忘れない夜・3
その夜を、幸せというのだろう――
サリサは、マール・ヴェールの祠で風に吹かれながら、フィニエルと交わした言葉を思い出していた。
――愛の見返りを期待しない。
それは、とても辛いことで、時にサリサを傷つける。
やっと時々、エリザと言葉を交わせるようになった。
サラがいる朝食の席には、やはりエリザは現れることがない。でも、昼に偶然を装って会うことができるようになったのだ。
洞窟で会ったり、マール・ヴェールの祠で話をしたり、多少物足りなさはあるけれど、サリサが望んだ日々が訪れた。
なのに、エリザの言葉には、サリサの気持ちを汲んでくれているふしがない。
『早く霊山を降りて、新しい人生を歩みたいです』
『故郷に帰る日が楽しみです』
などと、平気で楽しそうに口にしてしまうのだ。
今後の一生の中で、二人でいられるのはたったわずかだというのに、その貴重な時間を、彼女はちっとも大切に思っていない。
むしろ、耐えるべき試練だと思っている。早く過ぎ去ってもらいたい時間なのだ。
それを、聞いて辛くないといえば、間違いなく嘘になる。
エリザの言葉は、時としてサリサの胸に突き刺さる。
だが、その言葉を聞くたびに、サリサは祈り所の暗く重たい夜を思い出すのだ。
蒼白な死を帯びたエリザの顔を。
あの夜、どれだけ泣いたことか。どれだけ悔やんだことか。
エリザは、まだ癒されていないのだ。その苦しみを忘れさせてくれるのが、故郷に帰ることならば……。
その痛みは甘んじて受けようと思う。
風に銀の髪が舞う。
その風に逆らって、傷付け合うことをやめようと思う。
もう二度と、判断を誤らない。
もう二度と、わがままは、言わない。
エリザのために。
二人で過ごす幸せな日々が、もしも彼女にとって毒になるならば、すべて忘れてくれてもかまわない。
――僕は……けして忘れないから。
あの夜、長い躊躇のはてにしてくれた口づけは、蜂蜜の味がした。
何度も体を入れ替えて、何度も口づけを繰り返した。お互いの髪が、まるで糸のように絡まってしまい、繭玉のようになってしまうまで。
もどかしい髪。
エリザは、無理やり引っ張ってほどこうとしたサリサを制して、真剣な顔で丁寧にもつれた髪をほどいてくれた。
「髪を切っちゃいけませんから……」
最高神官の銀色の髪が、どれだけ大切なものなのか、エリザはちゃんと心得ている。
髪の毛にやきもちを妬いたわけではない。
でも、サリサはエリザの腕の間に潜り込み、白くて柔らかな胸に口づけした。
せっかくほどけた髪は、またお互いに絡み合う。髪だけではなく、腕も肢も身も心も、熱い吐息も……。
そして、朝まで何度も愛を重ねた。
どちらともなく、実に自然に、何の違和感も無く。
今から思い出しても、じんと胸が熱くなるほど、無我夢中で愛しあった。
――その夜を、幸せというのだろう。
サリサは、かつてのようにエリザの胸に印を残すことはなかった。
唇の感覚も愛撫も愛しあったことさえ忘れられても、その瞬間が自分にとっては大切なのだから。
思い出ほどあやふやなものはない。
時に毒となり、時に蜜となるならば――蜜だけ残せばいい。
自分にとって蜜であり、大切な思い出であったとしても、エリザに毒となる記憶ならば、何も残さなくてもかまわないと……。
そう思った。
そう割り切ろうと、心に決めた。
でも、その夜はエリザにとっても忘れることのない夜になったのだ。
彼女の中に、新しい生命を宿す夜となったのだから――
エリザがどれほど喜んだのか……は、簡単には説明できない。
巫女姫としての使命を果たし、霊山と決別するための鍵を手に入れたようなものだ。もう、彼女に祈り所の闇はない。
『フィニエルが授けてくれたみたい』
そう言ってはしゃぐエリザを見て、複雑な気分になったのも事実だ。
今度こそ、間違いなくエリザを手放す時が決められたのだから。
でも……。
エリザの子供は明らかに自分の子供だ。
それが、こんなにうれしいことだとは、実のところ思わなかった。
シェールやミキアやサラの子だって、サリサはかわいいと思っている。でも、それとはまったく違うのだ。
まだ見ない子供の姿を思い浮かべて、サリサは幸せな夢に酔う。
霊山を降りてしまったなら、もう二度と腕に抱けない子供であっても、今は幸せに思う。
エリザは、サリサにそっくりな小さな子供を、優しく抱きしめてくれるだろう。
それは、サリサが取り戻したい夢の一部だ。日々の生活にサリサの姿がないとしても、エリザはその子を見て、サリサを二度と忘れることはない。
――そして……あの夜のことも忘れ去られることはないのだ。
かつて、このマール・ヴェールの祠でエリザと口づけを交わし、一つの蜂蜜飴を分け合った。
その時に誓ったことを、サリサは改めて誓いなおす。
最高神官に家族はない。エリザも五才までしか子供を手元に置けない。
だが、サリサは、エリザとエリザとの間にできた子供を、家族としようと思った。
――たとえ、どのような制度であれど、血の繋がりは引き裂けない。
どのように遠く離れても、エリザと子供を守り続ける。
エリザの子供の父親になれること。その子のために祈れること。
それを喜びにできるよう――幸せと思おう。
=忘れない夜/終わり=
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