忘れたい夜・2


 先月と同じである。

 医師から「今夜」と告げられた時、フィニエルはお辞儀しながらも、ちらりと隣の巫女姫の顔を見ていた。

 エリザの顔は、あっという間に蒼白になっていた。


 霊山に戻ってきてからというもの、フィニエルが感心してしまうほど、エリザは巫女姫としての責務をこなしていた。

 あれほど苦手としていた祈りも朝夕完璧にこなしているし、薬草収集も誰もが驚く量を集めてくる。霊山の財源ともなる薬の調合も素晴しい腕前だ。

 母屋の主人としての貫禄はないが、子育て中で霊山に残っているサラがのさばっているので、仕方がないことである。

 暇な時間があれば、図書の間から本を持ち出し、よく読んでいる。勉強熱心というか、霊山の知識は残らず頭に入れて帰るのだ、という執念すら感じる。

 かつてのふんわりした感じよりも、少し気負ってぴりぴりしているようだが、それでも時々あどけなく微笑んだりする。

 フィニエルから見ると、エリザは充分に及第点の巫女姫ぶりだ。

 だが、一番肝心なこと――最高神官の子供を生む――については、何か気負いを通り越して、病のようにすら感じるのだ。

 確かに神官の子供を生むことは、歴代巫女にとってかなりの重圧であった。

 六十年間も勤め上げながら、ついに子を生すことができなかったフィニエルにとって、その重荷はよくわかる。

 だが、どうしてエリザがそこまで思い込むのか、理解に苦しむ。


 ――子供ができなかったから、至らない。


 エリザは、その一点張りなのだ。

 たったそれだけで、エリザの巫女姫としての自己評価は最低なのである。



 湯浴みの最中も、エリザはブツブツ何かを自分に言い聞かせている。背を洗う時に体を近づけて、フィニエルはその言葉を聞いた。

「今夜こそ。今夜こそ。今夜こそ……」

 だが、水面は小刻みに波を作っていた。フィニエルが起こした波ではない。エリザが震えているのだった。

「お湯がぬるいですか?」

 そうではないはずだが、試しに聞いてみた。

「え? あ? はい?」

 やはりエリザからは、まともな返事が返ってこない。

「何をそんなに緊張なさっているのです? 初めての夜ではありますまいに」

 エリザの銀の髪を洗いながら、フィニエルは素っ気なく言った。


 かつて、フィニエルは、このようにしてもう何度もサリサのもとにエリザを送っていた。

 確かに初めての夜の時、まだ成長不充分なエリザは、かなり緊張していてとんでもないことをしでかした。が、もう充分に成熟している。

 あの頃、まさに花開くように……という表現が、エリザにはふさわしかった。

 お湯に温められてほわんとした顔は、普段よりもどこか夢見がちだった。フィニエルさえ、どきっとするほど、艶っぽい顔をしてみせたりもした。

 本人も気がつかないうちに、恋人をときめかせる準備をしているかのように。

 むしろ、あの頃のエリザは『夜』を楽しみにしていた。それは、子供を作るということよりも、サリサに大手を振って会いにいけるからだった。

 ところが、今はどうだろう?

 子供は欲しいけれど、まるで、サリサに会うことを恐れているかのようだ。


「初めて……ではない?」

 ぼんやりとしながらエリザは呟いた。

 また、忘れかけている。フィニエルは焦った。

 何か嫌なことを予感すると、エリザは無意識に自分に暗示を掛けて、過去の要因になることを忘れてしまうのだ。

 おそらくひどく嫌なことがあって、心を病みかけたのだろう。どうにか乗り越えたものの、二度と傷つきたくない、心を病みたくないという自己防衛が働いてしまう。

 だが、このままではいつまで経っても最高神官を受け入れられない。

「初めてではありません。あなたは、何度も最高神官とお会いになっていました。しかも、とても仲睦まじく……」

 フィニエルの言葉を、エリザは途中で遮った。

「一瞬を我慢すればいいのですね」

 エリザの顔には何の表情も浮かんでいない。その言葉には、すべてを遮断する壁のような強さがあり、さすがフィニエルも言葉が続かなくなってしまった。


 ――あれほど愛し合っていたではありませんか。


 その言葉をフィニエルは飲み込んだまま、エリザを八角の部屋に連れてゆくことになった。

 渡り廊下を歩きながら、エリザの顔がますます紙のように白くなっていく様子を、フィニエルは見ていた。気が抜けていって、まるで人形にでもなっているかのようだ。

 この調子で、はたして最高神官の想い通りの展開になるのだろうか? と不安がますます募る。



 重い扉を開けた時、さすがにエリザに驚きの表情が浮かんだ。

 暗いはずの部屋は明るく、心優しい香りが立ちこめている。歴代の巫女たちの声を吸い取った黒壁は白く、陰鬱な感じは消えている。

 銀色の目を見開いてあたりを見渡している様子から、これはうまくいきそう……と、フィニエルが思ったのは、ほんの一時だけだった。

 驚きの次に浮かんだのは、明らかに不安だった。

「こ……わい」

 かすかに揺れた唇から、エリザがそう言ったことがわかる。

「何が、です? こんなに明るい空間が? ですか?」

 エリザが怖がっているのは、闇のはず。何が怖いというのだろう?

 フィニエルの疑問に、エリザは答えることもなく、しっかりとした巫女姫の仮面をかぶり始めた。

「いえ……。大丈夫です。ちゃんとしますから」

 独り言のように、エリザは言った。

 フィニエルは、胸に手を当てて敬意を示し、部屋を出て行った。

 でも、きっと大丈夫ではないような、嫌な予感がする。


 初めてではない。

 愛し合っていた。


 だから、なのだ。

 闇以上にエリザが恐れているのは、その事実。

 その気持ちを認めてしまえば、おそらく正気を保っていられないから。

 心を病んでしまうからだ。


 八角の部屋の前で最高神官を待ちながらも、フィニエルはもやもやした気持ちになっていた。

 なぜ『愛し合っていたではありませんか』と、言えなかったのか?

 未分化な力を無意識に使うことほど、強い暗示はない。それが、自らの保身のためとならば、なおのこと。

 最高神官の暗示でさえ、滅多に掛からないフィニエルであるが、どうもエリザの暗示には弱いようだ。見事に口封じされてしまったらしい。


 いつもより心なしか早く、最高神官が現れた。

 今夜こそはどうにかしよう……という気持ちが、サリサをせかせているのだろう。

 フィニエルは、他の仕え人たちと同様に敬意を示して彼を見送った。だが、他の者たちよりも若干頭を深く下げ、目をつぶった。

 今夜だけは、サリサとは目を合わせたくはなかった。

 サリサが微笑みすら残して扉の向こうに姿を消した時、フィニエルは祈りたい気分にかられていた。

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