【Y=4】矛盾を解くなにかを期待して
「それって、いつです!?」
「先週の平日の晩です」
「どこで!?」
「会社の近くの大通りです」
やはり全く心当たりがない。
「……とても綺麗な方と、非常に親しげにされていたと。手を繋ぎ、仲睦まじい光景を目撃した方がいました」
もう何を聞けばいいのかもわからず、言葉を失ってしまう。
「教えてくれた方は、私に対して告げ口をしたというのではありません。他愛もない世間話のなかで、あなたの名前が出てきました。なので、虚言である可能性は限りなく低いと思われます」
俺とMさんが付き合っていることは、会社では特に公言はしていない。
だから、きっとその人は俺のことを共通の知人ということで話を出しただけなんだろう。
「でも、本当に……心当たりがないんです」
なんとか言えた言葉は、たったこれだけだった。
お互いの言い分は平行線。
証明も反証もできない。
「なんか、俺、信用ないんですね」
弱音と嫌味とが混ざった、そんな情けない言葉を抑えられなかった。
うなだれて、溜め息を吐く。
「いいえ、それは違います」
Mさんの震える声に、はっとして顔を上げる。
「信用……しています。でも」
Mさんの頬から、涙が一粒こぼれる。
「だからこそ……どうすればいいのか、わからないのです」
ああ、そうか。
彼女の中で矛盾が発生している。
だから。
矛盾を解くなにかを期待して、俺に問い質したんだ。
信頼しているからこそ、真正面から聞いてくれたんだ。
こんな俺に、何ができるんだろう。
そんな俺は、何をすべきなんだろう。
目を落とすと、Mさんが書いたメモの文字が目に入った。
無矛盾性と完全性を目指したヒルベルト。
それらを
——もしかしたら、彼らから何かヒントをもらえるかもしれない。
なぜか、そんな予感がした。
「あの、もう一つの方を教えてもらえませんか」
「……もう一つとは?」
「“第二不完全性定理”の方を、まだ聞いてないです」
「そう、でしたね」
Mさんが自分の袖で頬をぬぐう。
「簡単に言うと“第二不完全性定理”は、こうです」
一呼吸を置いて、Mさんは流れるように言う。
「無矛盾な理論体系は、自身の無矛盾性を証明することができない、です」
Mさんは、いつもの冷静さを取り戻していた。
少なくとも、俺にはそんな風に見えた。
「あ、えっと、もう一回お願いします」
「ある理論体系に矛盾が無いとしても、その理論体系は自分自身に矛盾がないことを証明することができない、ということです」
俺の依頼に応え、Mさんは繰り返して説明をしてくれた。
心なしか、二回目は少し言葉が易しい気がする。
とはいえ、やはり簡単には理解できそうにない。
もちろん予想はしていたことではあるが。
俺もMさんのように一度深呼吸をして、頭を働かせる。
「えっと……『ある理論体系に矛盾が無い』っていうのは……このオセロのセットに“白”と“黒”が混ざったような石が入ってない、って感じですよね。で、『自分自身に矛盾がないことを証明することができない』ですか……。これは、どういう?」
「そうですね。ちゃんと一から説明をしましょう」
そう言うMさんの目は、いつものように好奇心に満ちてキラキラとしていた。
違うのは、ほんの少しだけ、目元が赤いことくらい。
「ヒルベルト・プログラムで行おうとしていた完全性と無矛盾性の証明というのは、数学そのものを扱う“メタ数学”になります」
そういえば、前に図書館でそんな話を聞いた。
“メタ数学”ってカッコいい名前だ、と思った記憶がある。
「“メタ数学”で用いる文脈は、『○○は奇数である』とか『○○は奇数ではない』など様々なものがあります」
そう言いながらMさんは、ペンを手に取った。
「そして、自己言及的な文脈を考えてみます。たとえば『○○は奇数ではない』の○○のところに、その文脈自体を入れてみるわけです」
Mさんは用紙に書き足し、こちらを見る。
———————————————————————————————
『「○○は奇数ではない」は奇数ではない』———————————————————————————————
「さて、これは“
「ええ? えっと、奇数って2で割り切れない数字ですよね。でも、『奇数ではない』っていう文は……2で割り切れません、よね。だから奇数では、ない?」
自分でも意味の分からないことを言っているような気がするが、Mさんは大きくうなずいてくれた。
「その通りです。『○○は奇数ではない』という文章は奇数ではありません。ですのでこの命題は“
なんだか引っかけ問題みたいな感じがするけど、なんとなくは理解できた。
「こういった『xはxである』のような自己言及が不完全性定理のカギになります」
自己言及。
そのなんでもないような単語が、頭のどこかで引っかかった気がした。
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