忘れたい夜
忘れたい夜・1
――今夜こそはきっかけを掴もう。
エリザが霊山に戻ってから三ヶ月がたとうとしているのに、サリサは一度もエリザと口をきけないでいる。もう、サリサは我慢の限界に達していた。
今朝、医師の者が「今夜」と告げた。サリサは、今夜こそエリザと会話を成立させようと思っている。
だが……。
「サリサ様、先月も同じことを言っていましたけれど?」
最高神官の仕え人リュシュは、ため息まじりで昼の行用の衣装をサリサに着せつけていた。
「う? そうでしたか?」
「そうですよ!」
即答だった。
確かに先月も挫折している。
努力の甲斐なくエリザに無視されて、何もできずに戻ってきてしまったのだ。ぐったり落ち込んで、部屋に戻ってきてからリュシュが作ってくれた焼き菓子をやけ食いした。
エリザが祈り所に籠る以前から、リュシュはサリサとエリザの仲を応援していた。だから、つい甘えて色々愚痴ってしまった。
おかげでリュシュには最高神官らしからぬ弱みを押さえられたような気がする。
「はっきり言って、サリサ様は押しが弱いんです。エリザ様になんて、気を遣う必要ないですよ! だいたいあんな態度、失礼にもほどがあります! がつんと殴って言うことをきかせるくらいのこと、してもいいと思います!」
リュシュはサリサの肩に衣装を羽織らせるかわりに、拳で空を打った。先月のことを思い出して、少し興奮している。
昼の行の準備はサリサが最高神官になってから日常のことではあるが、リュシュが仕え人になってからは、少しだけ様相が違う。
お菓子作りは名人のリュシュだが、なんせ仕え人らしからぬそそっかしさだし、何よりもムテにしては背が低すぎる。長身のサリサに衣装を着せるためには、何と踏み台が必要だった。
だいたいリュシュの口調は、最高神官に対する口のきき方ではない。そのようなことを気にしないサリサではあるが、エリザのことになると話は変わってくる。
ちろりと睨むと、リュシュは「わーっつ!」と叫び、よろけて踏み台から足を滑らせてしまった。
さすがに尊き人に向かって調子に乗りすぎたと思ったのだろう。
「し、し、失礼いたしました」
重たい衣装の下敷きになり、リュシュは慌てていた。起き上がろうとして、衣装の裾を踏み、再び転ぶ。更に悪いことに……。
びりり、と音がした。
リュシュの顔から、まるで他の仕え人たちのように色がなくなった。
「あ、あの……サリサ様」
白い衣装からゆっくりと足を上げながら、リュシュは言った。
「私、仕え人失格でしょうか?」
これは、リュシュの口癖である。
リュシュのいいところは、手先が器用なことである。
ちくちくちく……と応急処置で縫ってくれたおかげで、誰も衣装のほころびに気がつくことなく、昼の行に向かうことができた。
ただし、サリサはいつものようにおさぼりの昼寝をするのだが。
マール・ヴェールの祠を通り、苔の洞窟まで降りてゆく。
ムテの風景を見ながら石段を下る。ふと、エリザと二人で何度も上り下りし、この風景を見たのだ……と思い出す。何とも切ないことだ。
ヴェールを通したような光が、洞窟内部を照らし出していた。サリサはいつものように岩の上に寝転がり、暗示をかけて眠った。
――万が一、エリザがやってきたら、どのような深い眠りからも覚めるように。
だが、残念ながらかすかに入ってきた隙間風以外、サリサの髪に触れるものはいなかった。
目覚めたあとも、サリサはすぐに起きることなく、ぼうっと天井を見つめていた。
この洞窟の岩は水晶や石英を多く含んでいる。深い洞窟でありながら、薄明るいのは、天井や壁に水晶の自然の窓があり、柔らかな光を拡散しながら洞窟に引き込んでいるからなのだ。更に洞窟の岩壁が光を反射させ、洞窟全体を明るくしている。
その優しい光のおかげで、ここには竜花香などの貴重な薬草や香り苔、白小花などが咲く。
