【Y=3】これらはきっと非線形のもの
Mさんの歌が終わる。
それは俺の想像を遥かに超えていた。
「め、めちゃくちゃ上手いじゃないですか!」
「どうも」
Mさんが恥ずかしそうに、マイクを机の上に置く。
「歌うのは、好きなんです。一人でもよく来ますし」
「まじっすか!」
世の中には一人でカラオケに行く人がいる、という話は聞いたことがあるが、まさかこんな身近にいたなんて。
「なにか問題でも? 歌うという行為自体を楽しんでいるわけであって、傍聴者の存在の有無は無関係かと」
「あ、いや、そうかもですけど……、そうなんですか」
「聴く人がいて初めて音楽が成立する、という観念論的な考え方も理解できなくはありませんけれども、私は実在論者なので」
いや、別にそこまで難しいことを考えているわけじゃないのだが。
「……とはいえ、誰かと一緒に来るのも楽しいものですね」
「そう、そうですよ。世代が同じだと、知ってる曲も似てますしね。そっちがこの曲歌うんだったら、こっちはこれを歌おう、みたいな遊びもできますし」
「これも一種のコミュニケーションなのでしょうね。映画もそうですけど、これらの関数はきっと非線形のもので——」
言葉の途中でMさんが黙り込む。
「どうしたんですか?』
「なんでも、ありません」
「ええ? なにか言おうとしてたじゃないですか。気になりますよ」
「気のせいです」
Mさん、歌は上手いけど、噓の方は下手すぎる。
「じゃあ、カラオケの採点機能で勝負しましょう。負けた方は、勝った方の質問に答えるということで」
「……いいでしょう。受けて立ちます」
さすがMさん。歌には自信がおありのようで。
でも、俺だってそう簡単には負けない。
「じゃあMさん、お先にどうぞ」
「いいんですか? 先攻の方がプレッシャーが無くて有利だと思いますが」
「俺はその間に曲を考えるんで」
「そうですか。では、お言葉に甘えて」
Mさんは迷うことなく曲を選び、歌い始める。
かなり前に流行した女性歌手のポップソングだ。
なるほど、これが
なら、俺も本気で考えないと。
アウトロが終わり、診断の画面に切り替わる。
画面に[89点]という数字が大きく映された。
「まあまあですね」
かなり高い点数だと思うが、Mさんは少し不満げだ。
普段はもっと点数が高いのだろうか。
聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で「素数なら+5点だとかルールを作っておけば良かった」とMさんが呟く。この人、意外と勝負に貪欲だな。
「次は俺の番です!」
俺の選曲は、これだ。
子供の頃に流行ったアニメの主題歌。この曲なら歌詞も見ずに歌える。
点数を計ったことはないが、単純なメロディラインに、シンプルな歌詞。
これなら良い勝負ができるんじゃないだろうか。
俺の熱唱のあと、短いアウトロも終わる。
俺もMさんも、固唾を飲んで画面を見つめる。
「よっしゃ!」
「……91点。すごいですね」
やった! 勝った!
「俺の勝ちですね。じゃあ、さっき何を言おうとしていたのか教えてください」
さっそく勝者の権利を行使する。
Mさんが言っていた内容ではなく、あの中途半端な態度が気になる。
きっと数学の話だったんだろうけれど、途中で話を止めるなんてMさんらしくない。
「……なにか、書くものを」
「あ、これでいいですか」
Mさんの要求に応え、ポケットの中の映画の半券を手渡す。
彼女はさっきと同じように、なにかを書き始めた。
———————————————————————————————
[線形性の関数]
映画(X①+X②)= 映画(X①)+映画(X②)
[非線形性の関数]
映画(X①+X②)≠ 映画(X①)+映画(X②)
———————————————————————————————
「映画も、カラオケも、非線形だったということです」
「え?」
なんだこれ。どういう意味だ?
「あとは自分で考えてください」
そう言ってMさんはリモコンで曲を入力し、歌いだした。
これ以上の質問は許可しない、ということなのか。
仕方なく俺はメモに目を落とし、Mさんの歌声をBGMに考えてみる。
これはこれで、なんだか贅沢だ。
ええと、まず左に書かれてある“映画(X①+X②)”っていうのは、X①とX②の両方を、映画っていう関数に入れたってことだ。つまり、X①とX②が一緒に映画を観たってことか。
あ、これって俺とMさんに置き換えていいのかな。
で、右の方には、“映画(X①)”と映画(X②)”を足している。別々に映画って関数に入れているわけだから、俺とMさんが別々に映画を観た場合って感じか。
で、その結果が同じなら線形で、結果が異なれば非線形。
さっき、Mさんは「映画も、カラオケも、非線形だった」と言っていた。
つまり、二人で一緒に行動することで、別々に行動することと異なる結果になった、と。
……ああ。
そういう、ことか。
Mさんが途中で言い
ちょうどMさんの歌が終わった。Mさんが俺の方にリモコンを置く。
どう答えればいいのか迷ったが、俺はなにも言わないことにした。
そのかわり、めちゃくちゃ甘いラブソングを入れることにした。
時間が来て、カラオケボックスを出たとき、お互い何も言わず、手をつないだ。
先週のデートとは違い、指をからませるように。
真っ白になりそうな頭で、これも非線形な関数っていうやつの結果なのかな、なんてことをぼんやりと思いながら、帰り道をゆっくりと歩いた。
Mさんは何も言わなかったが、たまに握り返してくれる指先だけで、もう十分だった。
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