遺言・6


 最高神官の祠は霊山最大の洞窟であり、かつてはマサ・メル様が住まいとしていた。

 あの方は、奥まった小さな場所に祈りのための場所を作り、そこから出てくることは滅多になかった。寝起きはまた別のところでしていたが、何か重要な話をする場合は、人をそこに呼び出した。

 そこに呼ばれたときは、常にいい思い出に繋がらなかったサリサ様にとっては、嫌な場所でもある。冷たい岩に囲まれて暮らすのを嫌い、祠に隣接させて木造の小屋を建てさせ、そこでほとんどをすごしている。

 だから、かつては仕え人なども一部出入りしていた洞窟のすべてが今はすべてが秘所であり、最高神官以外の立ち入りは禁じられている。

 でも、私にとっては、マサ・メル様と過ごした懐かしい空間である。


「別れを見送るのは……年々に辛くなるものです。ましてや、あなたとは付き合いも長かったし……」

 石段を降りながらも、サリサ様はつぶやいた。

 ムテの別れは、常に突然である。霊山にない者は、死を察知して約一年間で百歳の齢をとり、一気に死に至る。

 だから、誰もがその姿を人目にさらすことを嫌い、旅立つのだ。

 寿命が尽きた私などは、霊山を降りたらおそらく一日で骨になる。だが、その霊山の力を得ても、もう限界。

「せめてあと二年……いや、一年……」

 それは、エリザ様が山を下るまでの話をしている。おそらく、私の最期がこの時期になるならば、サリサ様は私をエリザ様につけなかっただろう。

 だからこそ、気取られないようにしていたのだ。

 私だって、エリザ様との再会を楽しみにしていたのだから。

「出会いがあれば、必ず別れはあります。サリサ様ともエリザ様とも、よいおつきあいができて、私は満足です」

 でも、最後まで仲睦ましいお二人を見届けられないのは、やはり心残りである。


 霊山の制度は、ムテには必要だ。

 と、同時に、サリサ様にはエリザ様が必要なのだから。


 奥の部屋の扉を開ける。

 ここしばらくは開けられていない。最後に開いたのは、サリサ様がマサ・メル様の死を確かめたときだ。

 サリサ様にとっては、マサ・メル様は唯一の存在。祖父にして尊敬する人物であった。だから、マサ様が散ったこの部屋に、彼は足を踏み入れたくない。

 顔を伏せているサリサ様に、私は今まで書き綴ってきた【覚え書き】を差し出した。

「私の……遺書みたいなものですわ」

 サリサ様は、不思議そうな顔をした。

 彼は、ずっしりとしたその本をぱらぱらと眺め、小さく息をついた。

「フィニエル、教えてください。あなたは、おじいさまを愛していたのではないのですか?」

 その質問は、今までも時々サリサ様の口から漏れたものだった。

 私は適当にごまかしてまともに答えたことがない。それは、答えたくなかったからではなく、私自身わからなかったからだ。

「いいえ、おそらく愛してなどいません」

 サリサ様は落胆する。

 マサ・メル様に一度も愛情を示されたことがない彼は、どこかでマサ・メルという人物の愛情や心の存在を見出したかったに違いない。

 私が嘘でもいいから「愛していました」と言えば、少しは彼の気持ちも楽になるのだろうけれど、そのような戯れ言は言う気になれない。


「サリサ様」

 私は扉を閉めようとして、最後にどうしても伝えなければならないことを思い出した。

 サリサ様は、やや落ち込んだ表情で、じっとこちらを見つめる。

 あまりによく似ている。

 でも、あの方にはこのような表情はなかった。ここまで素直なマサ・メル様を見ることができたなら、私の日々は変わったと思う。


「エリザ様は、あなたを愛しています」


 突然過ぎたのか、彼はぽかんとした。

「エリザ様は、あなたを愛しているのです。ただ……それを認めてしまったら、あの方は心を病んでしまうでしょう」

 一瞬、喜びとも悲しみとも取れない複雑な表情が浮かんだ。

「サリサ様にとって、思い出は今後の糧になるかも知れません。でも、エリザ様にとっては、思い出が甘ければ甘いだけ、毒となるのです。あの方は、あなたにはムテの宝玉である最高神官であってほしいと強く願うところと、唯一自分だけのものであって欲しいと狂おしく思うところとが、常に共存しているのです」

