有原兄妹の義兄 『有原兄妹と義兄、スーパー銭湯に行く プロローグ』
「はあ…」
誰かが小さく溜息をついた音が夜のオフィスに響く。
「どうしたの?溜息なんてついて…ずいぶんと疲れてるみたいだけど」
「えっ?俺、溜息なんてついてました?」
「自分ですら気づかないなんて…本当に疲れてるのね、まあ当然かもしれないけれどもう少しだから頑張りましょうよ」
そう励ます女性の表情にも僅かな疲労の影が見てとれる。
そしてそれ以上に溜息を吐いた当人はうつろな瞳をしていた。
そんな彼の机には書類と資料が山積みに積まれていて、このまま地震でも起きたら埋もれてしまいそうな光景である。
彼、佐脇宗雄が努める会社はただいま絶賛修羅場中であった。
まず既存の取引相手との仕事、そして新規に始まったプロジェクトの調整、さらに急遽発生したトラブル案件の処理が重なってしまったのだ。
ほんの半年前に業績不振で社名と経営陣がリニューアルされた会社と考えれば仕事があるだけマシだと考えるのは容易い。
けれど規模と社員の数で考えれば限界を超えた仕事量であることは事実でもある。
だがそれだけが彼を疲労させているのではない。
まだ役職すらついていない平社員の彼はある意味、この組織では一番重要な存在でもあった。
生来の真面目さと様々な気苦労によって鍛えられた彼のメンタルならば仕事だけならばこうまで疲労はしないだろう。
彼がもっとも頭を悩ませていること…それは…。
「それでどうにかなりそうなの?」
彼の同僚であり、先輩でもある熊倉涼子がマグカップに入れたコーヒーを手渡しながら問いかけると、
「発注は取り下げさせました。先方にも事情を説明してなんとか理解もしてもらえましたよ」
しがない中小企業には不釣合いな最高級品のコーヒー豆とこれまた本場ヨーロッパから直輸入させた高級エスプレッソマシーンで入れられたそれは焼き切れそうな脳内に優しく染み渡る。
「見積もり見て驚いたわ、予算数百万円の案件に億単位の資材を買い付けようとしてるんですもの…あの馬鹿…じゃなくて取締役がまたろくでもないことを考えてたことは間違いないわね」
彼女自身もここ最近の仕事量で荒んでいるのか?
言いかけた言葉以上に声には怒りが見てとれる。
「いつもすみません。最近じゃ正攻法だと無理だってことがわかって、通常の案件のどさくさに紛れさせるようになってしまって…」
その言葉の中には滴るような苦渋と謝意が込められていた。
「別にいいわよ、佐脇君が悪いわけじゃないし…良くも悪くもあの子達のおかげで業績自体は順調だしね」
「そう言ってもらえると…」
苦笑染みた宗雄の返しに涼子も困ったものね…という感情を込めた笑みで返す。
企業とは常に仕事と資本を循環させていかなければならない。
それはまるで止まれば死んでしまう回遊魚のような存在だ。
ことその点に関しては彼と彼女が働く会社の経営陣達は有能であることは間違いない。
だがその有能さの反面、普通ならばありえないような行動と考えをフォロー&制止していかなければならない立場の佐脇宗雄の大変さは他人から見れば哀れとすら思われることだろう。
「まったくお兄ちゃんは大変よね」
「まあ、昔からやってることは変わらないのでもう諦めましたよ」
その言葉には諦めとは少し違う健気とも言える覚悟も含まれているようにも聞こえた。
そう、佐脇宗雄はこの会社の取締役である取締役達の兄である。
それは実際に血が繋がっているのではない。
けらどそれよりも勝る精神的なつながりを持った人間。
宗雄とはまた違う立場で暴走しがちな取締役達を止めることの出来る存在でもある熊倉涼子はこの後輩に対して戦友のような思いを持っていた。
「それでも終りは見えてきたんでしょう?休日のときはゆっくり休みなさいな。そうだ!よかったらここにでも行ってきたら?」
そう言って涼子が一枚の紙を彼に手渡す。
「スーパー銭湯…ですか?そういえば駅前で工事してましたね」
それにはポップな字体でオープン日と特別割引五十%OFFと書かれていた。
「ええ、昼間に営業さんが持ってきてくれてね?良かったらご利用してくださいって何枚か置いていってくれたのよ」
「ありがとうございます。そうですね、オープンしたら行ってみますよ」
「たまには癒されないと身体が持たないわよ?それじゃあとひとふんばりしたら帰りましょう」
それだけ言うと涼子は自分の机に向かう。
宗雄は割引券をじっと見つめたあとにそれをポケットにねじ込んで仕事に戻るのだった。
それから数週間が過ぎた休日の午前中、彼は自室で寛いでいた。
仕事も昨日で一段落し、溜まっていた洗濯物もすべて窓際に干し終わった。
掃除はマメに少しずつしていたのですぐに終り、また特に購入するもの無い。
久しぶりにゆっくり出来そうだし、さて今日はどうしようかな?
テレビを見ながら、そんなことを考えていると指先に何かが触れた。
「あっ、そういえば行こうと思って忘れてたな」
呟いてからハッとして顔を赤らめる。
人間、歳を重ねていくと独り言が増えるそうだ。
それは一種の老化現象らしく、まだ二十代であるのに爺臭いことをしてしまったそんな自分が気恥ずかしく思えた。
「いかんいかん、まだ老け込むには早すぎだろ、幸いあいつらからも連絡が無いから行ってみるとしようかな?」
そう恥じているにも関わらず、また独り言を呟いてしまった青年はゆっくりと立ち上がり着替えはじめた。
それを当人も知らないところで聞いている人間がいることも知らずに。
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