忘れない夜・2
八角の部屋は、今回は何の工夫もしていなかった。だが、かすかに香り苔の匂いが漂っていた。
エリザはうつむいていたが、その手には新しく自分で作ったらしい香り袋が握られていた。それが、香りの原因だったのだ。
サリサはほっとして、燭台を置き、エリザの横に座った。
「あ、あ、あの……サリサ様」
緊張するとどもってしまうところも、昔のエリザのまま。
思い切ってあげた顔。サリサを見つめる目はキラキラとしている。
それでもサリサは、まだ不安だった。
ほんの些細なきっかけで、再びエリザが消えてしまうのではないか? などと思えてしまう。
だが、エリザの言葉は、どもりつつもはっきりとしていた。
「あ、あの……私、祈り所の人にも言われていたのですが……時々、色々なことを忘れるように、自分自身で暗示を掛けちゃうことがあるようなのです。それで、今までサリサ様にとても失礼なことをしていたのでは……と、思えてきて……申し訳ありません」
ぺこり……と頭を下げる仕草が、何とも愛らしい。
すぐに抱きしめたい気持ちと、失われそうな不安が、サリサの中で行ったり来たりを繰り返した。
でも、エリザが自分で暗示を掛けてしまったことを自覚したとしたら……。
今まで二人で過ごした恋人の時を、いつか思い出してもらえるかも知れない。
愛し合っていると思えたあの日々を取り戻せるかも知れない。
サリサは、思い切ってエリザの髪に手を触れた。
そこで、また消えてしまったらどうしよう? と、びくついて、手が震えてしまう。だが、もっと震えているのはエリザの方だった。
「それで? 何か思い出せたのですか?」
「はい……思い出したのですが……」
薄暗い中なのに、エリザが真っ赤になってしまったことがわかった。髪越しなのに、どれだけ熱く鼓動が激しくなっているのかも。
エリザの様子を見ている限り、サリサの不安は取り越し苦労のようだ。
どうやら、サリサのほうがエリザよりも若干ゆとりがあるらしい。
サリサは、思い出せるだけのことを思い出しながら、微笑んで聞いてみた。
「何を思い出したのですか?」
エリザが真っ先に思い出したのは、初めての出会いだろうか?
それとも、マール・ヴェールの祠でのこと?
それとも……。
初めて心から結ばれたと思えた夜のことだろうか……?
まるで初めて秘密を打ち明けられるような、不思議な期待感。
エリザは覚悟が決まったらしい。
突然、うんっと大きくうなずき、ふうっと大きな息をすった。
そして、いきなり……。
「サリサ様! 失礼いたします!」
「はい?」
まったくの不意打ちだった。
急に勢いよく飛びかかってきて、サリサに体を預けてしまったのだ。
「うわっ!」
と、最高神官らしからぬ声をあげ、サリサは押し倒されてしまった。
全身にのしかかる柔らかな感覚。甘い香り。
そして……蜂蜜飴のように甘い口づけ。
それは、とても遠慮がちだったが、エリザのほうからとなれば、サリサを動揺させるには充分だった。
うるんだ瞳があまりに近くにある。
驚きのあまり、なされるがままにされていたサリサだったが……。
「ご、ご、ごめんなさい! わ、私ったら!」
サリサが困惑していると感じたのか、エリザはいきなり飛び起きて、さささ……と身を引いてしまった。
何事? と、体を起こすと、エリザのほうは泣きそうな顔をしている。
「あの、あの、やっぱり私、何か間違っているんですよね?」
行動を起こしたエリザのほうが、今度は動揺している。
「何が? です?」
「ですから、あの……。サリサ様に言われたことを……」
「私が? 何か言いましたか?」
エリザと言葉を交わす機会など、今もかつても多かったわけではない。
何やら嫌な予感がする。
案の定、エリザは頬を染めたまま、小声になっていった。
「わ、私。思い出したのですけれど……」
サリサも思い出して……青くなった。
――たとえば……あなたから口づけしてくれたらどうですか?
どうやら、エリザはサリサが忘れてしまいたくてたまらないことを、思い出してくれたらしい。
確かにあの時、エリザは自分に戻っていた。あまりにも動転してしまったので、彼女はそれを忘れ去りたいと願い、そうなった。
しかし、自分で自分に暗示を掛けていると気がついて、思い出してしまったのだ。
最近あった出来事から記憶が蘇るのは、考えてみれば当然のことではある。
だが、どうして、よりによってあの夜を思い出してくれるのだろう?
一生思い出して欲しくなかった。
あまりに恥ずかしい情けない夜だったのに。
サリサのほうが、できたら忘れ去ってなかったことにしたい夜なのに。
ところが。
「私、どうしたらいいのかわからなくなっちゃって……。でも、確かにサリサ様の言うとおり、私って卑怯だったと思うんです」
あっけにとられているサリサに、エリザは熱弁をふるった。
「あ、あの! ただ黙って待っていれば、それでいいというわけではないですよね? 私からがんばらなければいけないことってありますよね? でも……思い浮かんだことが恥ずかしいし……。でも……あの、そうして欲しいときはちゃんと意思表示しなくちゃ……って。でも、やっぱり私、そんなこと思うなんて変ですよね。ごめんなさい!」
リュシュの報告を思い出した。
エリザが、青くなったり赤くなったりしてしたのは、そのせいだったのだ。
彼女なりに、最高神官たるサリサの言葉を理解しようとがんばったのだろう。
大真面目な弁解を聞いているうちに、サリサは笑えてきてしまった。
「つまり、あなたはそうして欲しかったのですね?」
「!!! ………!!!」
エリザの口は、ぱくぱくするだけで音が出なくなった。
そのかわり、ぴーっと音を立てて顔がますます真っ赤になってしまった。
――あれだけくよくよと悩んでしまったのは、一体何だったのだろう?
より繊細だったのはサリサのほうらしい。
エリザときたら、サリサが思っている以上に強くて前向きなのだ。忘れられない最悪の夜を、簡単に乗り越えてしまうのだから。
弱虫なのか、強いのか? 本当によくわからない。
守ってあげたいのだけれど、守ってもらっているような気もする。
だから……。
一緒にいると、ほっとする。
クスクスと笑い出してしまったサリサの横で、エリザのほうはますます焦ってしまっているようだ。
やっと出てきた声も、やはり謝る言葉だった。
「あ、あの、ごめんなさい! 私、やっぱり変なんですね?」
「いいえ、別におかしくは……」
と言いつつ、涙が出てくるほど笑えてくる。いや、本当に泣けてきた。
思わずぎゅっと抱きしめて、エリザの肩で涙を拭いてしまった。
再び会えて……本当によかった。
本当に……大好きだ。
感無量のサリサだったが、エリザのほうは戸惑ってばかりである。
「あ、あの……やっぱり、私って……」
「ええ、とてもおかしい人です。でも、私はあなたのそういうところが好きなんです」
エリザがその言葉の意味を深く考える暇を、サリサは与えなかった。
強く抱きしめたまま、その身を横たえた……が、身を入れ替えて上下逆になる。
そして、極上の笑顔を見せて頼んでみた。
「お願いですから……もう一度、口づけしてください」
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