寒すぎず、暑すぎず、明るすぎず、暗すぎず。だから、居心地がいい。
それに、ここはエリザとの思い出がたくさん詰まっている。
エリザがもう一度この場所に来てくれたとしたら、きっと忘れていたことを思い出してくれるに違いない。
でも、彼女はけしてここにはこない。闇を恐れているのだ。
「こんなに明るいんですけれどね……」
一人つぶやいて、サリサははっとした。
いい方法を思いついた。
これなら、きっとエリザも過去のことを思い出してくれるに違いない。
サリサは戻るとすぐ、仕え人たちに命令した。
昼用の聖装を新しく仕立てるのか……と思いきや、リュシュはシーツなどの白い生地を繋ぎ合わせる作業に追われた。
薬草の仕え人が山ほどの香り苔を運んでくる。癒しの者は、花をたくさん持ってきた。蝋燭も大量に用意された。
それらはすべて八角の部屋に持ち込まれた。
「いったい何事?」
その様子を険しい顔をして見ていたのは、元巫女姫のサラである。目の前を、リュシュが真っ白の布を抱えてよろよろと通り過ぎた。
「よくわかりませんが……。最高神官の命令らしいですわ」
サラの仕え人――かつての唱和の者――が、やはり疑わしげに口にした。
それを影で聞いていたのは医師である。何やら悪寒がして、彼はざわりと震えた。
だいたい今回の最高神官の計画は、医師の者としては賛同できかねるものだった。
サラの気持ちを考えると、ますます気が乗らない。女同士のいざこざの末、昨年は巫女姫が流産するという事態が起きている。
医師としては、あまり火種になるような特別なことは避けてもらいたいところである。
「あぁ、心配です」
医師は呟いた。
「私も心配です」
突然の声は、医師の独り言を影で聞いていたフィニエルだった。医師は驚いて跳ね上がった。
マサ・メル至上主義の仕え人である彼女にとっても、この事態は許せないのだろう……と思いきや。
「今のエリザ様の状態は悪すぎます。この努力が無駄にならなければいいのですが」
厳しい顔のまま、フィニエルは言った。
エリザが怖がる闇を追い払ってしまう。
それがサリサの考えた方法だった。
貴重な夜を、もう無駄にはできない。
黒壁に白い布を貼らせ、しかも灯りをいつもの十倍にする。
闇の代わりに花、そして香り。どれも二人の思い出に繋がるものを集めた。
まるでこの部屋が、あの苔の洞窟になったかのように。
「だいたい闇こそが生命誕生の場所ですよ。それをこんなに明るくしていては……」
医師の言葉をサリサは無視した。
もとより、エリザと結ばれることがなければ、闇の中であっても生命が誕生するはずがない。
今までの夜、抱きしめてみたり、口づけしてみたり、話しかけてみたり、色々試したが、エリザの心は戻ってこなかった。
その状態では、サリサは何もできなくなってしまう。結ばれたときの喜びを知っているからこそ、辛すぎて身も心も萎えてしまうのだ。
とてもリュシュの言うようにがつんと殴って……などと、過激なことができないサリサであった。
祈り所の日々も霊山の日々も、エリザにとっては忘れたいことなのだろう。だが、嫌なことばかりではなかったはずだ。
わずかとはいえ、二人で楽しく時間を過ごした日々もあった。
それさえ思い出してもらえれば、きっと上手くいく。
サリサはその希望にすべてを託した。
どうにか夜までに準備が整った。
白布をできるだけ高いところまで貼ろうとして、リュシュが台座から転げ落ち、こぶを作ったというおまけがついたが、八角の部屋は見違えるようになった。
作業に担ぎだされた仕え人の中には機嫌が悪い者もいるようだ。再びマサ・メルと比べられて、とやかく言われるかも知れない。
だが、今の状況をずっと続けるよりも遥かにましである。
サリサは部屋の中を自ら点検し、一安心して湯浴みに向かった。
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