【Y=6】ときには直感とも戦うのです
「これは数学というより論理学の問題に近くなりますが——」
そう言いながらMさんはテーブルの上の紙ナプキンを一枚手に取った。
何かの絵をさらさらと書き、その紙ナプキンをこちらに見せる。
「数学や論理学では命題のなかでこのような関係性があります」
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●AならばB →[逆]→ ○BならばA
↓ ↘︎ ↓
[裏] [対偶] [裏]
↓ ↘︎ ↓
○AでないならばBでない →[逆]→ ●BでないならばAでない
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(※スマホの場合は横画面推奨)
「この対角線上にあるもの同士は必ず同じ真理値となります。つまり、もし左上の命題が正しいなら右下の命題も正しく、右上の命題が間違っているなら左下の命題も間違っていることになるわけです」
俺は黙って恐る恐るうなずく。
こんな図を高校生のときに教科書で見たことがある気がする。
「さきほどの『この店の紅茶は美味しい』という命題を厳密に表現すると、『この店で出された紅茶ならば、美味しい紅茶である』ということになります」
「ええと、Aが『この店で出された紅茶である』で、Bが『美味しい紅茶である』って感じですか?」
「ええ、その通りです。ではその場合、『BでないならばAでない』はどうなるか、わかりますか?」
頭の中で二つの文章の否定形を考える。
「えっと……『美味しい紅茶でないならば、この店で出された紅茶ではない』、でしょうか」
Mさんは満足したように微笑んで大きくうなずいた。
「正解です。つまり、『この店の紅茶は美味しい』の対偶は、『美味しくない紅茶は、この店の紅茶ではない』となり、その真偽は一致します」
言われてみれば、そんな気はする。
たしかに面白い話ではあるが、さっきMさんが言った重大な問題とどのように繋がるのだろう。
「では話を戻しましょう。さきほど、こう言われましたよね。何度も紅茶を飲んで、どれもが美味しい、と観察サンプルを増やせば増やすほど、『この店の紅茶は美味しい』という命題を帰納的に証明することに繋がるのではないか。と」
そんな難しい言い方はしなかったと思うが、まあそんなニュアンスだったのだろう。
「では、ここで先ほどの対偶を考えてみましょう」
Mさんが紙ナプキンの図をボールペンで指しながら、淡々と説明する。
「『この店の紅茶は美味しい』という命題を証明することと、『美味しくない紅茶は、この店の紅茶ではない』という命題を証明することは同じです」
「……ああ、そうか。真偽が同じということだから、どちらを証明してもいいわけですね」
「その通りです。数学においては、一つの命題を証明することが難しいときでも、その対偶を考えると簡単に証明できることが多々あります」
なるほど。対偶っていうのは、そういうときにも使えるのか。これは便利そうだ。
「もし、観察サンプルが増えれば増えるほど、正しい確率が増えるのだとすれば、『美味しくない紅茶は、この店の紅茶ではない』という命題の場合の観察はどのようなものになるでしょう」
「えっと……どこかで美味しくない紅茶を飲めば飲むほど、この店の紅茶ではない、という可能性が上がる……?」
「そうなりますね。つまり、対偶である『この店の紅茶は美味しい』という確率も上がることになりますよね」
「……なんかおかしくないですか? だって、外で美味しくない紅茶を飲めば、この店の紅茶が美味しい確率が上がるって、そんなのおかしいですよね」
「観察サンプルを増やせば確証に近付く、というのは直感的に正しいことのように思えます。ですが、論理を突き詰めるとこのようなパラドクスが生じてしまいます」
たしかにこれはパラドクスだ。明らかに矛盾している。
ということは、いくら観察をしても正しい確率は上がらないということなのか。
でもそれは直感的におかしい気がするのだが。
「数学においては論理が全てです」
俺が言いたかったことを感じ取ったのか、Mさんが言った。
「なので……ときには直感とも戦うのです」
そう断言したMさんは、なぜか少し寂しそうにも見えた。
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