霊獣の夢
霊獣の夢・1
鼻をくすぐる甘い香りで、エリザは目を覚ました。
もう日は昇っている。リュシュが窓を少しだけ開けてくれたのだろう、レースのカーテンが風に舞っている。ややだるい体を起こすことなく、エリザはぼっとそれを見ていた。
霊山は夏だ。
暑いことは暑いのだが、朝は涼しい。しかも、今までいた巫女姫の母屋に比べて、かなり山を登ったところに家を建てたせいか、より涼しく感じる。
身重になったエリザは、霊山の決まりにしたがって巫女姫の母屋を出たのだ。さすがに薬草の宝庫である洞窟に住むことはなかったが、その近くに小さな小屋を建てて移り住んだ。
いわば、隠居……というか、一線を退いたわけであるが、霊山の束縛から逃れて、エリザはほっとしていた。
これから約一年間この小屋で過ごす。出産間近になれば八角の部屋に篭らねばならないが、それまで、そしてその後も、この小屋で霊山らしい空気を避けて過ごすことができる。
訪ねてくる者は、週一回、医者が検診に来るくらい、時にリュシュを手伝って、食事係りの者が食物を運びこむくらいだ。
エリザのほうも、たまに本などを探しに行くことがあるが、ほとんど篭って家の近くを散歩したり、のどかな日々を過ごしている。
そろそろ起きなくちゃ……と思っているところに、せわしいノックと同時に甘い香りの主が飛び込んできた。
「エリザ様! 今日こそばっちり! かなりいけてます!」
エリザの仕え人となったリュシュだ。今は、エリザとともにこの小屋に住んでいる。時々悪阻で具合の悪いエリザのために、日夜新しいお菓子を開発中である。
何せ食の細いエリザである。好き嫌いも多く、栄養価の高い舞米の粥は、自分で炊くのは得意なくせに、大の苦手なのだ。妊娠してからは、その臭いさえ嫌だという。
リュシュは、どうにか口に合うものをと、俄然張り切っている。
食事係としては有能なリュシュだが、巫女姫ミキアや最高神官の仕え人としては荷が重たかったのか、失敗の連続であった。
だが、エリザと二人になった彼女は、心なしかイキイキと仕事をしている。
エリザも、霊山の仕え人らしからぬ彼女が好きだった。リュシュのほうがはるかに年上なのだが、時々自分のほうがお姉さんにすら感じるほど、リュシュはそそっかしい。
だから、エリザも笑う回数がこのところ増えている。
朝の祈りのために祠に上がることは、もうない。一般人のような軽い祈りのあと、朝食をリュシュと食べる。
エリザは、シェールやミキア、そしてサラのように、母屋に下りて最高神官と食事することはなかった。もとより、身重になった者は、煮炊きまで別にすることになっていた。エリザはそれを守っていた。
規律に厳しく、というわけでも、最高神官を避けているわけでもない。
本当のことを言うと、大勢の人が出入りする食堂での食事は、エリザにとってはきつかったのである。
時々、サラの刺すような視線を感じることがあったし、仕え人たちの中でも未だにエリザをよく思っていない者がいる。
そのような目にさらされて気を病み、せっかく授かった神官の子供に何かあっては大変である。それに、食堂の味気ない食事よりも、ずっとリュシュの作る料理のほうが美味しかった。
本日の焼き菓子は、一口大のかわいい大きさである。黄金色の表面が艶やかであり、割ってみると中はふわふわ。生地に混じっている茶色の粒は、どうやら香り高い薬草らしい。
「リュシュ、これ、とっても美味しいわ!」
どうしても食べきることができない粥のかわりにリュシュの焼き菓子を食べて、エリザは思わず叫んだ。
「やっぱり、そうですかぁ! 私って、天才かも!」
リュシュはうれしそうだ。おしゃべりが続く。
「味だけじゃないんですよ! 不足しがちな栄養を考えているんです。赤ちゃんの骨になる成分とか。足りないと、エリザ様の身を削っちゃいますからね。それに、安産のための苦い薬湯があるでしょう? あの飲みにくいヤツですよ。あの薬石をですね、砕いて入れているんです。全然苦味がないでしょ? 信じられないでしょ?」
