意志


 彼女は何をするにも一人だった。移動教室も、昼休みも、すべての時間を一人で過ごしていた。






「あいつよく一人でやっていけているよな」


倉田が思ったことをそのまま言葉にこぼす。俺は、奈緒には俺がいると言いそうになったがすんでのところで思いとどまった。


「そういうやつなんだよ。強いんだ、あいつは」


「ふーん・・・」


ついでに、彼女は今精神的に痛めつけられている。自分自身が受けたものとは反対である、クラスの女子たちは見えないところで奈緒の心のブロック崩しを楽しんでいる。






「またかあ」


いつの間に入れたんだろう、あたしの弁当箱の中に画鋲の針。それも10本あまり・・・


こんなの誰も食うわけないだろ、馬鹿。


あたしは黙ってゴミ箱に中身をザザアっと捨てた。


でも、これで一度も食べたことのない学食が食べられる。これから昼は学食にしよう。


プラス思考の自分の考え方が財産だと思った。






「高橋、ちょっと来いよ」


近藤だ。彼女はたまにあたしを誘う。武内、藤田まで一緒だ。


呼び出されたのはトイレだった。


「あんたさ、直美に謝ったら。てかさ、そのウザそうな顔やめてよ」


「なんでいまさら謝んなくちゃいけないんだよ」


「最初からウザい人間はもうそれ以上ウザい発言しなくていからさあ」


「大体お前じたいウザいんだよ」


「だまれっ」


左の頬が痛いと思った瞬間熱を帯びて赤くなったのが十分想像できた。


「みんな、やっちまえっ」


便器磨き用のブラシが顔に当たった―――続いてトイレットペーパーが紙の尾を引きながら飛んできた。


「っつう・・・っ」


「死ねよ、馬鹿」


あたしはそんな言葉にかまわず、相手の体を痛めつけようと近藤の頬を打った。とにかく殴りたかった。






 人生、どんなに歳をとっていようが山あり谷ありである。そして―――


思わぬところで方向転換をする場合がある。


誤った道に出てそのままになることがある。


それを修正するかしないかはすべて自分で決められるから―――


さあ、行こう。




と、これが奈緒の今の状況―――






「いい根性してるよな、お前ら」


ハアハア息をを切らしながら奈緒が言った。手には床磨きブラシを持っている。その先には近藤がいる。


「・・・っつ・・・まだ終わってねえんだよ馬鹿」


「とかいいながら負けてるじゃん」


「っ・・・・・・」


奈緒はがさがさと何かを探っている。


「何余裕かましてんだよ」


「これ、あげる」


と、3人の上に黒いゴミ袋に入った汚物がどさどさと落ちてきた。


「てっ・・・てめえ!!」


近藤は奈緒につかみかかろうと突進してきたが、奈緒はヒラリと身をかわし、ついでに足を引っ掛けた。どさっと鈍い音がして、近藤はその場にうつぶせになって倒れた。彼女の服はドロドロだった。


「・・・・・・っ」


彼女は何かを考えたようだ。そのまま立ち上がって教室の方向に走り去っていった。それを見た何人かがあからさまにいやそうな顔をした。


―――何かが違う。何かが違うような気がする。


あたしはこんなことをしにこんなところへ来たの?


奈緒は思った。






「何だ近藤のやつ・・・」


教室にむんっとした生臭いにおいが広がった。みんな顔をしかめた。俺自身臭いと思った。


「みんな聞いて」


教室の面々が彼女のほうを向いたのを機に、近藤は喋りだす。


「あたしは好きでこんなことになったんじゃない、あいつがやったの」


「あいつって誰?」


倉田がそこで茶々を入れた。


「こら」俺は小声で注意したが倉田は聞いていない。それくらいわかるだろうが、馬鹿。


「だからあいつって誰だよ」


「高橋よ、分かってるでしょう」


「ていうかさあ、お前が高橋いじめてるからそういう目にあうんじゃないか?」


「いじめられているのはあたしのほうよ」


「嘘つくな」


「嘘じゃない。あたしは武内さんと直美とトイレにいたら高橋にこんなことされただけよ」


「どーせいじめてる最中に反撃食らったんだろ」


その時、確かに近藤が動揺したのが手に取るようにはっきりと分かった。


「高橋の肩持つ気?」


彼女は冷ややかに言い放った。氷のように冷たい言葉だったけれど、研ぎ澄まされてはいなかった。


「持ってねえ。正当性を主張しただけだ」


「だからそれが高橋の肩を持っている発言になっているんじゃない」


「いいのかそんなんで?なめられるぞ。もっと大人数でやれよ」


「・・・・・・」


「俺は協力しねえけどよ」


「・・・・・・」


「俺は哲哉の件で反省しているんだ、もうこんなことはしない」


いきなり自分の名前が出てきたのでビクッとした。倉田は・・・俺をどう思っているんだろう。普通に友達と思ってくれているんだろうか?


