マール・ヴェールの石段(下り)4


 朝の祈りに向かう道、サリサはエリザの姿を見た。

 確かに、いつもとまったく変わらない。だが、まるで透けてしまうように頼りなく感じた。

 祈りに力が篭っていたのが不思議なくらいで、気力すら感じた。だから、余計に痛々しく感じる。

 朝食時に、新しくエリザの仕え人となった元薬草の仕え人と言葉を交わした。

「問題はありませんが……でも」

 そこで、言葉が途切れてしまった。サラが上機嫌で現れたからだ。

 仕え人は胸に手を当て敬意を示し、エリザのための食事をトレイに載せて運んでいった。

 彼女も、サラには用心しなければならないことを知っている。


 サリサは、サラのことを嫌っているわけではない。困っているだけである。

 気位の高い彼女にとって、サリサと子供のルカスだけが支えになっている。むしろ、かわいそうな人でもあるのだ。

 多くの事件を起こすたびに、何度も巫女姫不適として村に帰そうか……と思ったこともある。マヤに対する嫌がらせには、ついに声を荒げて怒ってしまったこともある。

 だが、サラは最高神官の娘。生まれた時から、村から多大な期待をかけられて育てられた、複雑な血筋を持っている女性だ。

 まさに神官の血のために生まれた存在であり、彼女もそのプライドだけを頼りに生きてきた。サリサには、とてもこの女性を追い返すことも、責めることもできなかった。

 突然重荷を背負わされて戸惑ったサリサには、彼女が生まれながらに背負った重みもよくわかる。

 それに、彼女はこの夏の終わりに村に帰ることが決まっている。

「サリサ様、お久しぶりですね」

 久しぶりに朝食に現れた最高神官に、サラは極上の微笑を投げかける。それに答えて、サリサも微笑んだ。

「ルカスは、どうですか?」

 子供の話をしていると、サラは機嫌が悪くならない。彼女はすっかり母親の顔になって、子供の事を話し出す。

 その時ばかりは、嫉妬に狂う女であることを忘れる。 




 睡眠不足のサリサは、昼の行をさっさと切り上げた。

 マール・ヴェールの祠を通って洞窟に降り、かすかに日差しを浴びて昼寝することにする。

 岩屋の奥からマール・ヴェールの祠に出ると、日差しがまぶしかった。


 ――何をしているのだろう?

 ぼうっと考えた。


 ――一体何をしているのだろう?

 サラのご機嫌を取るように、にこにこ過ごす朝。ただ過ぎてゆく日々。


 ――これが、何年間も待ち続けた日々?

 そして、今度エリザと過ごす夜が来たら、心を捨てる? そして、抱く? 道具のように。


 心を開いてもらえないといって苦しんでみたところで、何もいいことはない。

 ただ、血だけを分け与えればいい。子孫を残せばそれでいいのだ。

 前最高神官のように――などと考えて、サリサは朦朧とした。


 もしも、彼がフィニエルを手放さないために、子をなさぬよう押し留めていたのだとしたら?

 ムテは元々性的欲望が低い。簡単に制御できてしまう。逆に言えば、性的欲望よりも精神的欲望――独占欲のほうがよほど強いのだ。

 子供さえなさなければ、手放さなくてもいい。

 まさかとは思うが……ありえないだろうか?


 そうしようとすれば、サリサだって同じ方法が取れる。

 このままの関係が続けば、エリザに子供はできない。結局は、再び祈り所に篭って再び霊山に戻ってくる。

 でも、それはサリサによくてもエリザにはよくない。

 つまり、子孫を残すための道具のように抱くことが、一番彼女のためになるなんて。


 ――ひどい矛盾。


 頭がぼうっとするのは、フィニエルの本を読んだ寝不足のせいだ。

 サリサは涙目になりながら、何度目かのあくびをした。

 あくびをしたところで……時間が止まってしまった。

 急に緊張が走った。



 崖すれすれのところに人影があり、銀色の髪が風に舞う。

 背後に広がる風景は、ムテの村々の営み――風に負けて折れてしまいそうな細い体。

 五年間は、長かったのだ。

 夢だと思った。


「エリザ……」

 サリサは、その人の名を呼んだ。あまりにも懐かしい名前を。

 彼女は振り向いた。 

 マール・ヴェールの祠に風が吹く。風は凶暴だ。

 エリザの髪を激しく持ち上げ、時に大きな瞳さえ隠してしまう。大きな瞳には、涙がいっぱい浮かんでいた。

 幻かと思った。

 まるで、フィニエルの置き土産のように思えた。

 サリサは、エリザに手を差し伸べた。

「どうしたのです? そのようなところに立っていると、落ちてしまいますよ」

 自分の発した言葉に、一瞬、心臓が止まりそうになる。

 心病の時に見た夢に、あまりにも似すぎている。


 あの夢は――予知夢なのだ。


 サリサは躊躇した。

 一歩歩めば、エリザのほうは一歩後退する。

 足元がガラッと音を立てて崩れた。

「……ご、ごめんなさい。私、なぜ、このようなところに勝手に来てしまったのか……。気がついたら……」

 エリザは動揺している。

 落ちていってしまい、二度と戻ってこなくなる。

 下手な言葉や行動で、サリサは一生エリザを失ってしまうかも知れない。

 サリサの一歩は、エリザの一歩後退になる。どうしていいかわからずに、サリサは歩を止めた。

 なのに、エリザはまた小さな一歩で後退する。

「サリサ・メル様、申しわけありませんでした。お邪魔するつもりなんて、なかったのです。ただ……ちょっと……」

 そう言ったとたん、エリザの体は大きく傾いた。そのまま、崖へと。

「エリザ!」

 悪夢のことも、この空間に満ちている自分の力の存在も忘れて、サリサは駆け出していた。

 そして――エリザの腕を強く掴んだ。

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