その薬湯は中毒症の予防になるので、飲むように強要されているものなのだが、エリザは無理に飲んで吐いてしまう事もしばしばだったのだ。
リュシュは、霊山に上がる前に、長年お菓子屋さんを三の村でやっていたらしい。当然、そのような過去は捨てるべきとされていたが、職人として誇りを持っていたリュシュは、納得していなかった。
エリザは少しだけ不思議に思う。
思えば珍しい人選である。なぜなら、霊山の仕え人と言えば、かつての巫女や神官など、聖職にあった者が大半だったからだ。
能力があるとはいえ、お菓子屋さんの経歴を持つリュシュは特別だ。しかも、彼女を選んだのは、前最高神官であるマサ・メルなのだから、当時は皆驚いたことだろう。
とにかくリュシュは、霊山の仕え人として厳しかったフィニエルと、まさに対照的。だが、今のエリザにとって、かつてのフィニエル同様、リュシュの存在は大きい。
それと、もう一人。
エリザにとっては、やや大きすぎる存在の人がいる。
午後、家の前に椅子を出し、エリザは読書していた。
その本に落ちる人影。ふと、頭を上げると、いつの間にか最高神官が目の前にいた。
「育児書ですか? 熱心なのはいいですが、読書の時間はおしまいですよ」
彼はくすくすと笑っている。
――どうしてこの方って、こうも気配を感じないのかしら?
エリザは、いつも突然の出会いに動揺するのだ。
昼の行のための衣装に身を包んでいるのは、いまや霊山では誰もが見て見ぬふりになった『昼の行のおさぼり中』であることを示している。
光を透過させてしまうような銀の髪。逆光で顔があまりよく見えないのだが、このような場面では、少しいたずらっ子のような顔をしている場合が多い。
この小屋に移ってから、サリサも最高神官という神々しい感じよりも、見かけ年齢相応の人に見えるから不思議だ。エリザの気の持ちよう……なのかもしれないのだが。
「いいものを見せてあげますよ。行きましょう」
エリザがうんともすんとも言わないうちに、彼はエリザの本を取り上げ、膝掛けも外してしまった。
手をとって立ち上がらせると、さっと椅子の上に本を置いてしまう。これでは、拒んで座ることもできない。
エリザが困っていると、部屋の掃除をしていたリュシュが窓から叫んだ。ちょうど空気の入れ替えをしようとしたところらしい。
「サリサ様! ちょうどよかったです! 今日はまれに見る大傑作の焼き菓子が……」
霊山の主要な施設から隔離されたこの小屋では、リュシュの口の利き方もますます友達言葉になってしまう。
それを怒ることもなく、甘いお菓子の誘惑に負けることなく、最高神官は返事をした。
「帰ってきてから。今は急いでいるから!」
そういいながら、膝掛けになっていた織物をさっと広げてエリザの肩に掛けた。夏ではあるが、風は冷たいのだ。さらに山を登れば、ますます空気は冷えるだろう。
エリザの服は、夏用で袖がなかった。布越しに肩を抱く最高神官の手を感じる。
「あの……どこへ?」
やや頬を染めながらも、やっと言葉が出た。
「いいものを見に……。楽しみにしてください」
今度はエリザにも最高神官のいたずらっぽい微笑が、はっきりと見えた。
足早に歩き出す二人。
いいのだろうか? と振り返るエリザの目に、小屋の戸口に箒を持って立っているリュシュがうつった。
「サリサ様ーぁ! 気をつけてくださいよぉ! 走らせたり、転ばせたり、お体を冷やしたり、しないでくださいよーぉ! エリザ様は大事な身なんですからねぇ!」
まさに、その通り。エリザは身重なのだ。
不安になって見上げると、最高神官も見つめ返す。この瞳に、エリザはドキッとする。
『見透かされる』という恐怖はなくなったものの、エリザには理由を見つけられない不安。その瞳に答えてしまったら、心臓が直ちに止まってしまうだろう……という恐怖だった。
すぐに目を外す。
「大丈夫。心配はないですから」
そう優しく返される言葉は、エリザの不安に対してなのか、リュシュの不安に答えてなのか……エリザはわからない。
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