忘れたい夜・4
「なんでサリサ様が、がつんとやられて帰ってくるんですか!」
冷たいタオルを差し出しながら、リュシュが怒鳴った。
見事に手のあとを頬に残してくれば、何があったのか誰にでもわかるだろう。だが、気が利く仕え人ならば、そのことには触れないでくれるものだ。
部屋に戻るなり、サリサはベッドの上に膝を抱えて座り込んでいるのだから。
「リュシュ、悪いけれど出て行ってくれませんか?」
タオルで頬を冷やしながら、サリサは訴えた。その顔色も、リュシュは計り違えてくれる。
「あ、お菓子ですね?」
「いらない」
甘党のサリサがお菓子を食べないとは、一大事なのである。やっとリュシュは察してくれた。
「さ、差し出がましいことを……。申し訳ありません」
しょんぼりして、リュシュは最高神官の部屋を出て行こうとした。
冷たいタオルが頬に気持ちがいい。サリサは少しだけ顔を上げて、低い背をますます低くしているリュシュの後ろ姿に声をかけた。
「リュシュ……」
しょぼくれた顔。リュシュには悪気はない。むしろ、サリサとエリザを常に応援してくれている。
「ありがとう」
自分の苦しみに押しつぶされそうになりながらも、やっとタオルのお礼が言えた。
リュシュはほんの少しだけ微笑んで出て行った。
悔やんでも悔やみきれない夜だった。
一人になると、サリサはますます落ち込んだ。
あれでは、まるで……他の巫女姫にしてきたことへの再現のように思われてしまっても仕方がない。
花の香りが、サリサを惑わしたのかもしれない。今まで堪えてきたものをすべて無にするような、ひどい行為だった。自分がここまで最低最悪な男だったとは、サリサは思ってもいなかった。
とはいえ、初めてエリザが自分の意思表示をしたわけなのだから、いい傾向なのかもしれない。
きっかけとはなり得ないだろうか?
――それが、激しい拒絶であったとしても。
サリサは翌日フィニエルを呼び出した。
そして『必ず』エリザをマール・ヴェールの祠まで連れてくるようにお願いした。
フィニエルは、サリサの顔をじっと見た。
一瞬、ひるんでしまった。昨夜の恥ずかしい出来事が、見透かされているような気がする。
まだ、手のあとが残っているのだろうか? それとも、昨夜のことをエリザが覚えていて、フィニエルに報告でもしたのだろうか?
サリサの動揺をよそに、フィニエルははっきりと聞いてきた。
「それは巫女姫への命令ですか?」
フィニエルにそう言われて、一瞬「はい」と言いかけて……サリサは口をつぐんだ。
無理強いしか歩み寄る方法がないとは、何とも虚しい。
「命令ではなく、お願いです」
「わかりました」
フィニエルは素っ気なく出て行った。
扉が閉まったとたん。
今度は横に控えていたリュシュが叫んだ。
「サリサ様! なぜ、命令しないんです? そんなの、また逃げられるに決まっています!」
まさにその通りである。
今の状態では、最高神官という権力を振り回し、命令するしかなさそうだ。
だが、それでは、エリザの意志を尊重することなく、無理矢理自分の想い通りにしようとする、昨夜と同じ態度である。
それに何の意味があるのだろう?
会いたいのは、エリザの器ではなく、エリザ自身なのだ。
「がつん! ですよ。がつんと! 少し乱暴でも押し倒せばいいんです!」
……だから、そうしてこうなったでしょう?
そう反論したいが、恥ずかしい夜の話をリュシュにも打ち明けたくない。
いや、さっさと忘れ去りたい。きっと何も覚えてくれていないだろうエリザがうらやましい。
嫌なことを忘れるというのは、確かにいいことでもあるのだ。
「あの人に無理強いはしたくないんですよ」
サリサの言葉に、リュシュは猛然と反論した。
「だから、サリサ様は優しすぎるんです! 巫女姫をつけあがらせているんです! もう! エリザ様はおいしいところ取りですよ。私、許せません!」
普段はリュシュの言葉にも寛大なサリサである。だが、さすがにエリザの悪口の様相を帯びてくると、気分が悪い。
ちらりと睨むと、リュシュはいきなり萎縮した。
「あ、わ、も、申し訳ありません。つい……。あ、あの、私、仕え人失格でしょうか?」
これはリュシュの口癖である。
「いいえ。リュシュは大事な仕え人ですから」
「そ、そう……ですか?」
「お菓子作りがうまいですからね」
「あ……そうですか……」
それだけではない。
リュシュくらいなのだ。霊山に籠りながらも、下界での生活をそのまま持ち込んで変わらない仕え人は。
一言一言に一喜一憂。感情を素直に表に出す仕え人は、他にはいない。
気が利かないけれど嘘のないリュシュの存在に、実はけっこう慰められていたりもする。
リュシュとお菓子の存在がなければ、サリサは消え去りたいほど憂鬱な気分で毎日を過ごしていることだろう。
「リュシュ。甘いものをやけ食いしたくなりました」
サリサがそう言うと、リュシュは顔全体で微笑んで部屋を飛び出していった。
自慢の焼き菓子をこっそりどっさり運んでくるに違いない。
とりあえず静けさが戻った。
一人になってサリサはふっとため息をついた。
エリザと話がしたい。
昨夜のことを詫びたい。
そして……。
エリザが呼び出しに応じてくれることを、サリサは信じたかった。
=忘れたい夜/終わり=
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