遺言・5


 結局、一睡もしなかった。

 でも、どうにか時間があるうちにすべて書き終えた。

 先に書き終えた覚え書きのほうは、誰にも見せるつもりなく書いたものだが、サリサ様に残していこうと思う。

 そして、こちらの回想録のほうは……。


 窓の向うは白んでいる。

 そろそろ、巫女姫を起こして、朝の祈りの準備をしなくてはならない。

 私のベッドの中で眠っているエリザ様は……やはりかわいい方だ。サリサ様が、どうしても離したくない理由もよくわかる。

 だが、この方の中にあった甘ったるい恋は、ムテの巫女制度の前にあえなく砕け散ってしまった。

 ムテが考える幸せは、ひとつ心を分け合うような人と巡り会って、長い時間をともに平穏に生きてゆくこと。

 その生き方は、最高神官をはじめ、霊山にいる者が捨て去ったものだ。

 エリザ様にとって、サリサ様のことなど忘れたまま、お子をなして山を下り、癒しの巫女として郷に戻れば、一番幸せなことだと思う。

 霊山に繋ぎ止めておくのはよくない。

 下手に恋愛感情を刺激して、再び別れの悲しみを経験させるのも、一途なエリザ様には酷なことだ。

 だが、自分の気持ちを見つめなおしてほしいとは思う。


 心残りがないように……。


 何が幸せというのかは、人それぞれに違うもの。

 サリサ様は……。

『私が幸せになりたいといったら……それは、わがままですか?』

 などとおっしゃったが。

 あの方だって、何が幸せなのか……よく考えれば、そのうち選ぶべき道が見えてくることだろう。

 少なくても、私は、あの方が霊山を捨てて幸せになれるとは思っていない。

 おそらくマール・ヴェール様も、さぞや居心地の悪い人生を送られたことだと思う。


 運命から逃げて幸せになる者は希有な存在だ。

 戦って勝ち残った者が、常に幸せになるとも限らないが。



 おそらく、今朝がエリザ様のお世話をする最後になるに違いない。

「エリザ様、祈りの準備の時間です」

 私は、軽く揺り起こす。

「あぁ、フィニエル……。もう朝なの?」

 エリザ様は目をこすった。まだ、緊張を身に着けない、素のままのエリザ様だ。

 一番、彼女らしい。

 だが、少しずつ、巫女姫の衣装を着てゆくように、彼女は重荷を身につけてゆく。

 それを手伝うのが……私の仕事。


 いつまでも、この方を見守りたいと思うのだが。

 せめて、お二人の行く末を見てから、と思っていたのだが。

 到底叶わぬことだろう。




 エリザ様の読書時間を利用して、私は苔の洞窟に向かった。

 春が過ぎ、夏が近づくこの頃でも、洞窟の中は暑くも寒くもなく、心地がよかった。

 最高神官の昼寝の邪魔をするのは、大変心苦しいことだったが、私には時間がなかった。

 どうせ散るならば、少しでもマサ・メル様の側で散りたいと思う。

 マサ・メル様が散った場所は、最高神官の祠にある瞑想の小部屋であり、あの短剣を返してもらった場所でもある。そこに足を踏み入れることができるのは、今は最高神官サリサ・メル様だけである。


「サリサ様、お休みのところ申し訳ありませんが、お願いがございます」

 サリサ様はゆっくりと身を起こした。

 私の顔を見て落胆が浮かんだ。私は、どうやら期待していた人とは違うらしい。

 サリサ様が、かすかな希望を持ってこの時間を過ごしていることは、私には痛いほどわかる。私に落胆するとは憎たらしいが、許す。

 サリサ様にとって、エリザ様がどれだけ心の支えになっているのか、よくわかるからだ。

 何せ、サリサ様はお子様だし、元々、大きな使命とか責任とかが大の苦手。エリザ様がいたからこそ、彼はここまでやってこられたのだ。

「最高神官の秘所から旅立ちたいのです」

 全くさりげなく、私は言った。

 サリサ様はさほど驚くこともなく、別の諦めにもにた顔でうなずいた。

 元々、私の寿命が尽きて久しい。

 霊山にいることで維持していた最後の残り火も、そろそろ尽きるだろう……ということは、サリサ様にも充分にわかっていたのだろう。

 サリサ様は岩の上から体を起こし、乱れた銀の髪に指を通して整え、銀の髪留めを直そうとして……ふと、手を止めた。

「エリザには……告げたのですか?」

 サリサ様は、一番気に止めていることを聞いてきた。

 私は、微笑みながら首を振った。

「エリザ様との別れは、涙で締めくくりたくありませんから」

 

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