「フィニエル、私はいったいどうしたら……」

「わかりません。でも、あの方を追い詰めてはいけません。あなたが思っている以上に、エリザ様には霊山のすべてが堪えられないのです」


 サリサ様にはわからないかもしれない。

 サリサ様は、霊山をエリザ様が過ごしやすいようにと変革してきた。しかし、違うのだ。

 外から与えられる障壁――会えないことや、辛い祈り、厳しい規則が、エリザ様の苦悩ではない。

 内から沸いてくる葛藤――愛情を一人占めできないこと。お互いに一対ではありえないこと。わがままな思いを貫いたならば、誰もを不幸に巻きこんでしまうこと。必ず別れが伴う恋愛に、心を許すことが怖いのだ。

 サリサ様が最高神官であるかぎり、エリザ様は自身の気持ちを認めないだろう。とはいえ、最高神官を尊敬するエリザ様には、サリサ様に最高神官の地位を捨てて欲しいとも願えない。


 ただ、少女の淡い思いだけでは語られない、現実の厳しさ。

 エリザ様は目を塞ぐことで、その苦しみに耐えている。


「でも……。このままでは、私はあの人に触れることもできない。何もできないんです」

 扉にもたれるようにして、サリサ様は苦しそうに言った。 

 さらり……と、銀糸の髪が表情を隠してしまう。銀に透ける横顔が、一瞬別の人を思い起こさせる。

 だから、私は手を差し出し、その銀糸のヴェールを開いて、彼の瞳を覗きたくなる。

 その瞳はサリサ様だった。私はまだまだ正気らしい。

「エリザ様だけのあなたになれないならば、けして見返りを期待してはなりません」

「最後の最後まで、フィニエルって厳しい……」

 ぼそり……とつぶやく声を聞いて、私は笑ってしまった。

「サリサ様が最後の最後まで、甘えっ子だからですわ」

 と、言いつつ。

 私も、少しだけ素直になってみたくなった。

「マサ・メル様には、おそらく私が必要だったのだと思います。それが愛なのかどうかはわかりませんが……私たちはひとつ心を分け合う者同士だったと思いますわ」


 不思議なことに。

 言葉にしてみたら、心が軽くなったような気がする。


 ムテの制度では、最高神官は特定の相手を持つことはできない。

 でも、私は最後の最後まで、あの方の側にいた。確かにけして望ましい関係ではなかったが、私も側にいることを望んでいた。

 それは、やはり特別の相手と言えるのではないだろうか?

 そして、これからも……である。


「ひとつ心を分け合う者同士だったとしても、それじゃああんまりです」

 サリサ様は、まるで今にも泣き出しそうな、情けない顔をしている。親に見捨てられた子供のようだ。

 これだけよく似ているのに、まったく違う。

 マサ・メル様は常に無表情だった。

 でも、うちに秘めているものは、おそらくサリサ様とあまり変わらなかったような気もする。

 やはり、血が繋がっているのだ。

 私はお別れを告げて、扉を閉めようとした。サリサ様が名残惜しそうに手を挟むので、再び開けて彼の頬に口づけをする。

 思えば……マサ・メル様には、私から口づけの一つもしたことがない。

 マサ・メル様と同じ顔で、サリサ様も口づけを返す。

「名残惜しいけれど」

 耳元で囁かれた言葉に、私の返事は奇妙だった……。

「また、お会いできますね」

 少し記憶が混濁したのか、自分でも何を言っているのだろうと思ったのだが。

 弁解はせずに、私は扉を閉めた。


 私は消えるのではない。

 ただ、側にいるべき人のもとに行くだけだ――




=遺言/終わり=

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