【Y=4】存在するものとして無意識に

「じゃあ、Mさんは何派なんですか?」


 ついさっき聞いたばかりの“可能性としての無限”という解釈。

 俺としては十分に納得できるものだったが、Mさんはそのとは違うらしい。


「私は、“実無限じつむげん派”です」


 Mさんは水筒のふたをゆっくりと締めながら、俺の問いに答えた。


「現実の“じつ”に“無限”でです。を可能性として捉えると比べ、は明確です。が存在すると考えます」


 が存在する。そんな途方も無いことをあっけらかんと言う。


「あの、が存在するって、なんかおかしくないです? 全然想像つかないんですけど……」


 たまらず俺は率直に聞く。


「いえ、そんなことはないです。だいたいの人はをそこに存在するものとして無意識に考えていると思います」


 そんなバカな。

 さすがに納得ができない。


「そうですね……。あ、じゃあこれで」


 何かを思い付いたらしく、Mさんは手に持っていた紙を斜めに折り、余った部分に折り目をつけて器用に切り取った。


「これで正方形になりました。誤差は気にしないでください」


 気にするもなにも、何をしようとしているのかわからない。

 

「これを対角線で折れば、直角二等辺三角形のできあがりです」


 綺麗に折られたメモ用紙が俺に差し出される。


「この一辺いっぺんの長さを“1”としましょう。その場合、斜辺の長さはいくらになりますか?」


 さすがにこれくらいなら俺でもわかる。


「ああ、これは、あれですよ、あれ。2乗して足せばいいやつですよね」


「ピタゴラスの定理ですね」


 それだ。

 頭の中に公式を浮かべる。

 a×a+b×b=c×c

 今回、aもbも“1”だから、cの値は二乗して“2”になる数。

 つまり——。


ルート2です!」


「その通りです。そして、あなたも“実無限派”です」


「ええ?」


 Mさんが断言した。


「なんで? どこにもなんて出てきてないじゃないですか」


 俺は“√2”と答えただけだ。

 それなのに、なんでを存在しているものだと考えていることになるのだろう。


「大きかったり小さかったりするだけがではありません」


 Mさんはメモ用紙の切れ端に何かの数字を書き込み、それを俺に手渡した。


「えっと……、1.41421356?」


「“ひとよひとよにひとみごろ”。これ以上は覚えていませんが、このあともに続きます」


 聞いたことがあるフレーズをMさんが口ずさむ。


「“√2”を小数を使って表すとこのようになります。そして、これは無理数むりすうです」


「えっと……、無理数っていうのは?」


「分数では表すことのできない数です。逆に分数として表すことができる数は有理数ゆうりすうと言います。有理数と無理数を合わせたものが実数じっすうと呼ばれるものです」


 ふむ。高校生のころに授業で聞いたことがあるような、ないような。

 有理数は分数で表すことができる。無理数は分数で表すことができない。

 その両方を合わせた実数というのは、つまり全ての数、ということか。


「“√2”が無理数であるという証明は……本筋ではないので省略しましょう。もし気になるのなら、いま証明しますが」


「いえ、どうぞ。先に進んでください」


 Mさんが少し残念そうな顔をして俺を見る。

 本当は証明したかったのかもしれない。


「無理数と有理数との決定的な違いは、規則性です」


「規則性……?」


「さきほどの“ひとよひとよにひとみごろ”というのは“√2”の覚え方ですが、無理数はこのように不規則に続きます」


 なるほど。

 不規則だからこそ、覚えるために語呂合わせが必要になるのか。


「さて、この“√2”という数ですが、決まった値として存在すると思いますか?」


 俺の持つ二等辺三角形の斜辺を指差して、Mさんが楽しげに問う。

 彼女の指が、少し俺の手に触れた。


「存在……します、よね。だって、この辺の長さ、ですよね」


「不規則に、そしてに、続く数です。1/33分の1が0.333……と続くのとはわけが違います。小数点の先を予想することも、数え切ることも、できません」


 Mさんが念を押すように言う。


「それが無理数です。なのに、定まった値として存在すると解釈する。それはまさにの考え方に他なりません」


 そういうことになるのか。

 まさにがここに存在している。

 俺は無意識のうちに、そう考えている。


 そう思うと、なぜか少しドキドキしてしまった。

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