マール・ヴェールの石段(下り)6


 一人でできなくてもいい。

 二人でできればそれでいい――


 エリザは、自分の中にあった重たい物が溶けてゆくような気がした。

 自分ひとりでがんばろうとした。

 でも、弱虫でがんばりきれなかったのだ。いつも、いつも泣いていた。

 初めて霊山に上がった時。あの辛い日々……。


 支えてくれたのは誰?

 がんばれたのは、誰のため?


 ――もっと、肩の力を抜いてください。


 フィニエルの声が聞こえたような気がする。

 突然、エリザの記憶の中に、この場所で泣いた日のことが浮かびあがってきた。

 ほんのりと甘い蜂蜜飴の味である。

『これは元気になる薬ですよ。私たちは、半分ずつ分けあった。だから……何か辛いことがあったら、お互い半分ずつ分け合いましょう』

 目の前にいる最高神官は、その時……。

 エリザの口に入っていた飴を口移しに奪い取り、カリンと割って、半分だけ返したのだ。やはり、口移しで……。

 額と額がこつんと合わさった。

 その時の甘い口づけを思い出して、エリザは急に体が熱くなってしまった。


 あれは、私を慰めるためだったはず。

 別に、何の意味もなく、ただ……。

 でも。

 ……。

 いいえ、妄想なんかしてはいけない。

 ただ、がんばるのみなのだ。巫女姫という使命を。


 エリザは真っ赤になったまま、妄想を振り切ろうと思いっきり首をふった。

「ダメよ! と、とにかく! 私! がんばらなくちゃ!」

「はぃ?」

 あまりに脈絡のない叫びに、サリサは驚いている。

「あ、あの……い、今のは、今後の決意表明です」

 慌てて弁解する。いや、弁解ではなく本気である。

 そう。甘ったれた根性とは決別して、巫女姫として使命を果たすため。

 最高神官は、にっこり微笑んで、エリザを支えて立ち上がった。

「力になります」

 先ほどまで立てなかったのに、不思議と腰がどうにか立った。

 たった、側に人がいるだけで、エリザは怖がることもなく、階段の向うに広がるムテの地を見つめることができたのだ。


 ――二人でできれば……いいの? そんなことでいいの?。


 疑問に思う。

 でも、エリザはやはり、自分ひとりだと弱すぎて何もできないようだ。

 心の支えになってくれる人がいないと、何もできない。

 本当に弱虫。情けない。


 祠で巻いていた風は、階段の上で下から吹き上げる流れに変わる。

 さすがに地に届く長い髪がすべて持ち上がるほどではないが、サリサの前髪を押さえていた髪留めは、すっかりずれていた。

 風に飛ばされそうに見えて、エリザは慌てて手を伸ばし、それをとった。

 久しぶりに近くで見る美しい顔。まるで、人形師が究極の美を求めて作り上げたような、慎重に切り込まれた瞳。冷たい色をたたえているのに、どこか温かい。

 エリザは思わず見入ってしまう。

 瞳が重なった。


 あの時のように……。


 甘い感覚が蘇って、エリザは思いきり動揺した。

 何を愚かなことを考えているのだろう? この目の前にいる人は、とても遠い存在なのだ。

 甘えてはいけない。心を許したら、また妄想の海に溺れてしまう。

 でも、もう夜に怖くてフィニエルの元にも押しかけられない……。

 じわりと悲しくなってくる。もっと優しくされたいと思ってしまう。

 それは弱虫だからなのだ。

 悲しみも忘れ去るくらいに強く抱きしめられて、とろけてしまうくらいに唇を奪われたいのは。

 急に堰を切ったように記憶がよみがえり、エリザは自分がものすごく弱くなって行くのを感じた。

 おもわず目で訴えてしまったかも知れない。慌てて目を伏せる。


 ――私、強くならなくちゃいけないのに。


 サリサのほうは、エリザの邪な訴えに気がつかなかったのか、ただ微笑んで、受け取った髪留めを前髪に差し、階段を一歩降りただけだった。

「ありがとう。では、一緒に降りましょう」

 そして、エリザの手を引いて、階段を下りるように促した。

 エリザはちょっとだけ躊躇した。

 一人でも強く立派な巫女姫にならなければいけない。この方は最高神官で、私ごときを相手になんかしていない。なのに、風が怖くて。

 恐る恐る聞いてみる。

「あの……」

 最高神官の衣装が風に舞う。銀糸の髪も、すでに髪留めの意味はない。

 でも、エリザにとって、サリサはやはり神々しいまでの最高神官であり、その周りに浮かぶ銀の結界がはっきりと見えていた。

 彼は、真直ぐにエリザを見ている。しっかり掴んだ手は離れない。

 この手を離したら、もうここから降りることはできない。


 ――一人じゃとても強くなれない。


 エリザは認めるしかなかった。

「あの、私ごときが、頼っていいものでしょうか?」

 返事はあっけなく返ってきた。

「頼ってください」




 苔の洞窟にたどり着いた後も、サリサとエリザは久しぶりに話し続けた。

 話題は主にフィニエルのことだった。

 不思議なことに、忘れ去りたいほど悲しい思いをしていたというのに、二人で話すと暗い話ではなく、明るく楽しい思い出話に変わってゆくから不思議だった。

 サリサに対するフィニエルのお仕置き話には、もうしばらくは笑うこともないだろうと思っていたエリザでさえ、声を上げて笑ってしまった。

「そんなに笑わないでください。私にだって、子供だった頃があるのですから」

「だって……。確かにそうですけれど、サリサ様は想像がつかないのですけれど、フィニエルが……、だって、フィニエルがそのままで……!」

 緩んでいる涙腺のせいで、エリザは泣いてしまった。

 でも、泣けてくると……再び悲しみが襲ってくる。

 いつの間にか、涙は悲しみの涙と変わってしまう。


 ――フィニエルが大好きだったのに。


 初めて会った時。

 巫女姫の仕え人として紹介された時。

 エリザのフィニエルに対する第一印象は最悪だったはず。

 それが、これほどまでに大きな存在になっていた。

 フィニエルという名を知った瞬間から、エリザの中で、あまりにも鮮やかに彼女が息づいたのだ。


 どうしてなの? 

 なぜ、人は旅立ってしまうの?


 人前で絶対に泣いてはだめ……そう思っていたのにぽろぽろ涙が止まらない。

 そして……優しい手が欲しくなる。

 その手は、すぐに差し出されるのだ。

 優しく抱きしめて、髪を撫でて、慰めの言葉を耳元で囁いてくれる人。


 どうして人は生きるのか?

 その疑問の答えを求めて……誰もが、いつか必ず旅立つのです。


「必ず誰でも旅立つことは、頭ではわかるんです。でも、私、フィニエルを思い出して辛くなるんです。朝とか……衣装の着替えの時とか……」

 泣き続けるエリザを抱きしめながら、サリサは考えた。

 できるだけ環境を変えないように……と、フィニエルとも付き合いの長い仕え人を任命したけれど、それは間違いだったかもしれない。

 フィニエルを忘れさせるような、まったく別の人のほうがよかったのだ。

 それにはとてもいい人材がいるではないか?

「私も着替えには困っていますよ。リュシュはよくやってくれるのですが、なんせ背が低すぎるのです」


 こうして、わずか一日で巫女姫の仕え人は最高神官の仕え人となり、リュシュは巫女姫の仕え人となった。

 サリサにとっても都合がよかった。

 なぜなら、もう踏み台につまずいて転ぶことがなくなったからだ。




=マール・ヴェールの石段(下り)終わり=

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