霊獣の夢・3


 緑の丘と空の隙間に、そのよくわからないものは、にょきっと顔を出した。

 確かに、最高神官が獣と言うように、水色の目のようなものがあり、口のような割れ目がある。大きな耳らしきものが、風に煽られてなびいている。

 だが、どう見てもそれは泡のようなものであり、向こう側が透けて見えていた。


 ぼわわわん……。


 開いた口らしきところから、不思議な声が聞こえた。それは獣の咆哮にも聞こえるが、もっと温かくて優しい響きにも聞こえた。

 前足。そして後ろ足。

 ちゃぽん……といいそうな一歩を、霊獣は差し出した。そのとたん、エリザの前に巨大な全身が現れた。

「きゃっ!」

「静かに!」

 思わず叫びかけたエリザの口を、最高神官は押さえつけた。耳元に小さく声が響く。

「静かにしないと……逃げちゃいますから」

 そうはいっても、全身の毛が逆立ちそうなくらいに、エリザは驚いていた。

 恐怖というよりも、畏怖というべきか? 本来見てはいけないものを拝んでしまったような感覚である。

 霊獣は、エリザの住む小屋ぐらいの巨大さだった。

 それでいて透けていて何も中身がないようだ。しかも、なんとなく獣の形をしているとはいえ、どうも形が定まらない。

 時々足が長くなって細くなったと思えば、今度は太くなり短くなったりする。

 しかも……。ソイツは真直ぐに、サリサとエリザが倒れこんでいる方向に降りてこようとしている。

 まるで、走り出すかのように身をすくめて、そして。

 本当に、転がり落ちるかのように走り出したのだ。


 ぼわわわわーーーん!


 まるで大きな泡が襲ってくるように。霊獣は、驚くほどの速さでサリサとエリザのほうに向かってきた。

 悲鳴を上げたいエリザだったが、サリサに口をふさがられているし、それよりもなによりも、圧倒されていて硬直していた。

 霊獣のほうは、もう二人の間近に小山のような姿を見せていた。背後の風景が、霊獣越しに歪んで見えた。

 もはや逃げられない。

 エリザは、海すらも見たことがない。だが、小さな頃読んだ本で、津波の話があり、怖くて何度も夢にもたことがある。

 まさに、その夢の時と同じ。巨大な波が襲い掛かってくるようなった。


 ――踏み潰されてしまう!


 エリザは、一瞬目をつぶった。

 が……。

 ぼよよおおおんとした感覚が、エリザを包んだだけだった。

 いや、それだけではない。

 目の前に、なんと、幼い頃に旅立った村人の姿が見える。隣のおばあさんも、エリザのおじいさんも、病死した幼馴染の少女もだ。少女は手を振っていて、また明日……と言った。

 誰もが「やぁ元気?」とでもいう顔をして、会釈してエリザの前を通り過ぎる。

 エリザは驚いて辺りを見渡した。青空に浮かぶ雲が、まるで水溜りに映っているように、なんとも頼りなく歪んで見えた。


 水の中にいるみたい?

 まるで、霊獣の体越しのようだ。

 そう――これは、霊獣の体の中の世界だ。


 不思議と怖くはなかった。

 冷たい風はなく、日差しは柔らかく降り注ぐ。

 むしろ、癒されるような心地よさ。


「あぁ、エリザさん。よかったですねぇ……」

 そう声をかけたのは、あの祈り所の老婆である。死んで変わり果てた姿になった彼女なのに、にこにこ微笑む顔は明るい。むしろ、エリザが知っている彼女よりも若く見えた。

 軽い挨拶だけで、永久の別れではないかのように、老婆も歩いて去ってゆく。

 名残り惜しい……。とエリザは思ったが、次に姿を表した人には、自分から声をかけてしまった。

「フィニエル……」

 つい涙が出てきてしまう。

 彼女は微笑んだ。そして胸に手を当て、敬意を示して消え去った。

「待って! 待ってよ! フィニエル!」

 しかし、彼女の姿は二度と現れなかった。


 ――せっかく会えたのに、たったそれだけ?


