らせ、毒づいた。大原君とは、前出の茜──如月茜と交際していると噂の警察庁のエリートの事である。美咲は苦笑いして、

「大原さんは出張でアメリカに行っているそうですから、それはないですよ。むしろ、所長の要望が厳しかったのではないですか?」

 葵はスッとソファから起き上がって美咲を見ると、

「そんな事ないでしょ? メロン味のアイスなんて、どこのコンビニでも売ってるんじゃないの?」

「アイスはそうでしょうけど、所長は容器も指定しましたよね? メロン型の容器って、まだ存在しているんですか?」

 美咲はブラウザを起動させて、検索エンジンを使って探したが、見つからなかったのだ。

「え?」

 美咲は、ビル全体に張り巡らせている警備システムが警告表示を出したので、ハッとしてブラウザを閉じ、警備システムのソフトを展開し、監視カメラの映像を出した。

「茜ちゃん!」

 そこには、傷だらけで倒れている茜の姿が映った。場所はビルの地下駐車場の一角だ。ショートカットの髪で、紺のスカートと白の半袖のブラウスを着た茜は、二十歳には見えないほど子供っぽい顔をしている。そのスカートの裾とブラウスの襟元が裂け、肘と膝から出血しているのが見える。

「所長、茜ちゃんが!」

 美咲は血相を変えて立ち上がり、叫んだ。葵も美咲の表情を見て事態を把握し、彼女のパソコンを覗き込んだ。

「場所は?」

 葵がドアに駆け出しながら尋ねる。美咲はもう一度モニターを見て、

「地下駐車場の南東の角です! 茜ちゃんが携帯しているリモコンを操作したみたいです」

「わかった! 貴女はここにいて! 敵がどこから来たのか、わからないから!」

 葵はドアを開けると、外廊下を全力疾走した。美咲は他の監視カメラの画像を次々に開き、確認し始めた。

(一体何があったの、茜ちゃん?)

 彼女は苦しそうに息をしている茜の様子を注視しながら、他の画面を見ていた。だが、どの階のどの映像を抽出しても、怪しい者の姿はなかった。やがて、葵が茜の元に駆けつけるのが映り、美咲は他の映像を閉じた。

(もう犯人はこの近くにはいない……。茜ちゃんの命を奪わなかったという事は、何か別の意図があるのかしら?)

 美咲は、葵に肩を貸してもらって立ち上がった茜が、虚ろな目ながらも、監視カメラの方を向いて親指を立てたので、ホッとして微笑んだ。葵達は表向きは探偵だが、真の姿は平安の世から続く日本最強の月一族と言う忍び集団である。だからこそ、美咲は「敵」と思われる者の正体が気になった。

(茜ちゃんをあそこまで痛めつけられるとなると、まさか……)

 かつて、葵と死闘を演じて行方をくらませた何百年も前からの強敵である星一族の事を思い出した。

(でも、何故今?)

 それがわからない。美咲はメールソフトを展開し、取引している情報屋に一斉送信した。

(これで何も反応がなければ、打つ手がなくなる)

 緊張感が増した。もし仮に星一族が動き出したのだとすると、何の前兆も捉えられなかった自分達を思い知る事になるからだ。

「あ」

 やがて、ポツポツとメールの返信が来始めた。だが、どれを開いても、何も得るものはなかった。情報屋の「網」にもかかっていないのだとすると、ますます星一族の可能性が高くなってきた。

「茜ちゃん!」

 ドアを開いて葵が背負った茜と共にフロアに入って来た。

「所長におんぶされたから、私、一生只働きですね……」

 茜は薄らと笑みを浮かべて、そんな笑えない冗談を言った。

「バカ言わないの!」

 葵は涙ぐんでいる。命には別状はないようだが、葵は茜の負傷にショックを受けているようだ。茜はソファの上に横にされた。

「美咲、すぐに先生に連絡を。私は護を呼ぶから」

「はい」

 美咲は机の上の固定電話の受話器を取った。葵はスーツのポケットから携帯電話を取り出して通話を開始した。護とは、篠原護と言い、葵達と同じ月一族の忍びで、防衛省の情報本部に所属している。

「あ、護? 茜が何者かに襲撃されたの」

 すると、篠原から意外な返事をもらった。

「やっぱりか」

「やっぱりって、どういう事?」

 葵は携帯をギュッと握りしめて尋ねた。篠原は、

「海の向こうから、妙な情報が流れてきたんだ」

「海の向こう?」

 葵が鸚鵡返しに言うと、

「詳しい話はそっちに行ってからするよ。とにかく、警戒してくれ」

「あんたも気をつけてね」

 葵が言うと、篠原は笑ったようだ。

「お前に優しい言葉をかけられると、怖いよ」

「何ですって!?」

 葵が怒鳴った時には、篠原は通話を切っていた。

「先生はすぐ来てくれます」

 美咲が受話器を置きながら告げた。葵はチラッと茜を見てから、

「情報屋の方は?」

「何もわかりません。網に引っかかった者はいないようです」

 美咲が深刻な表情で応じたので、葵はハッとした。

「まさか、星一族?」

「その可能性は否定できませんが……」

 美咲は顎に手を当てて思案した。葵も腕組みをして、

「護が、『海の向こうから妙な情報が流れてきた』って言ったのよ。それも気になるわ」

 葵の言葉に美咲はピクンとして、

神戸ごうとさんに訊いてみます」

 そう言うと、携帯を机の脇に掛けてあるショルダーバッグから取り出して通話を開始した。神戸とは、外務省に勤務するエリート公務員である。美咲とは浅からぬ縁であるが、その恋心はほぼ一方通行で、美咲は神戸の思いに応える様子はない、と葵は思っている。

「神無月さん、お久しぶりです。どうされたんですか?」

 神戸の声が興奮気味だったので、葵にも聞こえた。美咲は苦笑いして葵を見てから、

「お尋ねしたい事があるんですけど」

 声を低くして告げた。すると神戸も自分の声が大き過ぎたのを察したのか、

「はい、何でしょうか?」

 小声で応じてきた。

「星一族じゃないですよ、所長……。相手は外国人でした……」

 苦しそうな息遣いで茜が不意に言った。葵と美咲はそれに反応して茜を見た。

「外国人?」

 葵が茜に顔を寄せて言った。茜は葵を見て、

「音もなく現れて、背後を取られたので、最初は星一族だと思ったんですが、違いました」

「顔を見たの?」

 葵は茜の頭の下にクッションを敷いて訊いた。

「顔は目出し帽でわかりませんでした。でも、腕が半分出ている黒い半袖のTシャツを着て、黒いジーパンを履いていたので、腕の色と毛から、白人ではないかと……」

 茜の目が虚ろになるのがわかり、葵は、

「もういい。寝てなさい。そこから先は、私と美咲が調べる。何としてもね」

 ドアフォンが鳴った。葵は同じ一族出身の医師が到着したのだと思い、ドアを開けた。

「あんたは!?」

 葵は思わず飛び退いて身構えた。美咲も携帯電話を机の上に置き、身構えた。

「神無月さん、どうしたんですか?」

 受話口から神戸の声が虚しく響く。ドアの向こうに立っていたのは、噂に昇っている星一族の星薫だったのだ。

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