マール・ヴェールの石段(下り)2


 フィニエルの文字は、まるで彼女自身のように几帳面でやや固い。

 少しの乱れもなく、淡々と、同じ調子で書かれている。

 そして、文章も……である。

 彼女は、日誌をよく書いていた。そのせいもあり、実に日付なども正確であり、サリサは思わずため息を漏らした。

 事実だけを書き綴ってある。そこに、サリサは自分の思い出を絡めながら、時に一気に、時に物思いに沈みながら読んだ。



『祈りの儀式・巫女姫への投石で、本人を含め、十二名がムテを追放された。中には女五名・子供三名が含まれていた。ムテを出る前に、一名が川に落ちて溺死している』

 ちりり……と、蝋燭が融ける音。

 フィニエルは、この話を聞いて何を思ったのだろう? 何も書かれてはいない。

『故郷に対する処罰の厳しさに抗議をしたが、聞き入れてもらえず。逆に、巫女姫たる者としての立場を超えたことに、お叱りを受ける』

 とだけ、ある。

 フィニエルは、自分の感情を挟まずにこの文章を書いている。でも、書いている時は、色々と感慨にふけっていたのだろう。

 どこか、紙伝いに熱い思いが伝わってくるようにすら思う。


 時代はどんどん進んでゆく。やがて、覚え書きにサリサも登場しだした。

『サリサ・メル様、一の村からやってくる。霊山の風景が珍しいのか、落ち着きなくあたりを見回し、そして、泣き出した』

 まったくその通りである。弟夫婦に引き取られるはずのサリサは、突然霊山に連れてこられて、何が何だかわからずに不安だった。

 泣くことくらいしかできなかった。

 そんな自分が懐かしい。でも……思えばその頃と今では、いったいどのくらいの成長があったものだろうか?

 泣き出しこそしないが、泣きたい気持ちだ。

 どうすればいいのかわからず、不安なのだ。

 だが、フィニエルの覚え書きの中で、最も登場する人物は、マサ・メルだった。

『サリサ様、本日もマサ・メル様の呼び出しを無視して雲隠れする。私は、霊山中を探すように言いつかった』

『マサ・メル様は【なぜ、あの子は成長しないのです?】と、悔しそうに呟かれた』

『その時に限って、マサ・メル様は、まるで巫女姫時代のように【フィニエル】と私を呼び、すぐに訂正した。【忘れなさい】とだけ言い、その後は下がるようにおっしゃられた』



 ほぼ徹夜でフィニエルの覚え書きを読み終え、サリサは感慨深かった。

 今まで知りえなかったマサ・メル――つまり、サリサの祖父のことが、少しばかりわかったような気がした。

 マサ・メルは、ただの一度もサリサに肉親の愛をもって接した事がなかった。

 それと同時に、フィニエルに対しても、二人きりの時でさえ、心を開く事が無かったらしい。

 もしかしたら、二人は愛しあっているのかも? と、思いたいサリサとしては、少し残念に思った。

 二人だけの時間すら、その日々は、実に重くて暗かっただろう。


 だが、それは最高神官が望んで得ていた日々だとしたら?

 サリサは、心病の時に陥った悪夢を思い出す。


 ――子供さえ生まれなければ、彼女は永久に……私のものだ。


 フィニエルは、本当に子供ができない体質だったのだろうか? それともそうしむけていた?

 今となっては、空想の域を超えない。

 もちろん、マサ・メル本人がこの場にいたとしても、必ず否定するだろう。

 だが、やはり……ふたりは愛しあっていたのだ。

 ……と、思いたい。


 サリサは本を閉じ、引き出しにしまった。

 夜が明ける。

 そろそろ、リュシュが朝の祈りの準備に来る時間。いつもよりもやや遅れて、ノックもせずに、リュシュは飛び込んできた。

「あ、申し訳ございません。ノックもせずに……」

 そそっかしいリュシュは、慌てて再び部屋を出ると、今度はノックをして部屋に入り、最高神官に敬意を示した。

 とても最高神官の仕え人にはふさわしくないリュシュではあるが、サリサのたくらみのためには都合がいい。

「それよりも、巫女姫の様子は?」

「あ、それが……。新しい仕え人の話では、冷静だったようです。別に変わった様子はなかったようですし……」

 一瞬、サリサの顔が真顔になって、リュシュは慌ててつけたした。

「あ、朝もこっそり様子を見てきました! でも、覗き見したら、ちゃんと朝の祈りの準備をしていたし……元気そうでしたよ!」

 そのようなはしたないまねは、リュシュという仕え人でないとやってくれないだろう。

「ありがとう、リュシュ」

 お礼を言われて、リュシュは赤くなった。

 でも……。

 彼女の間者としての能力はここまでだ。

 リュシュはえんやこら……と、踏み台を運んで、サリサに神々しい最高神官の衣装を纏わせる。


 報告は、完璧ではないはずだ。


 フィニエルは、エリザに別れの言葉を残さなかった。エリザが平然としていられるはずがない。

 たった二十五年ほどしか生きていないエリザにとって、メル・ロイとなって見送った者の数は、きわめて少ない。

 心の支えになっていた人の死をやり過ごすほど、成長していないのだ。

 不安に震えていないはずがない。

 窓に目をやっても、そこからはもう巫女姫の母屋は見えない。

 霊山のどこにも、エリザの気配を感じることができない。

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