 だが、エリザは悲しんではいられなかった。

 なぜなら、次に現れた人は、なんと母だったからだ。

「エリザ……。本当に立派になって。信じられないわ」

 母は、涙ぐんでいたエリザの前に駆け寄ると、愛しそうに髪を撫でてくれた。

「おまえには、巫女姫なんて大役は無理だとばかり思っていたけれど……」

 何度も何度も、母は髪を撫でてくれる。

 巫女姫として立派にやっているところを、母に見せたかった。母は、ちゃんと見ていてくれたのだ。

 エリザの涙はますます止まらなくなった。

「お母さん……」

「今度はおまえがお母さんになるんだねぇ」



 気がつくと、エリザは草原の真っ只中で泣いていた。

 慌てて母親の姿を探したが、もうどこにもなかった。歪んだ世界は消えうせて、丘の下方に小さく霊獣の姿が見えた。

 ものすごい速さで山を下っていって……ぱちんとはじけ……それっきり見えなくなった。

 何か懐かしい。それでいて、切ない気持ち。

 不思議と、体の中に力がわいてくるような感じがした。

 色々な人と会えて……そして母と話ができたことが、何よりもうれしかった。


 しばらくその余韻に浸りそうになったエリザだが、はっとして最高神官を探した。

「サリサ様?」

 エリザよりも少し離れた上方、芝生の上にサリサは座り込んでいた。膝を抱えて顔をうずめている。

 エリザは駆け寄った。

「サリサ様! 今の……今のって……。だ、大丈夫ですか?」

 母に会えた興奮のまま、はしゃいでしまったが、最高神官の顔色は青ざめていた。もしかして、具合が悪いのかも?

 でも、彼はすぐに微笑み、立ち上がった。

「大丈夫です。霊獣見たさに、張り切って走りすぎました」

 運動不足ですね、と微笑むので、エリザも心配しながらもつられて微笑んだ。

「あれは……何なのですか?」

 エリザの質問に、最高神官は答えた。

「幻です。霊獣は、三十年から五十年に一度くらい……時々しか現れない霊山の作り出す幻の獣です。時に死者を連れています。だが、その死者たちが、本当の彼らなのか、霊獣の気に触れたものが作り出す幻なのかは、誰も知りません」

 最高神官に引き寄せられ、髪を撫でられながら、エリザは思った。

「でも……とても幻だとは思えませんでした」

「私もです。でも、死者の仲間入りをするまでは、確かめる術はありませんしね。あの空間にいながら、あなたと私は別々の人物に会っていたはずです」

 髪を撫でる手が母を思い出させる。最高神官は、エリザの母には会わなかったかも知れない。でも……。

「フィニエルに会いました」

 エリザが言うと最高神官も答えた。

「私も会いましたよ」

「でも、胸に手を当てて敬意を示して行っちゃったんです」

「私にもです」

 二人は顔を見合わせて笑った。


 ――やはり、幻なんかではない。

 そう思ってもいいわよね? お母さん――

 

 風は少し温かくなった。日差しは傾いて優しくなった。

 どこにもあの霊獣の姿はない。泡のように飛んでゆき、弾けて消えてしまったのだ。

 エリザとサリサは、ゆっくりと歩いて帰る。バタバタと慌ててできた時とは対照的である。

 エリザは自分が不思議で仕方がない。

 最高神官に会うたびに不安になるくせに、いつの間にか彼の横でくつろいでしまう自分がいるのだ。また、後から色々思いをめぐらすと、これじゃあいけないと思うくせに。

 思わず笑っている自分がいる。

 今から思えば、最高神官が必死になって走り回り、霊獣見物とは何だかおかしくてたまらない。

「笑わないでください。これは言い伝えですけれど、霊獣を見ると寿命がわずかに延びるといわれているのです。ですから、霊獣との邂逅は最高神官に望ましいのです」

 今日の脱走は、こっそり……ではなかったのだ。霊獣の気を感じたならば、最高神官はどんな時でも霊獣に会いに行くことを優先していいのだ。

 エリザはきょとんとした。

 とすれば、身重の巫女姫よりも、寿命の尽きた仕え人たちをお供にしたほうがよかったのではないだろうか? 大勢で見に来るべきだったのでは? 

 フィニエルに去られてしまったばかりのエリザは、真面目にそう考えた。

「私よりもリュシュのほうがよかったのでは?」

 などと、間の抜けたことを言ってしまう。

 最高神官は、空を仰ぐ。

「リュシュは望みませんよ、たぶん。それに、私はあなたに見せたかったのですから」

「私ごときになぜ?」

 至らぬ巫女姫を連れていたおかげで、具合が悪くなるくらい走ることになったし、丘から転げ落ちる羽目になった。

 下手をすれば、見落とすところだったのだ。最高神官にとって、何もいいことはない。

「私ごとき……ですか?」

 最高神官は、少しうつむいた。が、エリザの手をとった。

「あなただから、です。あなたと、あなたの子供に。もしかしたら、その子は最高神官になるかも知れませんからね」

 


 エリザはまだ二十五年ほどしか生きていない。

 目の前を去っていった人々の数は少なく、その記憶も真新しい。幻は鮮やかに蘇る。

 だが、リュシュたちのように二百年ほどの時を過ごしてきた仕え人たちには、去っていった人々の数は数知れず、幻は悲しみばかりを運んでくる。

 去っていった父、母、兄弟……。恩人。誰もが、去って戻ってはこない。その姿さえおぼろげで、しかも気ばかりは感じてしまう。

 この苦痛を忘れるためなら、わずかな寿命すら尽きて欲しいと願うほどに、悲しみは降り積もるのだ。


 仕え人たちならば、霊獣にあうことなど望まないだろう。

 それは、百年生きているサリサにとっても、同じことである。




=霊獣の夢/終わり=

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