マール・ヴェールの石段(上り)

マール・ヴェールの石段(上り)


 風が渡る。

 岩のどこかの隙間に吹き込んだのだろう。笛のような音が響いた。はかなげな音である。

 サリサは、その音にもにた小さなため息を漏らした。

 ここは、彼の隠れ家ともいえるマール・ヴェールの祠だ。最高神官の結界に守られた、ムテの村々を見渡すことのできる崖の途中にある。

 次の風は、かすかに泣き叫ぶような声に変わる。

 この場所でムテのために三十年間祈ってはてたという最高神官マール・ヴェールのために、まるで哀悼をささげているかのように。

 またひとつ、今度はつむじ風となって、サリサの銀の髪を巻き上げる。自らの髪がヴェールのように視界を覆い、この場所からは手に取るように見えるはずのムテの世界がかすんで見え、サリサは顔をしかめた。

 ムテの銀の髪には魔力が宿る。

 力を温存するために、前最高神官マサ・メルに見出されて以来、サリサは髪を一度も切ったことがない。まとわりついた結界の粒子のために、誰もが美しいとため息をもらすが、サリサ本人にとっては邪魔くさいだけだった。

 許された唯一の物――銀製の髪飾りで前髪を留めなおす。その指先はせわしなく動き、髪はうまく留まらない。

 銀のムテ人と呼ばれ、長い時を生きる魔族。その頂点の最高神官の地位にいるサリサだが、今の気分は優れない。それは、風が邪魔だからではない。


 ここで会うべき人に、拒絶されたからだ。


「……あの人は、会いたくないとはっきりと言ったのですね?」

 その声に、祠の崖っぷちすれすれに立つ、やはり銀髪の女が振り返る。

 風に煽られることなく凛とした姿は、本来いるべき人とは雰囲気が違いすぎる。彼女は、主人である巫女姫の名代として、サリサに会いにきているのだ。

「はっきりとは申しておりません。エリザ様は、ただ、お会いしても意味のないことだと、そう言いました」

 巫女姫の仕え人フィニエルは、淡々と告げた。

 サリサが五年もの間、待ち望んでいたことを、エリザは素っ気なく『意味がない』と言い切ってしまう。愛しさを通り越して憎くさえ思う。

「昨夜のこととか……誤解も解かせてはくれないのですか、あの人は」

 苛々と口にすると、仕え人はこう言った。

「誤解などしておりません。エリザ様は、何も覚えてはいらっしゃらないのですから」

 それは、誤解以上にむごい仕打ちである。耐えきれずに、サリサは吐き捨てるように呟いた。

「これ以上……私にどうしろ……というのです?」


 サリサは、フィニエルに『必ず』エリザをマール・ヴェールの祠まで連れてくるようにお願いした。

「それは巫女姫への命令ですか?」

 フィニエルにそう言われて、一瞬「はい」と言いかけて……サリサは口をつぐんだ。

 無理強いしか歩み寄る方法がないとは、何とも虚しい。

 その結果、エリザはサリサを拒絶したのだ。

 憎まれているのかもしれない……。そう思った。

 

「フィニエル、あなたは正しかった。それで、もう満足ですか?」

 これは八つ当たりである。

「最高神官という立場を利用し、私情を挟むから……と、言いたいのでしょう? そう言いなさい。言われても仕方がない。でも、その間違いを償うことくらい、させてくれても良いとは思いませんか?」

 実に情けない言い草である。

 自分の言葉にうんざりして、サリサは口をつぐんだ。これがムテの最高神官なのだから、聞いて呆れる。

 情けない愚痴を、珍しいほどに静かにフィニエルは聞いていた。

 風がサリサ同様にフィニエルの髪を巻き上げ、顔にへばりついたりもしたが、彼女は一向に気にしてはいなかった。

 マール・ヴェールの祠の崖っぷちで、ムテの世界を眺め続けていた。


「ここで……何を祈ったのでしょうか……」

「え?」

 フィニエルの口から出た言葉は、まったく意味不明だった。

「マール・ヴェール様です。彼はここで何を願ったのでしょうか?」

「そんなことは……ムテのために祈った……それぐらいしかわかりません」

 サリサは投げやりに返事をした。

 いきなり、全く関係のない話である。それに、先の最高神官マサ・メルやマール・ヴェールと比べられるのは、正直言って気分が悪い。

 彼らはムテにすべてを尽くした。

 彼らにような立派な最高神官と比較されると、ますます落ち込んでしまう。

「マサ・メル様が、なぜマール・ヴェール様を嫌っていたかご存知ですか?」

「え?」

 再び奇妙な質問。サリサは、再び間の抜けた返事をした。

「知りません。不思議だとは思っていましたが……」


 小さな頃のサリサは、マサ・メルの指導が怖くて、よくここに逃げ込んだ。それを追いかけてこないほどに、前最高神官はマール・ヴェールに関する事をすべて排除していた。

 マサ・メルのようなムテ至上主義の最高神官が、ムテのために命をささげて祈りつくした先の神官を嫌うのは、子供心に不思議だった。

 ムテに渡る風は、祠の岩間に溜まった砂埃を舞い上げ、ひゅるる……と音を立てた。その音に同調するように、かすかな声でフィニエルがつぶやく。

「これは当時の仕え人たちの中で、封じられたお話ですが……」

 当時の仕え人たちは、すでに皆消え果てしまい、伝わる話を知っているのはフィニエルだけだ。禁じられた物語は、いまや彼女の中だけに残されている。

「マール・ヴェール様は、この祠で祈ってはてたのではありません。山を下り、旅立たれてしまったのです」

 凛とした立ち姿のフィニエルだったが、このときばかりは風に揺られて消え入りそうで、声はさらにかき消されそうだった。

「マール様とマサ様は、ほぼ互角の力をお持ちでした。ですが、マサ様のほうが若年だったために、マール様が最高神官になられました」

 そしてマール亡き後は、マサ・メルが後を継いだ。それは、サリサも知っている。

「マール様は、最高神官にはなりたくはなかったのです。山に篭り、祈るだけの毎日なんて、お好きではなかった。マサ・メル様が自分の後を引き受けることができることを知っていて、山くだりしてしまわれたのです」