「もうこんなことや・・・」


「川田が怯えているわよ」


少々動揺し始めていた俺をみんながいっせいに見た。近藤の言うことだけに、それが自分が怯えているように見えるという発言が本当のことのように思えて決まりが悪くなり、思わず横の壁にかかっている丸い時計を見た。時間は12時55分をさしていた。


自分の顔が燃えるように火照ったのが分かった。次に俺はそっぽを向いたまま下を向いた。教室のゴミが目に写った。


「あらみんなそろって街頭・・・じゃなかった、教室演説?何あんた何で椅子の上なんかに立っているの」


ガラガラと音がして奈緒が入ってきたと思えば一気にこんなことを言った。俺はそっちを見た。息継ぎはいつしたんだろう?


「何、やっと来たね」


「こんにちは」


奈緒はにっこり微笑んで近藤に挨拶した。それはすっきりしていてとってつけたような笑顔じゃなかった。


一瞬ここにいる男どもが穴の開くほど奈緒を見つめたのが分かった。


女のたくましさはここにあるのか?勝利の後に見せる笑顔。女の美しさはここにあるのか?何か本人がとても残虐な気持ちのするときに見せた笑顔。


それはとにかく背景に花が咲いたような・・・花が背景になるほどの笑顔だった。


残虐・・・な笑顔だったような気がする。それは強烈に俺の記憶の中に焼き付けられたような気がする。


奈緒の笑顔を左右反対にしたハンコを、毒々しい青の取れないインクで押されたような気がする。


こんなんじゃない。


こんなんじゃないんだろう、奈緒?


奈緒の笑顔は俺の中で凍りついた。






「・・・確かに高橋って可愛いかもしれない」


「おかしい、絶対おかしいって!」


「なにが?」


「・・・あんな笑顔普通見せるか?」


「見せるだろ、そりゃあちょっとは」


「おかしいよ・・・」


「お前高橋の良さ分かってないんじゃねえの?」


お前が分かってねえんだよ。


「・・・どうせ今発見できたのは可愛いってことだけだろ?」


「それは俺ら男というものにあたってはすごく魅力的なことなのさ、分かってねえな」


「・・・・・・」


「だから俺、高橋はいじめない」


「・・・でもあの時俺の名前が出てきたのはびっくりしたぜ、倉田」


「あっ・・・ああ、ごめん。つい・・・な?」


「気持ちは分かるけど。でも・・・仲直りできてよかった」


「・・・うん」


「ってかなり臭いしくすぐったいよな!今の俺の言葉」


「あははははは、確かに!」


帰り道、俺らは青春の1ページを歩んでいるような気がした。まだ何か自分が言った言葉が臭うような気がした。






やばい。


彼女がそう思ったのはその時だった。


あの笑顔をここにいた連中に見せてよかったのか?このままでは自分はまた目をつけられてしまうかもしれないじゃないか。


奈緒はその場に立ちすくんだ。体の中にもやっとする何かが詰まっている気がする。






コロンデ、オキアガッテ、マタコロンデ、ハシリダス。


ナナコロビヤオキ


ナオ、キミハナニヲノゾム?


モウコンナオモイハシタクナイ


ナラススムンダヨ、マエニ。


トマッテイテモシカタナイジャナイカ


ジブンノテデウンメイヲキリヒラクンダヨ。


ワカッタ?






「でもさあ、哲哉・・・高橋の魅力ってほかにもあると思う、俺」


「はあ、今頃そんなこと言っているのかよ」


「転んでも転んでも起き上がって進んでいくだろ?あれも魅力・・・」


「・・・・・・ってお前」


「近藤たちにいろいろやられているのに屈しない。強いんだ」


「・・・・・・」


「誰にも頼らずに生きているんだ」


「倉田・・・?」


「・・・俺、あいつのこと好きかもしれない」

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