遺言・4


 私は、マサ・メル様は心を持たぬ方だと、ずっと思い続けてきた。

 だが、最近になって、あの方に心を許さなかったのは、私のほうではなかったのか? などと思い始めている。

 ご自分に厳しかったあの方は、感情というものをすべて捨て去っていた。だが、生きている者に感情がない者はいるだろうか?

 あの方は、ただ、自分のするべきことに真直ぐ向かいあうために、一番楽な道をお選びになったのだ。

 何も感じなければ、何も悩まされることもないだろう。

 心がなければ、心病になどならない。

 もしかしたら、それだけ繊細な方だったのでは? などと、今更ながら思うのだ。


 心がなかったわけではない。

 心を深く閉ざしていただけかもしれない。



+++ 


 ついに私も老齢に達し、月病が途絶えてしまった。

 霊山を下っても、女ではない女を娶るものはいないだろう。私の人生は、霊山で尽きたようなものだった。

 ただ、まだまだ寿命はある。癒しの巫女として、霊山を降りた後も生きがいはあるだろうし、すべてが終わったわけではない。新しい生き方がある……と、私は信じた。

 マサ・メル様としては大変珍しいことであったが、私は山下りする前日に、最高神官の秘所と呼ばれる場所に呼ばれた。返却したいものがあるということだったが、私には何なのか、全くわからなかった。

 仕え人に付き添われ、階段口までいったが、その後は一人で降りていった。妙に響く自分の足音が、心臓の鼓動と一致して、とても不安に感じたことを、今でも私ははっきりと覚えている。


 マサ・メル様が瞑想に使うという小部屋で、私はあの方と真直ぐに向き合った。

 あの方は、何も言わずにじっと私を見つめていたが、やがて懐の下から小さな短剣を取り出した。

 それは、けして立派なものではない。むしろ、安物であり、一の村の金物屋で普通に売っているもの。元々、私の物だった。

 私は、六十年も前の初めての夜のことを、忘れたくてたまらない嫌な夜を、昨日のようにはっきりと思い出した。

 鞘から抜かれた刃は、手入れを怠らなかったのか、実に美しかった。その刀身に映ったマサ・メル様の表情は、やや面が歪んでいるのか悲痛にすら見えた。

 実像は、冷たい瞳のまま。しばらくその刃を見つめていたが、やがて再び鞘に収めた。

「これで私とあなたの縁も切れました」

 そういうと、マサ・メル様は私の手に短剣を戻し……。


 その瞬間に何を思ったのか、よく覚えていない。

 いや、自分の中にどのような感情が生まれたのか、全くわからないのだ。何も考えることができなくなってしまった。


 誰よりも長くこの方の側にいた私だが、実は少しも近くにはいなかった。 

 気が付けば、この方の前では二度と泣くまいと思っていたのに、ぽろぽろと涙がこぼれてしまった。

 マサ様は、少し驚かれたようだった。

 もしかしたら、私が喜び勇んで短剣を受け取ると思われていたのかもしれない。

「遅すぎましたか……」

 と、短く言葉を付け足した。

 それでも私はその場から離れなかった。どうしてかは、わからなかった。

 マサ・メル様は私に歩み寄ると、冷たい手で私の髪に触れ、そして唇で涙をふき取ってくださった。


 これが、巫女姫としての私とマサ・メル様の別れである。


 結局、私はその後、たった一年間『癒しの巫女』として一の村にいただだけで、霊山に仕え人として戻ってきた。

 マサ・メル様は短剣を返してくださったが、霊山に対する呪縛は、短剣ごときでは切り落とすことができなかったのだと思う。

 それ以後、長きに渡って、常に私はマサ・メル様の仕え人としてお側に置いてもらった。

 巫女姫時代よりも充実していたといえる。朝から晩まで、常に側にいて、湯浴みを手伝い、着替えを手伝い、食事を運び……そして、時に私の意見を尊重してくれることすらあったのだから。


 私は、私とマサ・メル様との間に、どのような名前も与えることができない。


 私も、あの方も、世を捨てて奉仕する身である。実に淡々とした関係であった。

 自分の生きてきた道をかなり厳しい道だとは思うが、けして後悔はしていない。

 あの方に最後まで従ってムテのために生きてきたことは誇りであるし、幸せだったと思うのだ。

 ただ、ひとつだけ心残りなのは……。

 マサ・メル様は、常にたった一人で、幸せであったことがない……ということだ。あの方の孤独を、私は常に身近に感じ、自分のものとしていたのだが。

 私には歩み寄る術がなかった。

 いや、あったのかもしれないが……。


 一度も試したことがない。

 それだけが……心残りだった。

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