マール・ヴェールの石段(下り)

マール・ヴェールの石段(下り)1


 最高神官の部屋は、驚くほどに狭い。華美でもない。

 これが、あの神々しいまでに聖なる人の住まわれる所か……と、誰もが驚くような空間だ。かつて、エリザが物置と勘違いしていたという事実も、当然といえば当然であるほどの外観であり、内装もその通りである。

 しかし、サリサはこの部屋が気に入っている。というか、他が気に食わないというべきかも知れないが。

 読み書きするためには、祠の奥にある書物庫を利用することもあるのだが、サリサはあまりその空間を好まず、できるだけ自室で何事もこなすようにしていた。

 元々空間のない場所に無理やり増設した木造の家屋だ。仕え人たちとの面談の空間を取ってしまうと、おのずとサリサ個人の空間はなくなった。

 サリサは面談の場においてある小さな机で食事をした。エリザを見守った窓も、この面談の場にある。

 そして、寝起きの場所といえばさらに狭い。薄い仕切りのような壁の向うに、ベッドと小さな引き出し付きの机がやっと置ける程度である。

 いや……もう一つ。リュシュが仕え人になってから、その狭い空間に踏み台が置かれた。ムテにしては背の低い彼女は、踏み台なしでは最高神官を着替えさせることができないのだ。

 サリサは、時に邪魔くさく思い、面談の場の机の下に押し込めるのだが、リュシュときたら、朝のたびにしまい忘れる。

 今もサリサは、その踏み台にうっかり足を引っ掛け、ベッドにばたりと倒れてしまった。倒れるほどの床もない。とにかく狭いのだ。

 サリサは、机の引き出しにフィニエルの『覚え書き』をしまった。


 リュシュに夕の祈りの衣装をつけさせながらも、別の仕え人を呼びつけていた。

 巫女姫の仕え人として、薬草の仕え人を任命することにしたのだ。

 彼女は、エリザとは霊山で一番付き合いが長いし、エリザの気持ちをよく理解している。フィニエルほどきつくはないが、霊山の理性を持った一人でもある。それに、かつての妊娠騒動の時以来、彼女は明らかにエリザとサリサの味方だった。

 霊山には、まだまだエリザを敵視している一派がいる。

 その中にも、シェールの改革についていけた者・いけなかった者がいて、一枚岩ではない。それに、世を捨てた彼らのこと、積極的な嫌がらせはない。

 だが、ムテ人の場合、そういう存在があるだけで精神的にきついものなのだ。しかも、サラというあからさまな存在も一人いる。

 エリザの精神的負担は大きい。

「まだ……私はお話も聞いていませんでしたゆえ……」

 薬草の――いや、新しい巫女姫の仕え人は、驚きながらも敬意を示して、仕事を請けた。

 その間に衣装は着替え終わり、今度は唱和の者たちが迎えに来る。

 せわしく、しかし、荘厳に……。最高神官は、夕の祈りに向かった。


 夕の食事も軽いものだ。

 祈りから帰ってくると、リュシュが準備しておいてくれる。これも食堂から運んできてくれるのだが、ついでにお菓子があるのがうれしい。

 なぜ、食事係のリュシュが、巫女姫の仕え人を経て最高神官の仕え人として選ばれたかといえば……単にサリサが甘いもの好きというところにある。

 だが、やはりそそっかしいのには、時々困ってしまう。

 休もうとして、ベッドに向かったとたん、サリサはやはり踏み台につまずいてしまうのだ。

 どうしてこうも、毎回片付け忘れてくれるものなのだろう?

 ため息をつきつき、踏み台を持って面会の場に運び、机の下にしまいこむ。


 そしてやっと……。

 忙しい一日を終えて、フィニエルの『覚え書き』に目を落とすことができる。

 大事な人に去られてしまった恐怖と対面し、悲しみを思い出す。

 ムテは死から遠い種族だ。いや、もっとも死を恐れる種族だとも言える。

 誰もがその悲しみに耐えられないので、寿命を迎えた者は、愛する人々の前から姿を消し、旅立つ。


 ――死とはなんぞ? その疑問だけを胸に。


 今まで何人見送ったことだろう? その度にサリサは自らも死に近づいたことを知る。心を落ち着けて対処できるようになったのは、五十歳を過ぎてから。

 それでも、マサ・メルに去られた時は、自分も消えていなくなりたかった。

 サリサは、蝋燭に火をつけて、ベッドに腰掛けて『覚え書き』を読み始めた。

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