霊獣の夢・2


 風は冷たいが、日差しはきつい。

 織布は温かいというよりも、程よく涼しかった。が、最高神官の手が触れているところだけ、妙に重たさを感じた。

 だからエリザは、早い足取りもあって、早々に息が上がってしまった。

「大丈夫ですか? もう少しですけれど……休みますか?」

「あ、あの……大丈夫です。先に行ってください。あの、私、一人で歩けますから」

「じゃあ、休みましょう」

 急いでいるはずなのに、お荷物の巫女姫に付き合って、最高神官はさっさと芝生に座り込んでしまった。さらにころりと寝転んでしまう。

 昼の行の衣装が……草露でだめになってしまうかも? などというエリザの心配も、最高神官はお構いなしなのだ。

 きつい日差しに照らされているせいか、風の冷たさに比べて地面はほんのりと温かかった。

 気持ちよさそうな最高神官の顔を見ていると、何だか妙に切なくなってしまう。

 エリザが山小屋に引越してから不安になる時といえば……どうしてなのか、最高神官の横にいる時だった。


 ――夜な夜な襲ってきた呪詛からも、この方は私を守ってくださっているというのに……。


 一緒にいられることがとてもうれしいのだけれど、いつまでも最高神官の慈悲に甘えて、すがっていていいのか……と、悩んでしまう。

 何か……後々悔やんでしまいそうな予感に、いつも戸惑ってしまうのだ。

「何も気にすることはないですよ。あなたも横になってみては?」

 目を閉じているくせに、エリザが不安げに見つめていることに、最高神官は気が付いたようだ。エリザの手を引いて誘う。

 恐る恐るエリザは横になった。抱き寄せるようにされて、心臓が激しく打った。


 いや。それは大地の躍動。薄めの衣伝いに響いてくる。


 霊山はまるで生きているかのようだ。

 不思議な感覚だった。隣の最高神官の存在も、大地に融けてしまったよう。そして自分も……。

 ただ、土となって草となって、空を見上げているようなのだ。そして、存在するすべてのものが、自分と一体になったよう……。

 空気の流れになって、リュシュが掃きだす埃すら感じるように思うし、大地伝いに霊山の仕え人たちの足音までも感じるような気がする。大げさだけど、さらに山を下って村々の営み、人々の吐息、あわただしさすらも聞こえてきそうな気になる。

 世界に吸い込まれ、消えはてて気の渦に溶け込んだよう……。

 その中で、エリザは地に育まれてまどろむ者の存在を感じた。

 目を閉じると……小さくて頼りないその者ではあるが、トクトクと鼓動を響かせている。


 ――そうだわ。私、お母さんになるんだわ。

 そう思ったとたん、感無量になった。


 突然、隣の最高神官が目を開けた。

 彼は、本来昼寝が必要な身である。死んだように気配がなくなっていたが、目覚めたとたんにエリザの横に戻ってきた。

「エリザ、起きれますか? いよいよ来ます」

 そういうと、彼はもう身を起こしていた。

「何が? です?」

 まだ大地に吸いつけられたまま、エリザは聞いた。首に回された手と、少し近くなった顔。ゆっくりと体を起こされる。

「霊獣です」

 エリザの横で膝をついて座っている最高神官の瞳が、やや鋭く光った。

 草原にざわり……と風が鳴る。

 だが、それだけだ。何も来る様子は感じない。

「あの、サリサ様。何が」

「静かに……」

 やや張り詰めた空気。それは、何かの予感というよりも、最高神官の張り詰めた気のせいかと思った……のだが。

 やがて、丘の向うから何かがちらりと姿を見せた。

 

 それは、生き物でもない。物体でもない。

 エリザに言わせれば、洗濯をした時にできて宙を彷徨う泡のような存在だった。


「三十年ぶりですよ。霊獣が現れるのは……」

 呟くように最高神官が呟く。

 かすかに興奮で震える声。この奇妙なものが、彼にとっては実に興味深いものなのだろうと想像ができる。

 彼はゆっくりと立ち上がった。

「いいですか? 走りますよ!」

「え? えええ?」

 エリザの返事など聞かぬうちに、彼はいきなりエリザの腕を掴んだまま走り出していた。

「えええええーーー!」

 エリザの声は、悲鳴になっていた。


 銀のムテ人は、本来足が速いわけでも、持久力があるわけでもない。

 だから、エリザが思った感覚は大げさなのだが……。だが、彼女にとって見れば、それはまさに風のごとく……だったのである。

 なだらかな丘陵である。とはいえ、坂を下ることで勢いはついていた。

 エリザの足は、時々大地を踏み忘れて空中を空回りした。草の波が渦を巻き、何だか酔ってしまいそうだ。

 ついに、エリザは転んでしまった。

 だが、地面に叩きつけられることはなかった。最高神官が身を挺してかばい、下になったからである。

 二人はころころとなだらかな斜面を転げ落ちた。走るより、よほど早かったに違いない。

 薄着なのに草の葉で怪我をしなかったのは、最高神官の結界のせいなのか、肩に包まっていた織布のせいか、それとも最高神官のありがたい長い衣装のせいなのかは、わからない。

 ただ、最高神官が、間違いなくリュシュの忠告を無にしたことは、事実である。

 だが、悪びれる様子もなく、空を向き転げたままで、彼は一言もらした。

「間に合った」

 その言葉が終わらないうちに、霊獣は丘の上に姿を現した。

 これが、獣といえるならば……だが。

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