 信じられない事実。

 三十年間、マール・ヴェールはこの祠にて祈り続け、ムテにすべてを捧げて消えていった。それが広く信じられているマール・ヴェールの伝説である。

 サリサは驚いてフィニエルの顔を見つめた。思わず目が合った。


「誰しもが……大役をはたせたわけではございません」


 

 マール・ヴェールは自分の髪を切り、この祠の奥に置き、身代わりとした。そしてあたかも苦行を装い、祈り続けているふりをしていたのだ。

 彼はこっそりと山を降り、自由の身となった。

「それでも彼は三十年間、髪に魔力を注ぎ込み、ムテを守り続けたのです。おそらく、彼の寿命の大半は費やされたことでしょうが、それでも自由がほしかったのですね」

「三十年でマール様は亡くなられたのですか?」

 最高神官であれば、少なくてもあと百年は生きることができたはずだ。いや、霊山にいれば三百年の寿命を温存できたであろう。力が強ければ、まださらに――。

「マール・ヴェール様がどうなったのかは、今は誰もわからないのです。なぜなら、とある嵐の夜に風で髪が飛んで失われてしまい、マール様の力が潰えたのか、祈りが届かなくなったからなのか、知る由もないのです」

 しかし、その瞬間、マサ・メルが最高神官という重たい地位を、完全に引き継いだ事実は変わらない。

 そして、マサ・メルもすでに過去の人となった。

「それは……自由であれ……というたとえですか? 今になってそのような秘密を打ち明けるとは」

 サリサは苦々しくつぶやいた。

 マサ・メルのごとき最高神官であれ……と、願い続けたのは他ならぬフィニエルたち仕え人だ。そして、ムテの人々である。

 今更、自由になった最高神官の話など聞いても何もならない。

 そんないい加減が許されるならば、サリサだってこの地位を捨て、エリザとともに霊山を去っただろう。

 自由である道が選べるのであれば……。


 ――いや。

 おそらく去らない。


 サリサはマール・ヴェールとは違う。後を継ぐ者を残していないし、後に残された者の苦しみを知っている。

 何もかもが中途半端だ。

 責任を捨てることもできず、愛を貫くこともできないのだから。

 マール・ヴェールのようにも、マサ・メルのようにもなれない。


「確かに今更です。なぜでしょうね? 急に語りたくなったのです。この話は、マサ・メル様が封印なされた。あの方に仕えていた者すべてが時を終え、消えてしまえば、永久に封印されるはずでした。でも、急に……忘れ去られてはいけないと、禁じられたままではいけないと思ったのです」

 そう言うとフィニエルは百年ぶりに血が通ったような不思議な表情を見せた。微笑んだような、いや、寂しそうな。

「いろいろ疲れてしまいました。サリサ様が、どのようなことを思ってどのように生きるかなど、どうでもいいような気がしてきたのです。少なくても、マサ・メル様は幸せそうではありませんでしたから」


 フィニエルに漂う気が、はるかにいつもより薄く感じた。

 なぜ、おじいさまが幸せではないと思うのですか? と聞きかけて、サリサは口をつぐんだ。

 サリサ自身にも、マサ・メルが一個人であった記憶がない。

 もっとも近しい立場にあったフィニエルにとってもそうならば、まさにマサ・メルは最高神官以外の何者でもなかった。


 ――もしも、今……。


 マサ・メル様が生きていたとしたら、聞いてみたい。

 どうしたら、幸せを望まず生きていけるのか?

 どうして、孤高な最高神官を全うできたのか?

 どうすれば、この苦しみから逃れられるのか……。


 この地を、そして血を守ることを使命にせよ――そう言われ続けて長い時が過ぎた。その使命は、すでにサリサの身に染み付いている。

 重い責任は持ちたくはないが、持った責任を捨ててしまって、幸せになれるとは思えない。

 サリサは、ふっと風の向うを見つめた。

 では……。

 立ち去ったマール・ヴェールは、幸せだったのだろうか?

 彼は、どのような生き方をしたのだろうか?

 もしかしたら――長命のムテの血をひくマール・ヴェールは、どこかで生きているのかもしれない。

 そんな気がした。


 ――どうすればいいのか?


「私が幸せになりたいといったら……それは、わがままですか?」

 あいまいな質問には、簡潔な答えが返ってくる。

「サリサ様が、お決めになればいことです」

 フィニエルは微笑んだ。

 そして彼女は風を見つめながら、付け足した。

「誰しも、自分の生き方を選ぶことができるのですから」


 巫女姫の仕え人フィニエルが時を終えたのは、それからわずか数日のことである。




=マール・ヴェールの石段(上り)終わり=

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