卿哉の昔の夢と目指す夢

「お前は誰だ!」


 精一杯の威嚇の声を挙げた。 その小さな身体のどこにそんな力があったのか。


 ズタズタにされた花壇の前に立つ少年の前に立った彼は自分よりも年長だというのに少し震えているようにも見えた。


 後ろにいる少女は前に見たときと変わらず、何の反応も示さず後ろで黙って立っている。


「お前は誰だと聞いているんだ!」


 小柄な身体に不釣合いな裁ちばさみを持ちながら少年はなおも彼に問いかけた。


「お花を切ったら…駄目だよ」


 なんとか搾り出した一言は予想外なもので、人形のような少女も驚いたように兄の前に立つ年長の彼を見つめている。


「お前には何も関係ない!早く出て行け!」


 癇癪を起こしたように裁ちばさみを振り回す。 それに少しだけ気圧されながらもなおも彼は言った。


「お花を切っても楽しくないでしょ?」


「う、うるさい!うるさいうるさい!」


 当時のことを思えば子供だった。 実際に子供だったとはいえ思い出しただけで恥ずかしくなる。 


 けれどその時の出会いは二度と忘れられない大切な出会いだった。


 ゆえに忘れることなど出来ない。 


 それは鈍い痛みにも似た恥と今も心を暖かくさせる大切な記憶だからだ。


 それがあったから成長できた。 あの人が居たから自分はこうなれた。


 だからこそ あの人を…俺はずっと。




「夢か…まったく」


 久しぶりにあの頃の夢を見た。 生まれに対する怨嗟と憤りに塗れていた頃の夢を。


 起き上がってカーテンを開ける。 


 見下ろした窓の下には花壇がある。 当時住んでいた頃の家の物とは大きさも違うが、植えられている花々たちは出来るだけあの頃のままを揃えた。


 花壇の向こう側には頑丈に拵えた大きな門があり、あとは家を囲うように築かれた高く冷たい硬質の壁だけが見える。


「ふん、結局は籠の鳥のままと変らないか」


 だがあの頃とは決定的に違うのは外と中を分断するようなコンクリートの壁と門。


 それらは彼自らがそうするように作らせ、そして自分の意思でこの家に住んでいるということだ。


 有原卿哉と真理沙の両親はすでにこの世にいない。 母は自分と真理沙を産んですぐに亡くなった。 


 父はしばらくは生きていたが、彼らが十歳の時に死んだそうだ。


 そうだというのは彼ら弟妹は実の父親とほとんど会ったことがない。


 母はかつて父の家に雇われていたメイドだったそうで、そこに父のお手付きになり彼と真理沙を産んだ。


 すでに結婚していた父は子供が宿ったことを聞くとすぐに母を解雇して十分の金を渡して別れたそうだ。


 その後もこっそりと金と住まいを与えてはいたようだが、他の家族や親戚のことを慮ってほとんど彼らに会おうとはしなかった。


 そう、名門有原家の性を受けながらも彼らは父の浮気の末に出来た不祥事の子供だったのだ。


 大きな屋敷に綺麗な花壇、そして面倒を見るように雇われた数人のメイドだけ。


 だが家族は居なかった。 育ててくれたメイド達もあくまで使用人として彼らに接し、少し懐いたとしてもすぐに転職して去ってしまう。


 まだ小さかった彼にとってはそれはひどく寂しいもので、そして理不尽なことに思えたのだろう。


 誰もが腫れ物に触るようにお愛想を浮かべ、あるいは下心を持って彼や妹に接し、それら全てを年齢に比して明晰だった頭脳で彼は理解していた。 


 それゆえに当時の彼の心を荒れさせ、妹を無感情にさせ、そしてそうなってしまう状況に対して新たに怒りが湧いてくる。


 悪循環だった。 その当時は血を分けた妹でさえ疎ましく思えて、辛く当たったことさえある。


 だが今は違う。


 夢の中の出会いからの五年は今までの人生を一変させた。 


 いや状況は変ってはいなかったが、一人だけ彼らの心を理解し、そのうえでやや口下手な『兄』が居てくれたことで鬱屈とした感情を氷解させてくれたのだ。


 幼心の全てを支配していた世界に対する憎しみを全てでは無いにしろ溶かしてくれた。


 このままずっと一緒に居られると思っていた。 


 だがその願いは唐突にぶち壊された。


「父が…?」


 その知らせは突然だった。 ろくに会ったこともない父が死んだと知らせが来たのだ。


 そのこと自体には何の感情もわかない。


 顔すらろくに思い出せないほどの父など何の意味も無い。 しかしその父がまたもや兄妹の運命を変えてしまった。


「名門の有原家に妾の子を入れるなんて…」


「まったく厚かましい!十分な金はやっていたというのに…このうえ、家まで欲しがるつもりか!」


 父の葬儀が終わった後に初めて対面した親戚連中は彼らの前で口々にそう罵った。


 もちろん面と向かっては言わない。 豪奢な椅子とテーブルに座った彼と血の繋がった一族達はその遺言を発表した弁護士や周りの者達とそう囁きあった。


 悔しかった。 腹が立った。 いっそこのまま世界が滅びてしまえとさえ思った。


 妹は心細そうに椅子の上で小さい身体を強張らせて目を瞑っている。 


 その光景がまた彼の憎悪を増幅させる。 


『お前ら、皆死んでしまえ!』  


 そう叫びたかった。 いやそう叫ぼうとした。


 それを何とか押しとどめたのは他でもない『兄』の言葉であった。




「口下手は変らんけどな…」


 その時のことを思い出して胸が熱くなる。 


 有原の家に連れて行かれる前にあったひと悶着の末、あの『兄』が着いてきてくれたことは生涯忘れることなどできない。


 『血の繋がった者』達が彼と妹を迷惑そうに口開いているのを『血の繋がらない兄』が守ってくれた。


 その日、彼らと彼は本当の『兄弟』となった。 


 全てを憎み、信用など出来ないと思っていた心。 それでもこの人だけは…と思え、心の底から尊敬出来たあの人のことを…。


「お兄さま…そろそろ登校の時間ですわ」


「ああ、今すぐに行く」


 部屋のカーテンを全て開け、壁にかけられていた制服を着こんだ彼はそう言って自室の扉を開く。


 そこには彼が愛するもう一人の家族が居た。


「お兄さま…例の件ですが二週間ほどかかるそうです」


「まったくまどろっこしい、なるべく早くと急かさないとな」


「書類の関係上、それが最も早いそうなのですが…いかんともしがたいですわね」


 あの頃とは似ても似つかない姿の少女に、同じように往年のそれとは違う自信溢れる所作で


「金はいくらかかっても良い。もう少し短く出来るようにねじ込んでみよう」


「お兄さまったら強引ですわね」


 そう答える妹の顔は晴れやかだ。 彼女もまた同じ考えなのだろう。


「当然だ!俺達が稼いだ金なのだ。誰にも文句は言わせん」


 そう答える兄を妹は頼もしげに見つめる。


 その瞳はかつての少年を見るときと同じように輝いていた。

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