マール・ヴェールの石段(下り)3


 エリザは本を閉じた。

 今日選んだ本は、マール・ヴェールの手によるもので、古から伝わる祈り言葉の唱え方とその効用について、詳しく解説されていた。

 エリザが読むにはやや難しすぎた。だが、読書を中断したのは、お手上げだったからではない。何か急に不安な気持ちになったのだ。

 いてもたってもいられない。何かが足りないような……。

 気がつくと、陽はかなり傾いていた。

 いつもならば、フィニエルが夕の祈りの準備にくるはずの時間だった。時間に厳しい彼女が遅れるなんて珍しい。

 一人でいるのがきつくなって、エリザは昨夜同様、フィニエルの部屋を訪ねた。

 足早に部屋を出て、仕え人の部屋をノックする。

「エリザ様、遅くなって申し訳ありません」

 そう言って出てくるはずのフィニエルがいるはずだった。だが、反応はない。それどころか、部屋に人の気配がない。

 何か急な用事でもできて出かけているのだろうか? でも、今まで仕事を差し置いて無断で出かけることなどなかった。

 エリザは恐る恐る扉を開け、そっと部屋をのぞいてみた。

 几帳面に片付いた部屋。それは夕べと同じだが、どこかが違っている。あまりにも整然としすぎているのだ。

 そっと入ってみると、その人気のなさがより身に染みた。

 あまりにも、フィニエルの気が感じられないのだ。

「フィニエル? どこなの?」

 誰もいないはずの部屋で、エリザは声にしてフィニエルを呼んだ。

 もちろん返事はない。

 ますます不安になり、エリザは部屋の中をきょろきょろと見渡した。

「フィニエル、どこへ行ったの?」

 泣きそうな声で呟く。すると、何か気配を感じた。

 振り向くと、机の上に小さな本が置かれていた。

 しまい忘れた感じではない。きちんと机の真ん中に計ったように置かれていた。

 エリザは、そっと本に手を伸ばした。

 震える手でめくってみると、フィニエルのやや硬質な文字が並んでいた。だが、内容は日記にも似たややくだけた書き方で、エリザは少し面食らった。


『何から書こうか? ああ、そう……。私はエリザ様に嘘をついたことがある』


 え? と、思わず声が出てしまった。

 これはフィニエルの秘密が書かれているのだ。そう思った。

 個人的な日記を覗き見してはいけない。だが、自分の名前が書かれていては、次の頁もめくりたくなってしまう。

 その時だった。

「エリザ様、こちらにいらっしゃったのですか?」

 薬草の仕え人の声である。

 夢中になっていたので、扉が開いたことにも気がつかなかった。エリザは慌てて後ろ手に本を隠した。

「最高神官より、本日は巫女姫に休養を与えるとのお言葉をいただいて参りました」

「え?」

 そのようなことを言われるなんて、いったい何をしくじったのだろう? エリザは色々頭を巡らせた。まさか、人の日記を盗み読みしたからではないだろう。

 あまりにも後ろめたいところを見られてしまい、顔が真っ赤になっていた。

「あ、あ、あ、ごめんなさい。薬草の。夕の祈りの時間だというのに、フィ……私の仕え人がいなくて……さ、探していたのです」

 慌てての弁明に、薬草の仕え人は軽く頭を下げた。が、薬草の仕え人の言葉は、エリザの想像外のことだった。

「巫女姫の仕え人を探す必要はありません。ただ今より私があなた様の仕え人、巫女姫の仕え人となりましたので」

 突然の担当交代。エリザは信じられなかった。

「ど、どうして?」

「お気を確かにして聞いてください。あの方は、旅立たれたのです」


 旅立つ――。

 それは、ムテ人にとって死を意味する言葉である。


「嘘……」

「嘘を語ってどうするというのです?」

 エリザの手からフィニエルの本がばさりと落ちた。

 だが、薬草の仕え人――いや、新しい巫女姫の仕え人は、ちらりと一瞥しただけで、気にも留めなかった。

「最高神官サリサ・メル様より、もしも仕え人を悼む気持ちが強く、一人で祈りを捧げたいとエリザ様が望むなら、明日もお休みしてもかまわないとのお言葉を預かっております」

 エリザはフィニエルの死を信じることができなかった。

 昨夜、一緒に寝て……ずっと側にいてね、とお願いしたばかり。その翌日に旅立つなんて。

 気が遠くなる。何もかもが実感できない。

「エリザ様?」

 再び名を呼ばれて、エリザは失いかけた気を取り戻した。

「あの、いえ……。急なことで驚いただけです。今夜は、彼女のために一人、祈りを捧げます。でも、明日からは巫女姫の仕事に戻りたいと思います」

 自分でも信じられないくらい、ぺらぺらと言葉が口から飛び出ていた。頭の芯で考えたのではなく、口が勝手に動いている感じだ。

「明日から、よろしくお願いいたします」

 泣き叫びたいはずなのに、何を言っているのだろう? なぜ、お辞儀しているのだろう?

 あまりに冷静な自分の態度に、エリザは自分が信じられなかった。

 だが、エリザの巫女姫たる毅然とした対応に、仕え人は安心したらしい。

「かしこまりました。では、明日からよろしくお願いいたします。また、朝にお会いいたしましょう」

 彼女はエリザに敬意を示し、そのままフィニエルの……いや、明日からは彼女自身が暮らすだろう部屋をあとにした。


 一人になると、エリザはその場にへなへなと崩れ落ちた。

「嘘……。嘘に決まっている」

 それしか思いつかない。だが、同時にそのような嘘が、この霊山ではありえないことも知っていた。

 それにこの部屋。

 これは、フィニエルが次期巫女姫担当者のために片付けてしまったのだ。

 寝具はきれいに新しいものに取り替えられているし、私物らしい私物は日記らしき本しか見当たらない。

「どうして? 私を見捨てて逝ってしまったの……」

 涙が出てきた。

 エリザは落とした本に目を向けた。潤んでかすんで見える。

 この本を処分しなかったのは、フィニエルが次の担当者に引き継ぎたかったからなのかも知れない。でも、エリザにとって、これはフィニエルの形見でもある。

 エリザは本をひろい、よろよろと立ち上がった。

「私は巫女姫なのよ。悲しんでばかりはいられない。誰かに頼ってばかりでもいけない。がんばらなくちゃいけないのよ」

 そう言い聞かせた。

 その気持ちが、信じられないほどエリザを冷静にふるまわせていたのだろう。

「泣いちゃ駄目! 誰にも……弱っているところなんか、見せちゃいけないんだから。しっかりしなさい!」

 そう言いながらも、エリザはぼろぼろ泣いていた。


 部屋に戻り、エリザは再びフィニエルの本を読み始めた。だが、三頁ほど読んだところで本を閉じてしまった。

 きっと、フィニエルの死を知らなければ、罪悪感にかられながらも興味の方が勝ってしまい、徹夜してでも読んでしまっただろう。

 でも、今となってはあまりにも彼女を思い出してしまい、辛くて読むことができない。涙が止まらなければ、明日の朝、目が腫れて泣いていたことが知られてしまうだろう。

 エリザにとって、フィニエルの本は、厚くて難解なマール・ヴェールの本よりも読みがたい本となっていた。

「忘れよう……。忘れなくちゃ……」

 エリザは本を箱の中にしまい、それを更に机の引き出しにしまい、鍵を掛けて読まないようにした。

 そしてベッドに潜り込んだ。


 悲しいことはすべて忘れて感じないようにしなくちゃ……。

 それじゃないと、もうがんばれない……。

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