マール・ヴェールの石段(下り)5


 引き寄せて……抱きしめた。

 何一つ、崖下に落とさないよう……強く。


 かすかに一度だけ、エリザの手がサリサの服を握り締めた。

 でも、すぐにその手は緩められ、サリサの胸を押し返すようにして、体を離す。

「申し訳ございません。ただ……少し、動揺しただけなのです。まさか、私の仕え人が突然旅立つとは思ってもいませんでしたので……」

 蒼白な顔で目をそらされてしまう。

 フィニエルの名すら出さないとは。それほどまでに気持ちは遠い。

 でも、何も言えない。何か言えば、エリザはさらに遠くに行ってしまいそうだった。

 エリザの顔に、いかにも無理した微笑みが浮かんだ。

「もう大丈夫です。新しい方も来ましたし……。巫女姫として、今後も責務を果たせるよう励まさせていただきます」

 サリサが言葉を失っているうちに、エリザは完全にサリサの手を離れた。そして、洞窟に向かう石段のほうへと歩き出した。

 このまま、彼女を帰してしまったら、もう二度と帰ってこない。

「エリザ!」

 サリサは慌てて呼び止めた。エリザは一瞬立ち止まる。

 サリサは、一息置いた。

 言葉を間違えたら、彼女はもう戻ってこない。この前の夜のような失敗はできない。

「思い出してみてください。あなたは、どうしてここに上ってきたのか……わかりますか?」


 ――何か辛いことがあったら、お互い半分ずつ分け合いましょう。


 かつて、サリサがそう言ったからだ。

 最後の蜂蜜飴を二人で分け合って、そう約束したからだ。

 エリザは、そのことをどこかで覚えている。だから、フィニエルがいなくなって悲しくなり、ここに来た。そうとしか思えない。

 サリサを頼ってここに来た。

 それを思い出してくれたなら、二人はあの時の二人に戻れるはず――


 だが、エリザは振り向くと、何か諦めにも似た表情をしてみせた。

 質問の意味を、彼女は見事に取り違えた。

「私ごときが、なぜ、霊山に上がったのかはわかりませんわ。でも……上がったからには、やり遂げてみせます」

 エリザから漏れた言葉は、サリサを絶望に追い込むほどの、憎しみにも似た悲壮な決意だった。


 それは――サリサがわがままで選んだからだ。

 側にいて欲しいと願ったからだ。

 だが、その願いはエリザを苦しめるだけ苦しめて、もう後戻りできないところまで来てしまった。


 背負ってしまった使命をやり遂げて、すべてを忘れてやり直したい。

 新しい自分として生まれ変わり、なくしたものを取り返したい。


 それが、壮絶なまでのエリザの望み。

 すとん……とサリサは納得してしまった。

 もう二度と……エリザと心を通わせることはないだろう。いや、最初から、すべてすれ違っていて、交わったこともないのかもしれない。


 どこかが初めからずれていたのだ。

 エリザが愛していたサリサは、本当のサリサではなかった。

 エリザが愛しているのは、完璧な最高神官だった。

 そして、サリサ自身も、自分をさらけ出して嫌われることを恐れていたのだ。常に立派な最高神官としての、きれいごとの自分しか見せてこなかったではないか?

 この恋は、最初から絵空事のようにきれいな作り話の恋愛だったのかも知れない。夢物語だったのかも知れない。


 でも、それでも、やり直したいと思う。

 苦しいくらいに、一緒にいたい。失いたくない。

 せめて、許された時間だけでも側にいて欲しい。

 マール・ヴェールの祠に吹く風が渦巻いて、サリサの髪を口元に張り付かせてしまい、言葉もなくなる。 


 ――あなたを望むのは、わがままですか? 


 わがままですよ……と、風が鳴った。

 どうせ別れがくるならば、気持ちを伝えてどうするのだ? そう風が鳴る。

 何もいえなくなったサリサに、後姿だけを見せて、エリザは去っていく。

 一歩。また一歩。

 急な石段を降りて、その姿はすぐに見えなくなる……。

 はずだった。


 ……が。


「きゃああああ!」

 突然、エリザが甲高い悲鳴を上げた。

 絶望に打ちひしがれていたサリサの耳に、それはざっくり突き刺さり、一瞬何が起きたのかさっぱりわからなくなった。

 エリザの体が、へなへなとその場に崩れていくのが見えた。

「どうしたのです?」

 慌てて駆け寄り、起こそうと手を貸したが、すっかり腰が抜けているらしく、エリザは立てなかった。

「な、何? 何なの? ここは!」

 エリザの手は、サリサが伸ばした手にすがりつつ、立ち上がろうとしたがだめだった。

 サリサはその場に座りこみ、エリザの手が服を掴むがままにして、目の前にあるものを見据えたが、石段以外は何もなかった。


 マール・ヴェールの祠に続く石段は急である。

 これが階段か? と思えるほどである。

 以前、エリザは上りの時でさえ、目を回したものだ。

 下りは上りよりも恐怖心が伴う。どうやら、必死に強がっていたエリザだが、この階段の恐ろしさには堪えられなかったらしい。

 喜んではいけない場面だが、その事実にサリサは喜んだ。

 そして、心の中で叫んでいた。


 ――マール・ヴェール様、ありがとう!


「なぜ? どうやって、私、ここまで来たの? こんなところ、本当に登ってきたの? 絶対に降りられない! 私にはできない!」

 立ち上がることができないと知って、堰を切ったように、エリザは号泣した。

「私にはできない! 何もできない! フィニエルがいないと……」

 サリサの服にすがりついたまま、エリザは震えた。

 がんばろうとしていた矢先に、心の支えにしていた人が去っていったのだ。でも、巫女姫として気を張っていたエリザには、悲しみに沈む自由もなかった。

 今日は、耐え難い日だったに違いない。

 エリザを包み込むようにして抱きながら、サリサは少しだけ胸を痛めていた。すべての悪の根源は、やはり自分にある。本来、エリザが負う必要のない重荷だ。

 でも、同時にほっとしていた。その償いすらできないと思っていたが、どうやら、道は開けたと思う。


 まだ、必要とされているのだ。

 まだ、この人を守ることができる。


「あなたにはできますよ……。私が選んだ人ですから」

 サリサがどれだけほっとして抱きしめているのか、エリザにはわからないに違いない。

「……至らない巫女です。一人じゃ何もできないなんて、恥ずかしいです」

 階段が怖いせいか、張り詰めた糸が切れてしまったせいか、エリザは震えて泣き続けていた。

 その時間が、サリサにとっては至福の時間となった。

 エリザが苦しんでいるのを喜ぶなんて、本当にどうしようもない……と思いながらも、久しぶりに抱きしめる感覚にうっとりしている自分がいる。

 それでも、しばらくするとエリザは落ち着いた。どうにか自分を保とうと必死になっているに違いない。

 サリサの胸から頭を上げて、恥ずかしそうに謝った。

「ごめんなさい。このような弱音を吐くなんて」

「弱くてよかった……」

 思わず声に出してしまった言葉に、エリザは気がついたらしい。

「え……?」

「え?」

 赤面しそうになるのを必死に堪えて、サリサは言った。

「思い出してください。あなたは、前にもこのマール・ヴェールの祠に来たことがあります。それも、何回も……」

 エリザが不思議そうに顔を上げた。

「私が? この階段を?」

「何度も上り下りしましたよ。私と一緒にですけれども」

 覚えていない……という顔。

 でも、思い出そうとする意思が見え隠れする瞳。

 やっと、エリザはサリサをまともに見るようになってくれたのだ。


「一人で何もできなくても、二人でできればいいのですから」

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