忘れたい夜・3


 努力すればするほど、報われなかった時の虚しさは募るもの。


 エリザの姿を見たとたんに、サリサは落胆した。

 いつも以上にひどい放心状態に陥っていた。

 それでも部屋が明るいせいだろうか? いつもよりは顔色が良くなっている。それに、先月よりもややふっくらしたかも知れない。

 祈り所での過酷な日々は去り、エリザの健康状態は間違いなく良くなってきている。それに伴い、心の傷も……きっといつかは癒されるに違いない。


 サリサはそう信じたかった。

 苔の洞窟で会っているような錯覚に陥ったのは、むしろサリサのほうだったかもしれない。

 きゅっと抱きしめると、柔らかい。かつてのエリザだ。

 でも、触れあう心がまったく感じられない。

 これは、ただの空の器。エリザは体だけ残して、サリサの前から逃げ出している。

 それを、どうしたら引き戻せるのか……サリサには考えつかない。

 ただ、いつものように思い出話をし、エリザが耳を傾けてくれるのを待つしかない。


「初めて会った日のことを覚えていますか? あの苔の洞窟で……」

 あの時、二人で竜花香を集めようとして、たくさんの香り苔を採取した。その苔が、今この部屋で安らかな香りを発している。

 エリザは、思い出してくれるはずだ。

「あの時、私は……」

「他の人と同じに扱ってください」

 突然、エリザは話の腰を折る。

 実は、前回も前々回も同じ調子で話の腰を折られていた。


 フィニエルから『他の巫女姫と同じように』とエリザが言うのは、同じように子を得ていたならば幸せになれた……と、思い込んでいるからだ、と説明を受けていた。最高神官には『子供が作れなかった至らない巫女だと思われている』と思い込んでいるのだとも聞いていた。

 だから、その言葉をサリサは甘んじて聞き流していた。やんわりと時間を掛けて話し続ければ、誤解もいつか解けてゆくものだと。

 ところが、もう我慢の限界だったのである。

 必死な自分が惨めでかわいそうになってきた。

 なぜ、ここまで無視されなければならないのか?

 ここまで一生懸命わかってもらおう、思い出してもらおうとしているのに、なぜ、気持ちが伝わらないのか?

 何が足りないというのだろうか? 

 もはや、サリサには打つ手が尽きた。


「他の人と同じ……とは、どういうことです?」


 思わず本気で腹を立ててしまった。

 香り高い苔の中にエリザを押し倒した。リュシュの意見を尊重したわけではない。もっと子供っぽい気持ちからだった。

 どうにもうまく扱えないおもちゃを、腹を立てて床に叩き付けるような……そんな大人げない態度だった。

 安らかなはずの香りが、余計にサリサを焦らせた。

 苔の洞窟で、抱き合おうとした思い出が、サリサの中で蘇る。

 あの時、二人の心はなんと近かったことだろう? 

 だが今、頬を染めてサリサを見つめていたエリザはいない。恋する少女が知らぬ間にするような、誘いにも似た瞳もない。

 ただ、心を閉ざし、人形のようになすがままになるエリザがいるだけだ。

 この乱暴な行為にあっても、エリザは相変わらずぼうっとしていて、瞳はサリサを素通りしている。

 かつてサリサがエリザの胸に残した痕も、当然消えている。倒れた勢いであからさまになった胸には、何の印もない。

 抜け殻のままだ。

 ひどい拒否だ。

 この状態で、抱けと言うのだろうか?

 自分の腕の中にいるのに、どうして……という気持ちがこみ上げてきて、たまらなくなる。


 どうして?


 ただ作業のように結ばれてきた今までの巫女姫だって、もっと優しい反応を示した。まだまだましな夜を過ごしてきた。

 シュールは母のように優しかった。慣れてきたせいもあって、ミキアとは相性がよかった。サラは、ムテとは思えないほどの積極さで激しくサリサを求めた。


 愛はなくても好意はあった。

 だから、これほど虚しくはなかった。


 疑問を伴う悲哀は、憎しみにも似る。いや、サリサは本当にエリザが憎かった。

 心を込めて接しているのに、心を閉ざしてやり過ごそうとする態度が。

「他の人と同じにしてもらいたければ、同じようにすればいい……」

 その言葉を聞いて、初めてエリザがぴくりと反応した。虚ろだった瞳が大きく開かれた。

「……いや」

 というかすかな声が唇から漏れる。

 この時、何がエリザを呼び戻したのか、サリサは全く考えなかった。

 だが、サリサの心に一筋の希望の光が差した。

 いやであっても、とりあえず、エリザはサリサの言葉を理解した。

 気持ちが高まってくる。それは、少し残酷な気持ちだったかも知れない。

「何が嫌ですか? 望みだけ突き付けるなんて、卑怯です。抱かれたいなら、抱かれたいように態度で示したらどうです?」

 エリザの目が霊山に戻って以来、初めてサリサに向けられていた。

 驚いたように見開かれた瞳。それが、たとえ恐怖のためであっても、サリサが見たかったエリザの瞳に違いない。

 完全に上にのしかかった状態で、サリサはエリザの片手を掴んでいた。

 その手をゆっくりと自分の唇に持ってゆく。手から伝わる脈拍の速さは、明らかにエリザがここに戻ってきて、この現状に身をおいていることを示していた。

 サリサは自分の唇の上にエリザの指先を何度も往復させ、最後に軽く小指を噛んだ。無反応だったエリザの口がかすかに開き、小さな声が漏れたような気がした。

 久しぶりにエリザの存在を感じた。

 その指先を今度は頬に、首に……そして胸にと、ゆっくり這わせて下げてゆく。逆にますます体を預けるようにして、エリザの唇に迫った。だが、口づけすることはなかった。

 驚愕するエリザの唇からわずか……サリサは留まった。

「たとえば……あなたから口づけしてくれたらどうですか? 甘い声で愛のひとつでも呟いてくだされば、私は喜んで他の巫女姫と同じように、あなたを愛して差し上げます」


 ムテは生殖能力に乏しい種族である。だが、それを充分に考慮して、このような大事な夜は備えるものなのだ。この夜の前に薬湯で湯浴みするのは、体を清めるだけではない。

 だから、おそらくそのままことが進めば、サリサは無理やり目的を達したかもしれない。

 エリザを詰って、罵って……憎しみのままに、強引にすべてを奪っただろう。

 だが、そうはならなかった。


 ――喜んで他の巫女姫と同じように、あなたを愛して……。


「いやああああ!」


 けたたましい悲鳴とともに、エリザは暴れた。

 思いっきり振り回した腕は、見事にサリサの頬を打った。

 あまりの衝撃に、一瞬目の前が真白になった。痛みの衝撃か、精神的な衝撃かはわからないが。

 確かに、その瞬間、エリザはサリサの目の前にいた。

 だが、彼女が示したのは……信じられないほどの激しい拒絶であった。


 長い間待っていた瞬間――それは拒絶。


 これではあまりにも、残酷すぎる。

 あまりに自分が惨めすぎて、情けなくなって、泣きたくなった。

 だが、泣くに泣けない。エリザの前では……と、思った時。 

 じっと見開かれていたエリザの瞳が、ふっと宙を舞い……そのまま彼女は意識を失ってしまった。

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